草薙クラウド探偵団と消えた契約書
- 山崎行政書士事務所
- 5月13日
- 読了時間: 13分

――山崎行政書士事務所・開幕編――
草薙駅の改札を出て、商店街のアーケードを三分ほど歩くと、薬局と古本屋のあいだに、少し年季の入った三階建てのビルがある。
二階の窓には、白いカッティングシートでこう貼られていた。
山崎行政書士事務所契約書・許認可・補助金申請・その他、困った書類の相談
ただし、事務所の者たちは密かにもう一つの看板名を持っていた。
草薙クラウド探偵団。
名付け親は、事務員のさくらである。
「だって最近、紙よりクラウドのほうが行方不明になるじゃないですか」
そう言って胸を張ったさくらに、所長の山崎は湯呑みを持ったままうなずいた。
「なるほど。昔は契約書が机の引き出しに消えた。今は雲の中に消える。人間のやることは、場所が変わっても同じだな」
その日の午前十時二分。
事務所のドアベルが、いつもより切羽詰まった音で鳴った。
入ってきたのは、地元IT企業・駿河ソフトウェア株式会社の営業部長、川辺だった。額には汗、手にはノートパソコン、背中には「この世の終わり」と書いてありそうな空気を背負っている。
「山崎先生、助けてください」
山崎は茶請けのせんべいを一枚つまんだ。
「まず座りましょう。助かる話も、座ったほうが助かりやすい」
川辺は椅子に腰を落とすなり、声をひそめた。
「契約書が消えたんです」
「どの契約書ですか」
「業務委託契約書です。明日の朝、発注元との説明会に持っていくはずだったものです。共有フォルダに入れてあったのに、契約書だけが消えたんです」
「だけ?」
契約書担当の悠真が、手元のペンを止めた。
川辺はうなずいた。
「見積書も、仕様書も、議事録も、請求予定表も残っています。消えたのは、契約書だけです」
事務所の奥で、ノートパソコンを開いていた陽翔が、画面から目を上げた。
「共有フォルダって、Microsoft 365ですか?」
「はい。Azureのアカウントで管理していて、SharePointに置いてあります」
陽翔の口元がわずかに上がった。
「じゃあ、雲に足跡が残っているかもしれません」
さくらが小さく拍手した。
「出た。陽翔くんのクラウド刑事モード」
「刑事じゃないよ」
「じゃあ、雲取物語?」
「余計にわからない」
山崎は、ふたりのやり取りを聞きながら、川辺に静かに尋ねた。
「川辺さん。その契約書、消えたら誰が困りますか」
川辺は即答した。
「うちです。納期が遅れたら、損害賠償の話になります」
悠真の目が鋭くなった。
「損害賠償条項があるんですね」
「はい。たぶん」
「たぶん?」
「契約書が消えたので、確認できないんです」
沈黙が落ちた。
窓の外を東海道線の電車が通り過ぎる音がした。
山崎はせんべいを湯呑みの横に置いた。
「では、契約書を探す班と、契約の中身を探す班に分かれましょう」
陽翔がうなずいた。
「僕はAzureの監査ログを見ます」
悠真は鞄から赤ペンを取り出した。
「僕は契約構造を追います。検収、再委託、損害賠償。この三つが怪しいです」
さくらはメモ帳を開いた。
「私は、お茶と勘違いを担当します」
「勘違いは担当しなくていい」
悠真が即座に言った。
だが、その日の夕方。
事件を解く最後の鍵になるのは、まさにその勘違いだった。
陽翔は川辺のノートパソコンを借り、管理者権限を持つ総務の北川にリモートで同席してもらった。
Azureの監査ログには、冷たい文字列が並んでいた。
誰が、いつ、どこから、何に触ったか。
人間は言い訳をする。ログは言い訳をしない。もっとも、ログもまた、人間が読めば誤解される。
陽翔は画面を指でなぞった。
「ありました。昨夜二十三時五十八分、川辺さんが契約書を開いています」
川辺の肩が跳ねた。
「開きました。最終確認のために」
「そのあと、零時二分にファイル名が変更されています」
「変更?」
陽翔は読み上げた。
「業務委託契約書_最終版.docx から、業務委託契約書_最終版_確認済.docx」
川辺は眉を寄せた。
「それは……たしかに私です。確認済みにしようと思って」
「その三分後、零時五分。FileDeleted」
北川が画面越しに息をのんだ。
「削除者は?」
陽翔は一拍置いた。
「北川さんのアカウントです」
事務所の空気が、すっと冷えた。
画面の向こうで、北川の顔色が変わった。
「違います。私、その時間は子どもを寝かしつけていました。パソコンも開いていません」
川辺が立ち上がりかけた。
「北川さん、まさか」
「待ってください」
陽翔の声が低くなった。
「ここ、操作元が端末じゃありません。Power Automateです。北川さんのアカウントで作られた自動処理が動いている」
「自動処理?」
「はい。ファイルに特定の条件がそろうと、共有を外したり、別フォルダに移動したりするフローです」
さくらが目を丸くした。
「つまり、北川さんの分身が夜中に働いたんですか?」
「言い方は怖いけど、だいたいそう」
北川は泣きそうな声で言った。
「そんなフロー、私、作った覚えが……いえ、昔、研修資料を外部共有しないようにする設定は作りました。でも契約書には関係ないはずです」
研修資料。
その言葉を、さくらだけがメモした。
けんしゅう資料?
一方、悠真は川辺から送られてきた古いメール添付の写しを読んでいた。
契約書そのものは消えている。だが、メールには「たぶんこれが元です」と書かれたドラフトが残っていた。
悠真は一ページ目を読み、二ページ目で眉をひそめ、三ページ目で赤ペンを握りしめた。
「これは……契約書というより、迷子札ですね」
山崎がのぞき込んだ。
「迷子札?」
「誰の責任か迷子です」
悠真は条項を指した。
「まず検収条項。成果物を提出してから三営業日以内に異議がなければ検収合格とみなす、とあります。でも、誰が検収するのかが曖昧です。発注元なのか、駿河ソフトなのか、再委託先なのか」
「三営業日で合格なら、早くていいじゃないですか」
さくらが言うと、悠真は首を振った。
「上流の発注元がまだ確認していないのに、下流の再委託先だけ検収合格になる可能性があります。つまり、駿河ソフトは発注元から怒られても、下流には『もう検収済みです』と言われる」
「板挟みですね」
「板に挟まれるならまだいいです。これは板が何枚あるかもわからない」
悠真は次の条項に赤線を引いた。
「再委託条項。乙は甲の事前承諾なく、本業務の全部または一部を第三者に再委託できる、とあります」
山崎の表情が変わった。
「全部も?」
「はい。しかも別の秘密保持条項では、再委託には事前の書面承諾が必要とあります。矛盾しています」
「損害賠償は?」
「もっと変です」
悠真は紙を山崎に渡した。
「損害賠償の上限は、当該委託料の一か月分、または金五百円のいずれか低い額」
さくらが吹き出した。
「五百円?」
「笑えません」
悠真は真顔だった。
「いや、少し笑えます。でも実務では笑えません」
山崎は腕を組んだ。
「五百万円の誤記か?」
「かもしれません。でも、ほかの条項も不自然です。これは誰かが急いで作った契約書というより、悪い例を集めた教材みたいです」
さくらのペン先が止まった。
悪い例。
教材。
研修資料。
事務所の中で、見えない糸が一本、ぴんと張った。
その瞬間、川辺のスマートフォンが震えた。
画面に匿名のメッセージが表示された。
あの契約書を探すな。見つけたら会社が終わる。
川辺の顔から血の気が引いた。
さくらは小さな声で言った。
「会社が終わるって、そんなに五百円がまずいんですか」
「五百円だけの話じゃない」
山崎は低く言った。
「この契約書は、消えたから問題なんじゃない。存在していたことが問題なのかもしれない」
その夜、山崎行政書士事務所の明かりは、草薙駅前のビルの中で最後まで灯っていた。
陽翔は監査ログを時系列で並べ直していた。
「削除イベントの前に、メタデータ変更があります」
「メタデータ?」
さくらが眠そうな目で聞いた。
「ファイルそのものの名前じゃなくて、裏側についている属性みたいなものです。分類、ラベル、保持設定、共有制限とか」
「人間でいうと、あだ名ですか」
「かなり雑だけど、近い」
陽翔は画面を拡大した。
「このファイル、分類ラベルが残っています。TrainingSample」
悠真が顔を上げた。
「研修サンプル?」
「はい。ファイル名は契約書_最終版になっていたけど、裏側では研修資料扱いのままです」
山崎は静かに言った。
「だから北川さんの自動処理が動いた」
「研修資料が外部共有フォルダに置かれたら、自動で共有解除して、研修フォルダに移動する設定だったようです。そのあと古いリンクを削除した。ログ上はFileDeletedに見える」
川辺は呆然としていた。
「じゃあ、契約書は消えたんじゃなくて……」
「研修資料として片づけられた可能性があります」
さくらはメモ帳をぱらぱらめくっていた。
「研修、研修、研修……あれ?」
彼女は一年前のページで指を止めた。
そこには、丸っこい字でこう書かれていた。
駿河ソフトさん向け契約研修悪い契約書の見本・けんしゅう=検収。研修じゃない。ややこしい!・再委託ぜんぶOKは危険・損害賠償 五百円? 先生が笑わせにきた・責任者がいない契約は、みんなで迷子になる
さくらは顔を上げた。
「これ、うちで作った研修のメモです」
山崎の眉がぴくりと動いた。
「うちで?」
「はい。去年、駿河ソフトさん向けに、契約書の読み方研修をしましたよね。『絶対にそのまま使ってはいけない悪い契約書』って先生が言ってました。私、検収を研修だと思ってメモして、悠真さんに直されたんです」
悠真は、契約書ドラフトをもう一度見た。
検収三営業日。
再委託全部自由。
損害賠償五百円。
教材の悪い例。
山崎は目を閉じた。
「そういうことか」
川辺は震える声で言った。
「まさか……あの契約書は……」
悠真が答えた。
「研修用の悪い見本を、実際の業務委託契約書のひな形として使ったんです」
事務所に、重たい沈黙が降りた。
それを破ったのは、さくらだった。
「でも、五百円のところで気づきませんでした?」
川辺は両手で顔を覆った。
「気づきました。でも、五百万円のミスだと思って……あとで直そうと……そのあと案件が炎上して……再委託先が増えて……明日の説明会が迫って……」
山崎は責めなかった。
その代わり、静かに尋ねた。
「匿名メッセージを送ったのは、川辺さんですね」
川辺の肩が落ちた。
「はい」
「なぜです」
「見つかったら、全部自分のせいになると思いました。契約書をなくしたことも、変な条項を使ったことも、再委託先をちゃんと整理していなかったことも」
「川辺さん」
山崎の声は柔らかかった。
「書類は人を責めるためだけにあるものではありません。誰が何を約束したか、もう一度並べ直すためにもあります」
川辺は顔を上げた。
「でも、もう遅いんじゃ」
「遅いことはあります」
山崎は言った。
「でも、遅いからこそ、急いで正直にするんです」
陽翔がキーボードを叩いた。
「ファイル、見つかりました。研修フォルダのアーカイブにあります。名前は変わっています」
画面に表示されたファイル名を見て、全員が固まった。
新人研修用_悪い契約書サンプル_絶対使うな.docx
さくらがぽつりと言った。
「絶対使うなって書いてありますね」
悠真がうなずいた。
「世界一わかりやすい警告です」
川辺は机に額をつけた。
「すみません……」
山崎は湯呑みに茶を注ぎ足した。
「謝罪は明日、関係者にしましょう。今夜は、説明できる形に戻します」
そこからの山崎行政書士事務所は、まるで小さな災害対策本部だった。
陽翔はAzureの監査ログを整理した。
契約書が誰かに悪意を持って削除されたわけではないこと。
研修用ファイルの分類ラベルが残っていたこと。
自動処理によって外部共有が解除され、研修フォルダへ移動されたこと。
北川のアカウントが表示されたのは、彼女が過去に作成した自動処理の所有者だったからで、夜中に本人が操作したわけではないこと。
悠真は契約構造を図にした。
発注元。
駿河ソフト。
デザイン会社。
クラウド構築会社。
テスト担当の個人事業主。
そこに矢印を引き、検収権限、再委託承諾、秘密保持、損害賠償、成果物の帰属を一つずつ書き込んだ。
そして、赤い字で大きく書いた。
現状:誰も全体の責任を説明できない。
さくらはその横に、勝手に小さな雲の絵を描いた。
雲の中には、迷子の契約書が泣いていた。
山崎はそれを見て、少し笑った。
「いい図だ」
「本当ですか?」
「人は、文字だけだと逃げる。絵にすると向き合うことがある」
翌朝九時。
駿河ソフトの会議室で、山崎たちは発注元と関係者に説明した。
川辺は最初に頭を下げた。
研修用の悪い契約例を、実際のひな形として使ってしまったこと。
再委託の整理が不十分だったこと。
契約書が消えたように見えたのは自動処理によるもので、証拠隠滅ではなかったこと。
匿名メッセージを送ったのは自分であること。
会議室はしばらく凍りついた。
だが、山崎が淡々と続けた。
「本日すべきことは、犯人探しだけではありません。契約の立て直しです」
悠真が資料を配った。
「まず、再委託先一覧を確定します。次に、発注元の承諾が必要な範囲を明文化します。検収については、下流の検収と発注元の最終検収を分けます。損害賠償については、上限、例外、情報漏えい時の扱いを現実に合わせて協議します」
陽翔が続けた。
「クラウド側では、研修資料と実契約書のラベルを分けます。自動処理の所有者も個人ではなく管理用アカウントに変更し、削除ではなく隔離にします。ログの確認手順も残します」
北川は涙ぐんでいた。
「私が消したんじゃないって、ちゃんとわかりますか」
山崎はうなずいた。
「わかります。ログはあなたを疑わせましたが、同時にあなたを助けてもいます」
さくらが小声で言った。
「雲にも情けがありますね」
悠真が小声で返した。
「雲じゃなくて監査ログ」
「でも、情けログってかわいくないですか」
「かわいさで運用しないでください」
発注元の担当者は、長い沈黙のあと、深く息を吐いた。
「正直、ひどい状態です」
川辺はうつむいた。
「はい」
「ただ、隠したまま進められるよりは、今日出してもらってよかった。納期と責任範囲は再協議しましょう」
その言葉で、川辺の目から力が抜けた。
会社が終わる。
そう思っていた一夜は、会社が立て直す朝に変わった。
事件が一段落した夕方、山崎行政書士事務所には、いつもの草薙駅前の光が戻っていた。
さくらはメモ帳を見つめながら言った。
「私の勘違い、役に立ちましたね」
悠真は悔しそうにうなずいた。
「今回は、非常に不本意ながら」
陽翔は笑った。
「検収と研修。読みは同じでも、フォルダは別。クラウドあるあるだね」
山崎はせんべいを一枚、さくらの前に置いた。
「今日の功労賞だ」
「やった。損害賠償五百円より高いですか?」
「このせんべいは百二十円だ」
「じゃあ、まだ三百八十円ぶん責任が残っています」
「責任をおやつで計算しない」
電話が鳴った。
さくらが受話器を取る。
「はい、山崎行政書士事務所です」
彼女の表情が、みるみるうちに輝いた。
「えっ、クラウドに保存した補助金申請書から、なぜかハンコの画像だけ消えた?」
陽翔が顔を上げた。
悠真が赤ペンを握った。
山崎が湯呑みを置いた。
さくらはにっこり笑って、受話器を押さえた。
「草薙クラウド探偵団、第二の事件です」
山崎は苦笑した。
「その名前、正式採用した覚えはないんだが」
「でも先生」
さくらは窓の外、夕暮れの草薙駅を見た。
「雲の中で迷子になった書類って、誰かが迎えに行かないとかわいそうです」
山崎はしばらく黙っていた。
そして、静かに笑った。
「では、迎えに行こう」
陽翔がログイン画面を開く。
悠真が条項チェックリストを整える。
さくらが新しいページに大きく書いた。
草薙クラウド探偵団事件二:消えたハンコ画像
その下に、彼女は小さく追記した。
注意:けんしゅうは二種類ある。
草薙駅前の小さな事務所で、また雲が騒ぎ始めていた。





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