草薙のポスト・一行だけの贈り物(舞台:静岡市清水区草薙)
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月26日
- 読了時間: 5分

幹夫青年は、草薙の駅前の風の通り道で、ポケットの中の紙を、指の腹でそっとなぞってゐました。 紙は薄く、まだあたたかくもなく、ただ「書かれないまま」の白さで、きちんと折り目を保ってゐます。
冬の空気は透明で、息を吐くと白い息がふうっと出て、街灯の白い光の中で一瞬ふくらみ、それから闇の方へほどけて消えました。 消えるのに、あたたかい。 そのあたたかさが、幹夫の胸の中の固いものを、ほんの少しだけ緩めました。
幹夫の胸の中には、ことばが並んでゐます。 並ぶといっても、星座のやうにきれいではありません。 どれも少し冷えて、角ばって、重くなって、ポケットの底の小石みたいにごろごろしてゐるのです。
――「遅い。」 ――「いまさら。」 ――「でも言はないと、もっと遅い。」
そんな見えない裁判官が、幹夫の胸の中で、こつこつ机を叩いてゐました。
幹夫は、駅前の角を曲がり、草薙の小さな文具屋の灯りの前に立ちました。 ガラス越しに、便箋や封筒や、季節のポストカードが並んでゐます。 カードの中には、富士山に赤い帽子が乗ってゐる絵もありました。 草薙の町は雪が降らないのに、雪の絵が売ってゐる――それが可笑しくて、幹夫はすこし笑ひました。 笑ふと、胸の裁判官の机の音が遠くなります。笑ひは、机の脚を一本外してしまふみたいです。
幹夫は、いちばん小さいカードを一枚買ひました。 小さいものは、長い説明を要求しません。 小さいものは、ただ持って歩けます。
店を出ると、風がすうっと通りました。 見えません。けれど通ったのが分かります。 なぜなら、幹夫の白い息が、いちどだけ斜めに引かれて、細い線になったからです。
(線……。)
幹夫は、その線を見て、ふいに理科の図を思ひ出しました。 光がまっすぐ進むときの、矢印の図。 矢印は一本で十分だ。 矢印が一本なら、迷はない。
幹夫は、駅前のベンチに腰を下ろし、カードを膝の上に置きました。 白い面が、ふいに「さあ」と言ひました。 白い面は、机の上の未返信の通知に似ています。 見れば見るほど、書けなくなる。
幹夫の胸の裁判官が、すぐに机を叩きかけました。
――丁寧に書け。 ――遅れた理由を説明しろ。 ――謝れ。 ――謝るなら、ちゃんと長く。
長く。 その「長く」が、幹夫にはいつも苦しくて、そして冷たくて、重たかったのです。 長いことばは、途中で凍ります。 凍ると、送る前に落ちます。
幹夫は、カードの白い面を見つめたまま、ふうっと息を吐きました。 白い息が、カードの上にいちどだけ落ち、すぐに消えました。 消えたあとに残ったのは、ほんのわずかな、ぬるい湿り気だけです。
(息は短い。 短いのに、あたたかい。)
そのとき、遠くで静鉄のベルが鳴りました。 ツン。 短い鋼の声。 長い説明が入りこむひまのない、一点の音です。
幹夫は、その音を聞いた瞬間、胸の中で何かがぱちんと弾けました。 弾けたのは、思ひ付きの火花です。
(ひとこと。)
草薙神社の樟の葉が「ひとこと」と言ってゐた夜のことも、草薙駅の時刻表が星座に見えた夜のことも、草薙の用水が水晶ラジオみたいにさらさら鳴ってゐた夜のことも、みんな一度に胸の中へ戻って来ました。 そしてどれも、長い説明をしません。 短い音と、短い光と、短い息で出来てゐました。
幹夫は、ペンのふたを外しました。 ペン先が紙に触れるとき、ほんの小さな抵抗がありました。 その抵抗は、雪を踏むときの「きゅっ」と似ています。雪のない草薙でも、紙の上には雪がある――幹夫はそう思ひました。
幹夫は、たった一行だけ書きました。
「元気でゐてね。草薙より。」
書いてしまふと、拍子抜けするほど、胸が軽くなりました。 一行は短い。短いから、嘘が入りません。 嘘が入らないから、こちらも立派な顔をしなくて済みます。 立派な顔をしなくて済むと、呼吸がよく通ります。
幹夫はカードをそっとしまひ、立ち上がりました。 歩くと、足音がこつこつ鳴り、冬の空気がいちど胸の中へ入り、また白い息になって出ました。 白い息は、まるで「送る練習」をしてゐるやうでした。
駅前の道を少し行くと、赤いポストがありました。 赤いポストは、夜の中でよく目立ちます。 赤は波長が長くて、遠くまで届く――幹夫は草薙の踏切の赤い光を思ひ出しました。 このポストも、遠くまで届く赤なのです。 赤い星みたいに、草薙の地面に立ってゐました。
ポストの口は細い横長の暗い穴で、そこだけが小さな宇宙の入口みたいでした。 幹夫は、その穴の前で、カードを両手で持ちました。 紙は、もう白いだけの紙ではありません。 一行の熱を持った紙です。
幹夫は、カードを差し込みました。 すると、ポストの中から、ごとん と乾いた音がしました。 鈴でもベルでもない、生活の音です。 生活の音は、妙にあたたかい。
その瞬間、幹夫は、ふしぎな光景を胸の中に見ました。 赤いポストの中には、見えない仕分け機があって、カードの一行を「波長」で分けてゐるのです。 長い説明は重くて落ちるけれど、一行は光の粒みたいに軽い。 軽いから、風に乗る。 風に乗って、草薙の夜を越え、どこかのポスト口へ、そっと滑り込む――そんなふうに。
幹夫は、ポストの赤を見上げました。 赤は黙ってゐます。 黙ってゐるのに、「届く」とだけ言ってゐるやうでした。
遠くで、また静鉄のベルが鳴りました。 ツン。 幹夫は、その音に、黙ってうなづきました。 胸の裁判官の机は、いま、叩かれてゐません。 机の上に、雨の点や、用水の銀の魚や、時刻表の星座が散らばって、裁判官はそれを数へるのに忙しいのです。
幹夫青年は、草薙の赤いポストへ、立派な手紙を投函したわけではありません。 ただ、一行だけを落としただけです。 けれど、その“一行だけ”は、白い息みたいに短く、短いのにあたたかく、そして赤い波長の道を通って、ちゃんと遠くまで届くのです。
草薙の夜の空気は透明で、ポストの赤は静かに燃え、 幹夫の胸の中では、小さな発車が、もう終わってゐました。




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