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草薙神社の凪(なぎ)の鈴


 朝の草薙神社は、楠(くす)の葉の匂いでできていました。参道の玉砂利はひと粒ずつ薄い空を飼っていて、踏むたびに、青い粉が音もなく立ちのぼります。八歳の幹夫は、鳥居の影の中でランドセルをおろし、手水舎(てみずや)の柄杓(ひしゃく)をそっと持ち上げました。水は鏡になろうとして、その手前でわずかに震えます。

 そのとき、拝殿の鈴の緒(お)の端から、白い紙垂(しで)みたいな封書がひらりと落ちてきました。紙は笹の葉の手ざわりで、金いろの細い字が葉脈みたいに走っています。

 — 至急 有度の森・風の宮内局 草薙管内  拝殿の鈴に仕込まれた「凪(なぎ)の結び」一筋ほつれ。  このままでは、正午の暑さが休む場所を見失います。  正午までに凪の三本撚(よ)りを新調のこと。  
採取物:   
① 手水鉢の「水が鏡にもどる前の平ら」  
② 参道の草がいっせいに同じ方へ寝る一秒の息   
③ 御神木の年輪のあいだにある暗がり一筋  
組立:三本を撚り、鈴の緒の下に結び、ひと鳴り。  
提出先:拝殿上空 凪の窓口

「読み書きはお上手だね」

 鈴の緒の陰から、小さなヤマガラが跳ね出てきました。頬は栗の色、目は黒いつぶ、胸には橙の帯。細い足で紙をとんとんと押さえます。

「案内係のヤマガラです。きのうの熱で、鈴の中の凪がほどけたの。草薙(くさなぎ)は、本当は『草を薙いで、風に凪をつくる』字の里。凪がなければ、夏はどこにも座れない。手伝ってくれる?」

 幹夫はうなずき、ポケットのハンカチとランドセルの余りひもを確かめました。まずは手水鉢です。柄杓で水をすくい、石に返す、その瞬間。幹夫は息を止め、返ってゆく水の面が鏡にもどる寸前の「平ら」を、白いハンカチの角でそっと受け止めました。布はすこし冷たくなり、糸目の間に見えない輪がひとつ、収まりました。

「一本め、取れたね」 ヤマガラは首をかしげ、鈴のほうをちらりと見ました。「つぎは参道の草だ。草は、熱い日ほど上手に『寝る』。いっせいに、同じ方へ」

 二人は玉砂利をぬけ、小さな斜面の草むらへ出ました。風がひと渡りして、草は一枚の布みたいに斜めへ倒れます。その瞬間、葉の裏で「すう」と息が合い、音にならない丸い気配が立ちました。幹夫は余りひもで輪を作り、その「すう」をひとかけら、すくい上げます。ひもは軽くふくらみ、指さきにやわらかい確信が宿りました。

「二本め、良い凪だ」 ヤマガラは小さく胸をふくらませました。「最後は御神木の年輪。楠の時間は長い。輪と輪の間には、音のない通路が一本ずつある」

 拝殿脇の楠は、ひたいに雲の欠片(かけら)を貼っているみたいな大木でした。幹夫が手を当てると、木の中から遠い海の匂いがしました。耳を幹に寄せてじっとしていると、どこかで「こつり」と小さな鐘が鳴った気がして、そのあとに、細い暗がりが一本、手の中へ移ってきます。幹夫はそれをハンカチの端で受け、余りひもにそっと重ねました。

   *

 拝殿のひさしの影に三本を並べると、影そのものが呼吸をはじめました。幹夫はひざにひもを広げ、ハンカチから「平ら」と「暗がり」を、輪から「草の息」を、指でより合わせます。撚るたびに、糸は小さく「り」「ん」「り」と鳴り、透明な縄(なわ)になっていきます。よく見ると、縄の中を水の面、草の寝息、木の暗がりが、三つ綾(あや)になって流れていました。

「結ぼう」 ヤマガラが鈴の緒の房をくわえて、幹夫の指先の高さまで下ろしました。 幹夫は撚り糸を房の根もとにまわし、固結びをひとつ、息の結びをひとつ、最後に小さな蝶結びをひとつ。結び目は涼しく、結ぶほど、胸の中の暑さがほどけていくのがわかります。

「ひと鳴り、お願い」

 幹夫は手のひらで鈴の緒をつかみ、肩の高さでそっと引きました。鈴は一度だけ、深く鳴りました。音は金いろですが、芯に冷たい影が通り、水の平らが薄く光って、参道の草がわずかに寝そべります。その音は、鳥居をくぐって町へ降り、屋根の上に影の座布団をひとつずつ置いていきました。

 境内の空気がいっせいに細く笑い、神楽鈴の目に見えない粉がぱっと散りました。手水鉢の面は鏡にもどり、楠の幹はほんの少しだけ身じろぎしたようです。

「できた」 ヤマガラは足で玉砂利を二度、軽く叩きました。「凪が結び直された。今日の正午、暑さはここでいちど座れる」

 そのとき、拝殿の奥から、古い話が風鈴みたいに通り過ぎました。むかし、炎が草を追いかけた日、若い剣が草を薙いで風を呼び、火がそこに座ってしまった——という、名前の話。幹夫には、剣というより、今の結び目のほうが剣らしく思えました。燃えるものの中に、座る場所をひとつ作ること。草の里の剣は、きっとそういう手つきです。

「お礼に、切手を一枚」 ヤマガラが翼の根もとから取り出したのは、透明の小さな切手でした。草の葉の上に、水の細線と、楠の年輪がうすく描かれ、中央に小さな結び目が浮かんでいます。

「『凪』の切手。君の一日の中で、暑さや心配ごとが座れずにうろうろしていたら、胸の地図に貼ってごらん。君の『ただいま』の前に、小さな座布団が一枚できる」

   *

 参道を戻る途中、幹夫は社務所の前のベンチで、お弁当の梅おにぎりをひとつ食べました。梅の酸っぱさが舌の上でいちど涼しくなり、のどの奥でさっきの鈴がもういちど小さく鳴りました。玉砂利は、昼の光を均等に切り分けて、誰にでも同じくらいの白さを分けています。

 家に帰って、門をくぐると、幹夫は声を丸くして言いました。「ただいま」

 その「ただいま」は、結び目をいちど通ってきたみたいに、ほどよく静かでした。台所から「おかえり」という返事が、今日の凪の幅にぴたりと合って戻ってきて、味噌汁の湯気は柱の木目をまっすぐに上がります。胸の中の切手がいちどだけ淡く光り、見えない座布団が畳の上にすっと敷かれた気がしました。

 正午。町はほんの短い間だけ、深呼吸を覚え、風は草の上に座りました。電車の窓の光は角をまるくして通り、信号機は赤でも青でもない薄い透明を一秒だけはさみました。郵便受けの影は自分の背丈をたしかめ、犬は伸びをしてあくびをひとつ、半分だけにしました。

 夕方。楠の葉は、ひだまりを少しずつ返却し、鈴はもう一度だけ小さく鳴りました。参道の草は今日一日の「寝」と「起き」を帳面に書いて、夜の涼しさにあくびをします。

 夜。草薙神社の空は、薄い鈴の粉で星をとめ、ヤマガラは鈴の緒の下で丸くなって目を閉じました。幹夫が枕に頭をのせると、胸の結び目が静かに息をし、遠くで手水鉢の面が、誰のものでもない円をもうひとつ描きました。

 — 水の平ら  草の寝息  木の暗がり  それらを撚ってひと結びにすると、  夏はそこへ座って、少しだけやさしくなる。

 朝。鳥居の赤は、きのうより薄く軽く、玉砂利はまた新しい空をひと粒ずつ飼いはじめました。幹夫は靴ひもを結び直し、胸の切手の冷たさをひとつ吸いこんで、ゆっくりと学校へ向かいました。鈴の中の凪は、今日も見えない席札を用意しながら、境内を薄く明るく保っていました。

 
 
 

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