草薙の細い路地・猫のコンパス(舞台:静岡市清水区草薙)
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月26日
- 読了時間: 5分

幹夫青年は、清水区草薙の細い路地の口で、ふっと立ち止まりました。 路地は、昼に見るとただの近道なのに、夜に見ると、まるで地面がひそひそ話をしてゐるやうに見えます。 家の塀の影、植木鉢の影、自転車の影――それらがみんな、どちらへ曲がればいいかを、わざと黙ってゐるのです。
冬の空気は透明で、息を吐くと白い息がふうっと出て、街灯の白い光の中で一瞬ふくらみ、それからすぐ暗い方へほどけて消えました。 消えるのに、あたたかい。 幹夫は、また思ひました。
(ことばも、あれみたいならいい。 出て、消えて、でも少しあたたかい。)
けれど幹夫の胸の中のことばは、息みたいに軽くありません。 ポケットの中の石ころみたいに、冷えて、角ばって、並んでゐます。
――「遅い。」 ――「いまさら。」 ――「でも、言はないと、もっと遅い。」
そんな見えない裁判官が、幹夫の胸の中で、こつこつ机を叩いてゐました。 そしてその机の上には、草薙の路地の分かれ道が、地図みたいに広がってゐるのです。
幹夫は、右へ行ったり左へ行ったりして、いつの間にか同じ角へ戻って来てしまひました。 角の家の壁に、同じ傷。 同じ影。 同じ小さなポスト。 それを見ると、胸の裁判官が、得意げに言ふのです。
――ほら、迷ふ。 ――ほら、決められない。 ――ほら、遅れる。
幹夫は、ポケットの中でスマホを握りました。 スマホは冷たく、白い光は正確で、地図も方角も出してくれます。 けれど電池が、ひどく少ないのです。 赤い線が、一本だけ、やっと残ってゐる。 赤い線を見ると、人はなぜだか、胸が急ぎます。急ぐと、ますます迷ふ。
幹夫は画面を消しました。 そして、もう一度、路地の暗い奥を見ました。
そのときです。
路地のまんなかの、少し明るいところに、猫がゐました。 黒と白のまじった猫で、毛が冬の空気を吸って、ほんの少しだけふくらんでゐます。 猫の目は、街灯を拾って、黄いろいガラス玉みたいに光りました。
猫は、幹夫を見ても逃げませんでした。 逃げない猫は、どこかで「ここは安全だ」と決めてゐる猫です。 安全だと決めた猫は、だいたい、えらい。
猫は、ゆっくり歩きました。 歩き方が、あまりに正確で、幹夫にはそれが「測ってゐる」やうに見えました。 猫の足音は聞こえません。 けれど、猫の尾が、すうっと一本の線になってゐて、その線が、夜の空気に小さな矢印を描いてゐるやうでした。
猫は、ふいに立ち止まりました。 そして、ちょこんと座りました。
座った瞬間、猫の尾が、すっと地面に沿って伸びて、一定の方向を指したのです。 幹夫は思はず、息をのみました。
(コンパスだ。)
方位磁針――あの、丸い箱の中で、針がいつも北を指す不思議な道具。 幹夫は、理科の教室で見た、あの赤と白の針を思ひ出しました。 針は、誰も触ってゐないのに、きちんと北を指すのです。 地球の中の大きな磁石が、針を引っぱってゐるからだ、と先生は言ひました。
いま、草薙の路地で、猫の尾が針になってゐる。 猫の耳も、ぴんと立って、同じ方を向いてゐます。 ひげは、風を測る線になって、空気の見えない流れを描いてゐます。
(この猫は、地球の磁力線を見てゐるのかもしれない。)
幹夫は、勝手にそんなことを考へました。 考へた瞬間、胸の裁判官の机の音が、すこし遠くなりました。 理科のことを考へると、裁判官は、議事録の取り方が分からなくなって黙るのです。
猫は、尾で指した方へ、また歩き出しました。 幹夫は、なぜだか、ついて行きました。 ついて行くのは、誰かに命令されたからではありません。 猫の歩き方が、「迷ふ前に、ひとつ進め」と言ってゐるやうに見えたからです。
路地は曲がり、塀が続き、植木鉢が並びました。 古い自転車のベルが、風に触れて、ちりん、と鳴りました。 その音は短く、短いから、言ひ訳が入りこめません。 幹夫は、その短さが好きでした。
猫は、角でまた座りました。 そして、尾でまた同じ方向を指しました。 幹夫は、胸の中で小さく言ひました。
(北、だ。)
北、というのは、方角の北だけではありません。 迷ったときに戻る“基準”の北です。 胸の中でぐるぐる回ることばにも、北があればいい。 北があれば、いま自分がどこにゐるかが分かる。 分かれば、ひとつ動ける。
そのとき、路地の奥から、遠く、静鉄のベルの音が来ました。 ツン。 短い鋼の声。 猫の尾の矢印と、ベルの一音が、ぴたりと重なった気がしました。
猫は、ふいに、にゃあ と鳴きました。 鳴き方が、叱る鳴き方ではありません。 (こっち)といふ鳴き方でした。
幹夫は、その(こっち)に、胸の中のことばの北を重ねました。
(こっち。……ひとこと。)
幹夫は、路地の壁に手をついて、ふうっと息を吐きました。 白い息は、猫の目の光を少しだけ受けて、いちど淡い金色になり、それから闇へほどけて消えました。 消えるのに、あたたかい。 消えるのに、方向が残る。 幹夫は、それがたまらなく不思議で、ありがたいやうに思へました。
やがて路地は、ふっと開けて、少し広い道に出ました。 遠くに、草薙の駅の方の灯りが見えました。 駅前の白い灯は相変らず正確ですが、いまは厳しく見えません。 猫の尾の矢印を一度くぐったので、白い灯が「叱り」ではなく「目印」に変わったのです。
猫は、道の端の石の上に乗り、もう一度だけ、尾で北を指しました。 それから、何事もなかったやうに、闇の方へ消えて行きました。 消え方が、白い息に似てゐました。 出て、消えて、でもあたたかい。
幹夫は、ポケットからスマホを取り出しました。 電池はまだ赤い線のままです。 でも、赤い線が「焦れ」とは言ひません。 (いま、ひとつだけ)と言ってゐるやうに見えました。
幹夫は、長い文を書きませんでした。 猫のコンパスは、針一本で十分でした。 風も、ベルも、短い一音で十分でした。 なら、ことばも一行でいいのです。
幹夫は、たった一行、打ちました。
――「草薙の路地で、猫がコンパスみたいだった。元気?」
送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。 汽笛は鳴りません。 でも、迷ひの輪が、すこしだけほどけて、風が通りました。
幹夫青年は、草薙の路地で大きな奇跡を見たわけではありません。 ただ、猫の尾を針と思ひ、北をもらひ、ひとこと送っただけです。 けれど、その“だけ”があると、冬の夜はちゃんとあたたかい方へ進みます。 草薙の路地は今夜も細くつづき、見えない磁力線の上で、猫のコンパスが、ひそかに人の迷ひを整へてゐるのです。





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