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草薙の踏切・赤い光は海を思い出す(舞台:清水区草薙)

 幹夫青年は、草薙の踏切のところで、ぴたりと足を止めました。 止めた、といふより、足の裏が、まるで地面に「ここ」と書かれた紙を踏んだやうに、動かなくなつたのです。

 踏切は、夜の中で、きちんと働いてゐました。 白い棒が斜めに降り、赤い灯が、左右で交互に点滅し、 そして――カン、カン、カン と、金属の小さな鐘が、正確に鳴ってゐました。

 赤い灯は、ただ赤いのに、幹夫には、その赤がとても「遠い赤」に見えました。 たとへば、海の上の小さな浮標(ブイ)に付いてゐる灯。 たとへば、夜の港の端で、波の上に揺れてゐる灯。 草薙は海ではないのに、赤い点滅は、幹夫の胸のどこかから、海の匂ひを引っぱり出してしまふのです。

 幹夫は、ふうっと息を吐きました。 白い息が、踏切の赤い光を受けて、ほんの一瞬だけ桃いろに見え、それからすぐに暗い方へほどけて消えました。

 (赤は、波長が長い。) 幹夫は、なぜだかそんなことを思ひました。 理科の時間に、光には波の長さがあると聞いたことがあるのです。 長い波は、遠くまで届く。 だから赤は、海の上でも、遠くの船に「ここだ」と知らせるのだ、と。

 幹夫の胸の中にも、届かせたいものがありました。 けれど、それはいつも、胸の中で固まつてしまひます。 固まつてしまふと言葉は重くなり、重い言葉は、送る前に落ちてしまふのです。

 踏切の向う側に、ひとり、自転車の青年がゐました。 青年はハンドルに手をかけ、じっと線路の方を見てゐます。 その背中は、急いでゐるやうで、でも急いでゐない背中でした。 待つことを、ちゃんと待つ背中です。

 幹夫は、その背中を見て、ふいに思ひました。

 (待つのは、遅れることぢゃない。  踏切の前で待つのは、正しいことだ。)

 ところが幹夫は、生活の中で待つのが下手でした。 返事を待てず、気持ちを待てず、そして――送る言葉の形が整ふのを待てずに、結局、何も送らない。 送らないまま「いまさら」と言って、胸の中へ引き戻してしまふ。

 踏切は、そんな幹夫に向かって、赤い灯で言ってゐるやうでした。

 (待て。  待てるなら、渡れる。)

 そのとき、風が通りました。 見えません。けれど、通つたのが分かります。 なぜなら、踏切の棒に掛かつた小さな雨粒が、きらりと揺れて、赤い光を一度だけ拾つたからです。

 風は、土の匂ひだけでなく、ほんの少し潮の匂ひも運んで来ました。 草薙から海は遠いのに、潮の匂ひは、まるで郵便のやうに届くのです。 遠い海が、草薙へ電報を打つて来る――幹夫には、そんなふうに思へました。

 (赤い光は、海を思い出す。  海は、遠いのに届く。  なら、ことばだって……)

 その考へが、ここまで来たとき、踏切の向うから、小さな声がしました。

「すみません……」

 見ると、制服を着た女の子が、足元を見てゐました。 リュックの肩ひもがずれて、手袋が片方落ちたらしく、踏切の線のぎりぎりのところに、黒い手袋が転がつてゐます。 棒は降りてゐるし、赤い灯は点滅してゐるし、鐘は鳴ってゐます。 今は、踏切の「だめ」の時間です。

 幹夫の胸の裁判官が、すぐ机を叩きかけました。

 ――危ない。 ――関はるな。 ――面倒になる。

 けれど、踏切の赤い灯は、海の灯台みたいに、ただ点滅してゐました。 点滅は叱りではありません。 点滅は合図です。 合図は、こちらの手を正しく動かすためにあるのです。

 幹夫は、女の子に言ひました。

「待って。電車、来ます」

 自分の声が出たことに、幹夫は少し驚きました。 けれど驚きは、白い息みたいにすぐ消えました。 女の子は、こくりとうなづいて、手袋を見たまま動かずにゐました。

 線路の向うで、光が一筋伸びました。 列車の灯です。 灯が近づくにつれて、鐘の音が少しだけ大きく感じられ、空気の粒が、きゅっと締まるやうでした。 列車は、ゴトン、コトン と、夜の石の上を刻むやうに走り抜けました。 窓の中に、あたたかい光が並んでゐます。 その光の列が、幹夫には、小さな星座のやうに見えました。

 列車が通り過ぎると、風がもう一度通りました。 通る風に、車輪の音の余韻が混ざつてゐました。 余韻は、赤い灯の点滅と一緒になって、海の波のやうに思へました。

 やがて鐘が止まり、棒がゆっくり上がりました。 赤い灯も消えました。 消える瞬間、幹夫は、胸の中の何かが一緒に消えるのを感じました。 消えたのは、恐れの端っこの方です。

「いま」

 幹夫が言ふと、女の子は、線路の向うへ走る代りに、すこしだけ身を乗り出し――けれど、そこで止まりました。 踏切は開いたのに、女の子の足は、まだ怖がつてゐるのです。

 幹夫は、落ちてゐる手袋を見ました。 手袋は、黒くて、冷たくて、しかし「戻りたがる」形をしてゐました。 戻りたがるものを見ると、胸の中に火花が一つ跳ねます。

 幹夫は、渡りました。 渡つて、手袋を拾ひ、戻りました。 それは、大きな冒険ではありません。 ただ、踏切の「よし」の時間に、踏切の規則どほりに動いただけです。

「はい」

 幹夫が手袋を差し出すと、女の子は目を丸くして、それから白い息を吐きました。

「……ありがとうございます」

 その「ありがとうございます」は、赤い灯よりずっとあたたかい灯でした。 幹夫は、いつもの癖で「いえ」と言ひかけましたが、今日はそれを少しだけやめました。 草薙の踏切の規則が、幹夫に教へたからです。

 (長く説明しなくてもいい。  合図が出たら、渡ればいい。)

 幹夫は、ただ言ひました。

「よかった」

 女の子は、ほっと笑ひました。 笑ひは短い。短いから、ちゃんと届きます。

 女の子が去り、自転車の青年も渡つて行き、踏切の向う側の灯がまた静かに並び始めたとき、幹夫は、赤い点滅の残像を思ひ出しました。 赤は遠くまで届く。 遠い海の匂ひも、ここまで届く。 なら、ひとことだって、届くはずだ。

 幹夫はスマホを取り出しました。 画面の白い光は、相変らず正確で、すこし厳しい。 けれど、踏切の赤い残像が、画面の白にほんの少しだけ色を足してくれる気がしました。 白は、色を覚えるとやさしくなります。

 幹夫は長い文を書きませんでした。 踏切の赤い灯は、点滅で十分でした。 点滅は短い。短いから、遠くまで届く。

 幹夫は、たった一行だけ打ちました。

 ――「草薙の踏切。赤い光が海の灯みたい。元気?」

 送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。 汽笛は鳴りません。 でも、踏切の棒が上がるときのやうに、胸の中の見えない棒が、すうっと軽くなりました。

 幹夫青年は、草薙の踏切で大きな奇跡を見たわけではありません。 ただ、赤い点滅に海を思ひ出し、規則どほりに待って、渡って、ひとこと送っただけです。 けれど、その“だけ”があると、冬の夜はちゃんとあたたかい方へ進みます。 赤い光は消えても、遠い海の匂ひは残り、残つた匂ひが、次の「渡る」をそっと照らすのです。

 
 
 

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