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 草薙の樟の銀河切符(舞台:清水区草薙)

 幹夫青年は、清水区草薙の駅前で、ずうっとポケットの中のスマホをあたためてゐました。 あたためる、といっても、指が冷えるので握ってゐただけです。けれどもその冷えた指のために、胸の中のことばがいつもより固くなり、固いまま、ひかりの下に並んでしまふのです。

 ――「いまさら送るのは遅い。」――「遅いのに送らないのは、もっといやだ。」――「いやだと言うのが、いちばんいやだ。」

 そんなふうに、幹夫の胸の中では、見えない改札が何度も閉まつたり開いたりしてゐました。

 駅前の電燈は白く、冬の空気は透明で、息を吐くと白い息がふうっと出て、すぐに暗い方へ解けて消えました。 その白い息は、まるで小さな雲の切れはしで、しかも雲よりずっと軽く、しかも雲よりずっとまじめでした。

 幹夫は、その白い息を見て思ひました。

 (息は、出たら消えるのに、あたたかい。 ことばも、こんなふうなら、いい。)

 そのとき、静鉄の方から、短いベルがきこえました。 チリンでもなく、ガランでもなく、ツン――と、まるで氷の粒が木の枝に触れたやうな音です。 音が短いので、長い言ひ訳が入り込むひまがありません。 短い音は、胸のなかの固いものへ、ちいさな穴をあけて、そこから空気を通してくれました。

 幹夫は、ふと、駅前の道を見ました。 古い道の名残りのやうに、どこかの家の塀が低く、路地が細く、灯りは高く威張らずに、ただ地面を照らしてゐます。 その灯りの下を歩くと、靴音が小さくなり、歩幅も小さくなります。 歩幅が小さくなると、胸の裁判官の声も、小さくなるのです。

 幹夫は、草薙神社へ行くことにしました。 信心のためではありません。 駅の白い灯が厳しすぎて、もう少し“にじむ灯”がほしかつただけです。

 道の途中、コンビニの前のガラスが、夜のひかりを薄く返してゐました。 その反射の中で、車のライトが一瞬だけ長く伸び、まるで銀色の川のやうに見えました。 幹夫は、その川を渡るやうに、神社の参道へ入りました。

 境内に入ると、空気がすこし変りました。 土の匂ひが濃くなり、木の匂ひが深くなり、音が少し遠くなります。 灯籠の灯は低く、星ほど遠くなく、電燈ほど厳しくなく、ちょうど「ここにゐる」と言ふ顔で、地面を照らしてゐました。

 そして、そこに樟(くす)の木がありました。 草薙の樟は、ほんとうに大きいのです。 幹夫がその下に立つと、自分の背中が小さくなるやうに感じます。 小さくなるのは、恥づかしいからではありません。 小さくなると、肩の力が抜けるからです。 (肩の力が抜けると、ことばの肩の力も抜けるのに。)と、幹夫は思ひました。

 そのときです。

 樟の葉が、ひとひら、幹夫のコートの肩へ、すうっと落ちました。 落ち方が、あまりに正確で、まるで駅の改札へ切符を通すときの、あの「カチリ」といふ正確さに似てゐました。

 幹夫は葉を取り、灯籠の灯に透かしました。 すると葉の筋が、銀色に光つて見えたのです。 葉の筋は、ただの筋なのに、まるで線路図のやうに、分かれたり、合はさつたりしてゐます。 幹夫はなぜだか、その葉を“切符”だと思ひました。

 (銀河の切符だ。)

 灯籠の灯が、葉の筋を通ると、筋の銀がほんの少し虹いろにほどけました。 理科の分光器で、白い光を細い帯に分けるやうに、葉はほんの一瞬、光を分けて見せました。 幹夫は、その虹いろの帯の中に、字のやうなものを見た気がしました。

 ――ひとこと。

 幹夫は、思はず樟の幹を見上げました。 もちろん、木がほんとうに字を書いたわけではありません。 けれど、樟の葉の筋と、灯籠の灯と、冬の空気の透明さが、たしかに「ひとこと」と言つてゐるやうでした。

 そのとき、参道の向うから、小さな足音が来ました。 ぱたぱた、と軽くて、急いでゐる音です。 見ると、子どもがひとり、手に小さな紙袋を持ち、顔をこわばらせてゐます。 紙袋の中から、赤いリボンが少しだけのぞいてゐました。 子どもは立ち止まり、あたりをきょろきょろ見回し、それから、今にも泣きさうな顔になりました。

 幹夫の胸の裁判官が、さつそく机を叩きかけました。

 ――関はるな。 ――面倒になる。 ――見なかつたことにしろ。

 けれど、樟の葉の切符が、幹夫の指の間で、少しあたたかくなつた気がしました。 (ひとこと。) 幹夫は、考へる前に言つてしまひました。

「こんばんは。どうしたの」

 自分の声が、境内の空気の中で、思つたよりやさしく響きました。 子どもはびくっとして、でもすぐに口を開きました。

「……これ、ママにあげるやつで……どこにゐるか、わかんなくなっちゃった」

 子どもの指さす方を見ると、参道の端の暗いところに、母親らしい人がゐました。 スマホの灯で地面を照らしながら、こちらを探してゐます。 その灯の円が、地面に小さな月を作つてゐました。

 幹夫は、子どもと一緒に、その月の方へ歩きました。 歩きながら、幹夫は、樟の葉の切符をポケットへ入れました。 切符は、どこかで改札を通さないといけない――そんな気がしたのです。

「こんばんは」

 幹夫が母親に声をかけると、母親は顔を上げ、子どもの姿を見て、ほっと息を吐きました。 その息も白く、すぐに消えました。 消えるのに、胸がふっとほどけるところは、白い息と同じでした。

「よかった……! ごめんね。……ありがとうございます、すみません……」

 母親の「すみません」は、重たい「すみません」ではありませんでした。 冷えた指先が、やっとあたたかいところへ戻つたときの「すみません」でした。 幹夫は、そこへ、樟の葉の切符のことを思ひ出しました。

 (ひとこと。)

 幹夫は、余計な説明をしませんでした。 ただ、笑つて言ひました。

「よかったです」

 それだけのひとことで、母親の顔が、灯籠の明かりみたいに柔らかくなりました。 子どもは紙袋を握りしめて、母親に渡しました。

「はい。メリークリスマス」

 子どもはそう言つて、少し照れくささうに笑ひました。 母親も笑つて、子どもの頭をなでました。

 幹夫は、その「メリークリスマス」を、胸の中で受け取りました。 口で言はなくても、受け取るだけで、胸の固いものが少し溶けるのを感じました。

 幹夫は、また樟の木の下へ戻りました。 樟の枝が、ざわり、と鳴りました。 鳴り方は、叱る鳴り方ではありません。 (さうだよ。)と答へたやうな鳴り方でした。

 幹夫はポケットからスマホを出しました。 画面の白い光は正確で、厳しく、何でも並べて見せる光です。 けれど、樟の木の下で見ると、その白さが一枚やわらぎました。 灯籠の低い光と、樟の葉の銀の筋が、白い光に“にじみ”を足すからです。

 幹夫は、長い文を書きませんでした。 長い文は、説明になり、説明は言ひ訳になり、言ひ訳は胸を冷やす――そのことを、幹夫はもうよく知つてゐました。 今夜は、切符が示した通り、ひとことだけでいいのです。

 幹夫は、たった一行、打ちました。

 ――「メリークリスマス。草薙の樟の下にゐます。元気でゐてね。」

 送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。 汽笛は鳴りません。 でも、白い息みたいに、あたたかいものが、ふっと動いたのです。

 幹夫は、樟の葉の切符を取り出し、根元の土の上へそっと置きました。 切符は返すのです。借りたものを返すと、また借りられる。 草薙の夜は、そんなふうに出来てゐる気がしました。

 境内を出ると、静鉄のベルが、また短く鳴りました。 ツン。 その音は命令しません。 ただ、(よし。)と言つたやうに、幹夫の胸に落ちました。

 幹夫青年は、草薙で大きな奇跡を見たわけではありません。 ただ、ひとことを言ひ、ひとことを送つただけです。 けれど、その“だけ”があると、駅前の白い灯も、少しだけ厳しくなくなりました。 草薙の風は、草を薙ぐだけでなく、言ひ訳もすこし薙いでくれるのです。

 
 
 

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