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茶畑のひかりの梯子

 幹夫青年は、その日も静岡の町を、用もないのに歩いてゐました。

 まるで胸の中に、見えない荷車が一つあつて、そこに何か湿つた石が積まれてゐるみたいに、歩くたび「ぐう」と重くなるのでした。

 駅の方からは電車の音が「がたん……ごとん」と届き、青葉通りの街灯が「ぱちり、ぱちり」と点きはじめ、ショウウインドウのガラスが白くひかりました。

 けれども幹夫の胸の井戸の底は、どうしても明るくならないのです。

 ――ぼくは、いったい何をそんなに抱へてゐるのだらう。

 ふと気づくと幹夫は、バス停の前に立つてゐました。

 行き先の札には、丸子(まりこ)だの、賤機(しづはた)だの、藁科川(わらしながわ)だの、山の方の字が並んでゐます。幹夫はその字を見て、胸の重たい石がすこしだけ転がるのを感じました。

 やがてバスが来ました。

 バスは「ぶるる、ぶるる」と腹の中で唸り、扉が「ぷしゅう」と開いて、油の匂ひと、古い座席の布の匂ひが出ました。

 幹夫は乗りこみ、窓ぎはに腰をおろしました。

 バスは町を抜け、坂を上がり、道の両側の家が少しずつ低くなり、畑や林が見えて来ました。

 空はもう夕方で、青と紫の間の、たいへん薄い色になつてゐます。雲は、ちいさな綿の塊のやうに浮かび、その縁だけが、金いろに燃えてゐました。

 停留所で降りると、風の匂ひが変はりました。

 土の匂ひに、茶の葉の青い匂ひが混じり、そこへ遠い海の塩がほんの少しだけ刺さるのです。

 幹夫は細い坂道を歩き、曲り角をひとつ回つたところで、思はず立ち止まりました。

 茶畑(ちゃばたけ)が、目の前にひろがつてゐたのです。

 茶の低い木が、ずらりずらりと列を作り、列の間の土の溝まできちんと揃つて、まるで緑の波が、こちらへゆつくり寄せて来るやうでした。

 新芽はまだ柔らかく、葉の表がほのかに光つてゐます。風が吹くと、葉がこすれて、

 「さらさら、さらさら……」

 と鳴りました。

 その音は、紙の上に鉛筆で細い式を書いてゐるやうでもあり、遠いところで雨が降りはじめる前の、気圧計の針の音のやうでもありました。

 幹夫は畑の端の土手に立ち、しばらくその「さらさら」を聞いてゐました。

 すると胸の中の石が、少しだけ乾いて来るやうに思へたのです。

 そのとき、雲の切れ目から、まつすぐに光が降りて来ました。

 光は、ただ明るいのではありませんでした。

 光が一本の柱になり、その柱の中に、きらきらした粒が「しゅわ、しゅわ」と舞つてゐて、まるで透明な梯子(はしご)が、空から茶畑へ降りて来るやうに見えたのです。

 幹夫は息を呑みました。

 光の梯子は、畑の上に立つてゐました。

 梯子の段は、茶の列の上に、明るい帯と暗い帯を交互に作つてゐます。段は、ちやうど畝(うね)の曲線に沿つて、ふわりふわりと波打ちながら、空の方へ続いてゐるのです。

 幹夫は、思はず段の数を数へはじめました。

 「一、二、三……」

 ところが五つ目あたりで、段の光がふいに色を変へました。

 淡い黄いろ、冷たい青、緑がかつた白――段ごとに光の色が違ふのです。

 しかもその色が変はるたび、茶の葉がちいさく震へて、

 「さら……さら……」

 と、また別の音を返しました。

 幹夫が耳を澄ませると、その音の奥に、言葉のやうな節が混じつてゐました。

 ――ヨンハチゼロ。

 ――ゴーロクゴ。

――ロクハチマル。

 ――ヒカリ、ヒカリ。

 幹夫はびつくりしました。

 それは、どこかで見た数字でした。光の波長(はちやう)――理科室の黒板に書かれてゐた、あの数字。

 茶の葉は、光を数字で呼んでゐるのです。

 雲の切れ目がもう一つ広がつて、梯子はますますはつきりしました。

 そのとき、梯子のいちばん下の段が、ふうつと明るくなり、幹夫の足もとまで伸びて来ました。

 そして、その段の縁の光が、まるで口みたいに開いて、こんなふうに言つたのです。

 ――ミキオ。

 ――ノボレ。

 ――ヒカリ、ハコベ。

 ――チカイ トコロ へ。

 幹夫は胸がどきんとしました。

 のぼる――空へ行けと言ふのです。

 空へ行けば、胸の重たい石も置いて来られるかもしれない。

 置いて来られるなら、どんなに楽だらう。

 けれども幹夫は、その「楽」が、どこか危ない匂ひを持つてゐるのを知つてゐました。

 楽は、すぐ逃げ道になる。逃げ道は、いつも光の顔をする。

 幹夫は、いちど深く息を吸ひました。

 茶の匂ひが、肺のいちばん奥まで入つて、そこを青く冷やしました。

 それから幹夫は、そつと一段目の光の上へ足をのせました。

 「……しん」

 足の裏に、温かくも冷たくもない、ふしぎな感触が来ました。

 畳でも石でもない。空でもない。

 ひかりそのものが、やはらかい板になつてゐるやうでした。

 幹夫がもう一歩のせると、梯子の中の粒が一斉に舞ひ上がり、

 「ちりちり、ちりちり」

 と鳴りました。

 鳴つたのは音ではなく、光の粒の震へが、胸の骨へ伝はつたのです。

 二段、三段と上がるうちに、茶畑が少しずつ遠くなりました。

 緑の列は、だんだん細い縞になり、土の溝は消えて、かわりに「さらさら」の音だけが、ひとつの大きな波になつて残りました。

 空気が変はりました。

 湿りが薄くなり、かわりに冷たい透明が増えて来ます。

 雲の端がすぐ近くなり、その中に、氷の粉のやうなものが「ぱちぱち」と光つてゐました。

 幹夫が手を伸ばすと、その氷の粉は指に触れず、指のまはりでくるりと回り、

 「くるり、くるり」

 と、まるで小さな星の子どもみたいに笑ひました。

 そのとき、雲の向う側から、誰かの声がしました。

 ――コチラ、コチラ。

 ――ヒカリノ ツツミ。

 ――ハイタツ。

 幹夫が雲の切れ目をのぞくと、そこには、白い作業着を着た小さな者たちがゐました。

 小さな者たちは、雲の上に並んだ透明の箱を開けたり閉めたりしてゐます。箱の蓋には、細い字で、

 「四百八十」

 「五百六十五」

 「六百八十」

 と書いてあります。

 小さな者たちは、箱の中の光をすくひ上げ、茶畑の方へ、包みのやうに投げてゐるのです。

 幹夫は思はず尋ねました。

 「……それは、何の仕事ですか」

 小さな者の一人が、頭の上の雲帽子をちよつと上げて言ひました。

 「チャノハ ノ シゴト ハ

  ヒカリ デ ハジマル。

  ヒカリ ガ アレバ

  ミドリ ガ サトウ ヲ ツクル。

  サトウ ガ アレバ

  ヒト ガ アタタカク ナル。」

 別の小さな者が、指さしました。

 「ダガ、キョウ ハ

  クモ ガ オオイ。

  ヒカリ ガ カタヨル。

  カタヨルト

  アッチ ガ コマル。」

 幹夫が指の先を見ると、茶畑の端、溝の陰に、小さなものが丸くなつてゐました。

 それは、茶の葉の上で眠つてゐた蜂(はち)でした。

 羽が濡れて、もう飛べないのです。

 露が冷たくなり、蜂は震へてゐました。

 小さな者は言ひました。

 「ミキオ。

  ヒカリ ノ ハコ ヒトツ。

  アノ ハチ へ。

  オマエ ノ テ デ オロセ。」

 幹夫は胸がきゅうとなりました。

 蜂の小さな震へが、なぜだか、胸の井戸の底の震へと同じに見えたからです。

 幹夫はうなづきました。

 小さな者が、透明の箱の中から、淡い黄金の包みを一つ取り出し、幹夫の掌へのせました。

 包みは熱くありません。

 冷たくもありません。

 ただ、ふうつと、やさしい重さがありました。

 そして包みの中から、

 「しゅう……」

 と、湯気みたいな光の息が出るのです。

 幹夫は梯子を下りはじめました。

 降りるたび、光の段が足の下で「しん、しん」と鳴り、茶畑の「さらさら」がだんだん大きくなりました。

 畑の端まで来ると、蜂はまだ丸くなつてゐました。

 羽は露でべつたりと貼りつき、脚が小さく動いてゐます。

 幹夫は膝をつき、掌の光の包みをそつと蜂の上へかざしました。

 すると包みは、ふわりとほどけて、淡い黄金の梯子の一段ぶんだけが、蜂のまはりに降りたのです。

 「……しゅわぁ」

 露が音もなく薄くなりました。

 蜂の羽が、きらりとひかりました。

 蜂は一度だけ身体を伸ばし、それから、

 「ぶん」

 と低く鳴いて、ふらふらと飛び上がりました。

 飛び上がるとき、蜂は幹夫の鼻先をかすめて、茶の匂ひの中へ消えました。

 その「ぶん」が、幹夫の胸の底へ落ちて、石の上を転がるやうに「ころり」と響きました。

 幹夫は立ち上がり、空を見上げました。

 光の梯子はまだ畑の上に残つてゐましたが、雲が動くたびに段が薄くなり、だんだん消えてゆきました。

 松の葉のやうな風が吹き、茶の葉がさらさら鳴りました。

 そのさらさらの奥に、また言葉が混じりました。

 ――ヒカリ ハ トホク カラ キテ

 ――チカイ トコロ デ ツカハレル。

 ――ミキオ、ミキオ。

 ――ハコベ。

 ――タダシイ チカサ ヘ。

 幹夫は、しばらく畑の列を見つめてゐました。

 緑はただ緑で、列はただ列で、夕方はただ夕方です。

 けれどもその中に、いま確かに「梯子」が降り、確かに「ひかりの包み」が配られ、蜂が飛び立ちました。

 ――空へ行くことが、仕事ではない。

 ――空のひかりを、地べたへ持つて来ることが仕事なのだ。

 幹夫は、胸の中の重たい石を思ひました。

 石はまだあります。

 けれども石は、もうただの石ではなく、道具箱の底の重りみたいに、すこし役に立つ重さになつてゐるやうに感じられました。

 帰り道、畑のわきの坂を下りると、遠くに静岡の街の灯が見えました。

 灯は星のやうに点々として、風にふるへ、また整列してゐます。

 幹夫は、その灯の一つ一つが、いま茶畑の上に降りた梯子の続きみたいに見えました。

 幹夫青年は、ポケットに何も入れてゐないのに、掌がまだほんのり明るいやうな気がして、何度も掌を見ました。

 もちろん、掌は暗いままです。

 けれども暗い掌の中に、さつきの黄金の段の感触が、たしかに残つてゐました。

 そして幹夫は、小さく言ひました。

 「……あしたも、近いところへ、運んでみよう」

 風が「すう」と吹き、茶の葉が「さらさら」と返事をしました。

 それが返事でも物理でも、どちらでもよいと幹夫は思ひました。

 ひかりは遠くから来る。

 だが使ふのは、いつも、ここなのだ。

 
 
 

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