茶畑のひかりの梯子
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月22日
- 読了時間: 8分

幹夫青年は、その日も静岡の町を、用もないのに歩いてゐました。
まるで胸の中に、見えない荷車が一つあつて、そこに何か湿つた石が積まれてゐるみたいに、歩くたび「ぐう」と重くなるのでした。
駅の方からは電車の音が「がたん……ごとん」と届き、青葉通りの街灯が「ぱちり、ぱちり」と点きはじめ、ショウウインドウのガラスが白くひかりました。
けれども幹夫の胸の井戸の底は、どうしても明るくならないのです。
――ぼくは、いったい何をそんなに抱へてゐるのだらう。
ふと気づくと幹夫は、バス停の前に立つてゐました。
行き先の札には、丸子(まりこ)だの、賤機(しづはた)だの、藁科川(わらしながわ)だの、山の方の字が並んでゐます。幹夫はその字を見て、胸の重たい石がすこしだけ転がるのを感じました。
やがてバスが来ました。
バスは「ぶるる、ぶるる」と腹の中で唸り、扉が「ぷしゅう」と開いて、油の匂ひと、古い座席の布の匂ひが出ました。
幹夫は乗りこみ、窓ぎはに腰をおろしました。
バスは町を抜け、坂を上がり、道の両側の家が少しずつ低くなり、畑や林が見えて来ました。
空はもう夕方で、青と紫の間の、たいへん薄い色になつてゐます。雲は、ちいさな綿の塊のやうに浮かび、その縁だけが、金いろに燃えてゐました。
停留所で降りると、風の匂ひが変はりました。
土の匂ひに、茶の葉の青い匂ひが混じり、そこへ遠い海の塩がほんの少しだけ刺さるのです。
幹夫は細い坂道を歩き、曲り角をひとつ回つたところで、思はず立ち止まりました。
茶畑(ちゃばたけ)が、目の前にひろがつてゐたのです。
茶の低い木が、ずらりずらりと列を作り、列の間の土の溝まできちんと揃つて、まるで緑の波が、こちらへゆつくり寄せて来るやうでした。
新芽はまだ柔らかく、葉の表がほのかに光つてゐます。風が吹くと、葉がこすれて、
「さらさら、さらさら……」
と鳴りました。
その音は、紙の上に鉛筆で細い式を書いてゐるやうでもあり、遠いところで雨が降りはじめる前の、気圧計の針の音のやうでもありました。
幹夫は畑の端の土手に立ち、しばらくその「さらさら」を聞いてゐました。
すると胸の中の石が、少しだけ乾いて来るやうに思へたのです。
そのとき、雲の切れ目から、まつすぐに光が降りて来ました。
光は、ただ明るいのではありませんでした。
光が一本の柱になり、その柱の中に、きらきらした粒が「しゅわ、しゅわ」と舞つてゐて、まるで透明な梯子(はしご)が、空から茶畑へ降りて来るやうに見えたのです。
幹夫は息を呑みました。
光の梯子は、畑の上に立つてゐました。
梯子の段は、茶の列の上に、明るい帯と暗い帯を交互に作つてゐます。段は、ちやうど畝(うね)の曲線に沿つて、ふわりふわりと波打ちながら、空の方へ続いてゐるのです。
幹夫は、思はず段の数を数へはじめました。
「一、二、三……」
ところが五つ目あたりで、段の光がふいに色を変へました。
淡い黄いろ、冷たい青、緑がかつた白――段ごとに光の色が違ふのです。
しかもその色が変はるたび、茶の葉がちいさく震へて、
「さら……さら……」
と、また別の音を返しました。
幹夫が耳を澄ませると、その音の奥に、言葉のやうな節が混じつてゐました。
――ヨンハチゼロ。
――ゴーロクゴ。
――ロクハチマル。
――ヒカリ、ヒカリ。
幹夫はびつくりしました。
それは、どこかで見た数字でした。光の波長(はちやう)――理科室の黒板に書かれてゐた、あの数字。
茶の葉は、光を数字で呼んでゐるのです。
雲の切れ目がもう一つ広がつて、梯子はますますはつきりしました。
そのとき、梯子のいちばん下の段が、ふうつと明るくなり、幹夫の足もとまで伸びて来ました。
そして、その段の縁の光が、まるで口みたいに開いて、こんなふうに言つたのです。
――ミキオ。
――ノボレ。
――ヒカリ、ハコベ。
――チカイ トコロ へ。
幹夫は胸がどきんとしました。
のぼる――空へ行けと言ふのです。
空へ行けば、胸の重たい石も置いて来られるかもしれない。
置いて来られるなら、どんなに楽だらう。
けれども幹夫は、その「楽」が、どこか危ない匂ひを持つてゐるのを知つてゐました。
楽は、すぐ逃げ道になる。逃げ道は、いつも光の顔をする。
幹夫は、いちど深く息を吸ひました。
茶の匂ひが、肺のいちばん奥まで入つて、そこを青く冷やしました。
それから幹夫は、そつと一段目の光の上へ足をのせました。
「……しん」
足の裏に、温かくも冷たくもない、ふしぎな感触が来ました。
畳でも石でもない。空でもない。
ひかりそのものが、やはらかい板になつてゐるやうでした。
幹夫がもう一歩のせると、梯子の中の粒が一斉に舞ひ上がり、
「ちりちり、ちりちり」
と鳴りました。
鳴つたのは音ではなく、光の粒の震へが、胸の骨へ伝はつたのです。
二段、三段と上がるうちに、茶畑が少しずつ遠くなりました。
緑の列は、だんだん細い縞になり、土の溝は消えて、かわりに「さらさら」の音だけが、ひとつの大きな波になつて残りました。
空気が変はりました。
湿りが薄くなり、かわりに冷たい透明が増えて来ます。
雲の端がすぐ近くなり、その中に、氷の粉のやうなものが「ぱちぱち」と光つてゐました。
幹夫が手を伸ばすと、その氷の粉は指に触れず、指のまはりでくるりと回り、
「くるり、くるり」
と、まるで小さな星の子どもみたいに笑ひました。
そのとき、雲の向う側から、誰かの声がしました。
――コチラ、コチラ。
――ヒカリノ ツツミ。
――ハイタツ。
幹夫が雲の切れ目をのぞくと、そこには、白い作業着を着た小さな者たちがゐました。
小さな者たちは、雲の上に並んだ透明の箱を開けたり閉めたりしてゐます。箱の蓋には、細い字で、
「四百八十」
「五百六十五」
「六百八十」
と書いてあります。
小さな者たちは、箱の中の光をすくひ上げ、茶畑の方へ、包みのやうに投げてゐるのです。
幹夫は思はず尋ねました。
「……それは、何の仕事ですか」
小さな者の一人が、頭の上の雲帽子をちよつと上げて言ひました。
「チャノハ ノ シゴト ハ
ヒカリ デ ハジマル。
ヒカリ ガ アレバ
ミドリ ガ サトウ ヲ ツクル。
サトウ ガ アレバ
ヒト ガ アタタカク ナル。」
別の小さな者が、指さしました。
「ダガ、キョウ ハ
クモ ガ オオイ。
ヒカリ ガ カタヨル。
カタヨルト
アッチ ガ コマル。」
幹夫が指の先を見ると、茶畑の端、溝の陰に、小さなものが丸くなつてゐました。
それは、茶の葉の上で眠つてゐた蜂(はち)でした。
羽が濡れて、もう飛べないのです。
露が冷たくなり、蜂は震へてゐました。
小さな者は言ひました。
「ミキオ。
ヒカリ ノ ハコ ヒトツ。
アノ ハチ へ。
オマエ ノ テ デ オロセ。」
幹夫は胸がきゅうとなりました。
蜂の小さな震へが、なぜだか、胸の井戸の底の震へと同じに見えたからです。
幹夫はうなづきました。
小さな者が、透明の箱の中から、淡い黄金の包みを一つ取り出し、幹夫の掌へのせました。
包みは熱くありません。
冷たくもありません。
ただ、ふうつと、やさしい重さがありました。
そして包みの中から、
「しゅう……」
と、湯気みたいな光の息が出るのです。
幹夫は梯子を下りはじめました。
降りるたび、光の段が足の下で「しん、しん」と鳴り、茶畑の「さらさら」がだんだん大きくなりました。
畑の端まで来ると、蜂はまだ丸くなつてゐました。
羽は露でべつたりと貼りつき、脚が小さく動いてゐます。
幹夫は膝をつき、掌の光の包みをそつと蜂の上へかざしました。
すると包みは、ふわりとほどけて、淡い黄金の梯子の一段ぶんだけが、蜂のまはりに降りたのです。
「……しゅわぁ」
露が音もなく薄くなりました。
蜂の羽が、きらりとひかりました。
蜂は一度だけ身体を伸ばし、それから、
「ぶん」
と低く鳴いて、ふらふらと飛び上がりました。
飛び上がるとき、蜂は幹夫の鼻先をかすめて、茶の匂ひの中へ消えました。
その「ぶん」が、幹夫の胸の底へ落ちて、石の上を転がるやうに「ころり」と響きました。
幹夫は立ち上がり、空を見上げました。
光の梯子はまだ畑の上に残つてゐましたが、雲が動くたびに段が薄くなり、だんだん消えてゆきました。
松の葉のやうな風が吹き、茶の葉がさらさら鳴りました。
そのさらさらの奥に、また言葉が混じりました。
――ヒカリ ハ トホク カラ キテ
――チカイ トコロ デ ツカハレル。
――ミキオ、ミキオ。
――ハコベ。
――タダシイ チカサ ヘ。
幹夫は、しばらく畑の列を見つめてゐました。
緑はただ緑で、列はただ列で、夕方はただ夕方です。
けれどもその中に、いま確かに「梯子」が降り、確かに「ひかりの包み」が配られ、蜂が飛び立ちました。
――空へ行くことが、仕事ではない。
――空のひかりを、地べたへ持つて来ることが仕事なのだ。
幹夫は、胸の中の重たい石を思ひました。
石はまだあります。
けれども石は、もうただの石ではなく、道具箱の底の重りみたいに、すこし役に立つ重さになつてゐるやうに感じられました。
帰り道、畑のわきの坂を下りると、遠くに静岡の街の灯が見えました。
灯は星のやうに点々として、風にふるへ、また整列してゐます。
幹夫は、その灯の一つ一つが、いま茶畑の上に降りた梯子の続きみたいに見えました。
幹夫青年は、ポケットに何も入れてゐないのに、掌がまだほんのり明るいやうな気がして、何度も掌を見ました。
もちろん、掌は暗いままです。
けれども暗い掌の中に、さつきの黄金の段の感触が、たしかに残つてゐました。
そして幹夫は、小さく言ひました。
「……あしたも、近いところへ、運んでみよう」
風が「すう」と吹き、茶の葉が「さらさら」と返事をしました。
それが返事でも物理でも、どちらでもよいと幹夫は思ひました。
ひかりは遠くから来る。
だが使ふのは、いつも、ここなのだ。




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