蒲原に、サイレンは届かなかった
- 山崎行政書士事務所
- 2月1日
- 読了時間: 15分

蒲原は、山と海に挟まれている。背中側の山は低いようでいて案外しぶとく、音を吸い込み、よそからの知らせを半分ほどに薄めてしまう。海は海で、波のひびきがいつも同じ高さにあるせいか、人の声を急がせない。
だから、あの頃――空が危ない色に変わる頃でさえ、サイレンは届かなかった。
届かなかった、という言い方は正しくないのかもしれない。実際にはどこかで鳴っていたのだ。静岡の町のほう、もっと人が密集して、狙われるべきものがある場所で。そこから発せられた警告は、線路沿いの空を伝って、峠を越えかけて、しかし蒲原のあたりでふっと力尽きる。夜風に溶けて、波音にまぎれて、ただ「なにかが遠い」という気配だけを残した。
幹夫が生まれたのは昭和十八年。家は旧街道から少し入ったところにあって、障子を閉めれば薄暗く、開ければ潮の匂いが入ってきた。妊娠の終わりごろ、母はよく自分の腹を撫でながら、ここはいい町だと思った。山が近い。海が近い。逃げ場があるというのは、安心ではなく、諦めの形をしていた。
産婆が来る前に、祖母が鍋に湯を沸かした。湯気が天井にのぼっていき、煤で黒ずんだ板に吸い込まれる。冬の終わりで、畳は冷たかった。母はその冷たさの上に、どうにか体を置いて、息を短く吐いた。隣の部屋には、父の軍服が畳まれていた。彼の匂いだけが残っている。
「ほら、息、長う」
祖母の声は優しいのに、どこか怒っていた。怒りの向きは、母の痛みではなく、痛みを与える世界そのものに向いていた気がする。
産婆が到着したとき、外で汽笛が鳴った。東海道の線路を、貨物列車がうなりながら通り過ぎる音。鉄と鉄が擦れる音が、腹の底にまで届く。母は一瞬、痛みよりも先に、音に怯えた。戦争の音は、汽笛と区別がつかなくなる。
「大丈夫、ここらは……」
産婆が言いかけて、言葉を飲み込んだ。「空襲はそう来ない」と言うつもりだったのだろう。来ない、という保証は誰にもできない。来るかもしれない空の下で、母は生まれてしまうものを生むしかない。産婆はそれを知っていたから、代わりに手を強く握った。
幹夫が産声をあげたのは、波が引く音がひとつ大きく聞こえた瞬間だった。泣き声はか細く、それでも部屋の空気を変えた。母の中で、何かがほどける音がした。安心ではなく、降参。あるいは、受け入れるという名の降参。
赤ん坊の耳は柔らかく、母はそこに指をそっと当てた。耳たぶの温度が、自分の体温とは別のものとして存在していることが、急に怖くなった。自分が守らなければ、守られないもの。自分が守ったところで、守りきれないかもしれないもの。
「幹夫、にするかね」
祖母が、用意していた名前を口にした。幹は木の幹。折れにくいところ。夫は、男という意味よりも、働き手の響きがあった。
母は頷いた。頷くしかなかった。名づけは祈りではなく、現実に足を置くための杭だ。杭を打たなければ、流されてしまう。流される先がどこでも、せめて名前だけは持っていける。
夜になって、家の外がふっと静かになった。静けさの質が変わるときがある。虫が鳴くでもなく、犬が吠えるでもなく、ただ、町が息を潜める静けさ。母は幹夫を抱いたまま、障子の隙間に目を寄せた。
遠くで、何かが鳴っていた。
サイレンだと、母は思った。思ったけれど、音ははっきりと形にならない。耳の中で、遠い金属が擦れているような薄い響き。山に止められ、波に散らされ、届く前に別物になった警告。
母は幹夫の頭を胸に引き寄せた。赤ん坊は、泣かなかった。眠りの中で、口だけが小さく動いた。何かを飲もうとするように。生きるための反射だけが、先に育っている。
「……届かんのよね」
母は誰にともなく呟いた。届かないことが、ありがたいのか、恐ろしいのか、分からなかった。警告が届かなければ、備えられない。備えられなければ、諦めるしかない。諦めるしかないのに、赤ん坊は生きようとする。
それから数年、幹夫は「知らないまま」を覚えていった。
たとえば、父が帰らない理由。たとえば、米が増えない理由。たとえば、大人が夕方になると急に口数を減らす理由。理由はいつも、少し遠い場所にあって、山と海のあいだに落ちてくる頃には、もう薄まっていた。
五つになる春、幹夫は母に連れられて駅のほうへ歩いた。蒲原の駅前は小さく、けれど線路だけは堂々として、どこか別の世界へ通じている顔をしていた。幹夫はその線路が好きでも嫌いでもなく、ただ、見上げると首が痛くなるのが不思議だった。大きなものは、いつも首を痛くさせる。
母は配給の袋を肩にかけ、幹夫の手を引いた。手は細く、骨が早く育ってしまったように硬い。母の指は冷えていた。幹夫はその冷えを、自分のせいだと感じる癖があった。寒いのは季節のせいで、母の指が冷たいのは働きすぎのせいなのに、自分が握っているから冷えるような気がした。
線路脇の小さな空き地で、幹夫はふと立ち止まった。草の間に、錆びた金属片が落ちている。何かの缶か、どこかの破片か。拾い上げると、手のひらに土の匂いが移った。
「それ、危ない」
母が言った。声は強くない。けれど、強くない声ほど、逆らいにくい。幹夫は金属片をそっと戻した。戻した瞬間、胸の奥に小さな穴があいた気がした。拾ったものを返す、というより、拾った気持ちを返せない感じ。
「どうして?」
幹夫は聞いた。聞いてしまった自分に驚いた。大人は「どうして」を嫌う。幹夫はそれを知っているのに、口が勝手に動いた。
母は一度、幹夫の顔を見た。まっすぐ見て、すぐに視線を外した。見続けると、答えなければいけないからだ。答えには、時間がかかる。
「……空から落ちたかもしれんでしょ」
空、という言葉が幹夫の中でひっかかった。空は青い。雲が流れる。鳥が飛ぶ。そこから「危ないもの」が落ちるのは、絵として合わない。合わないのに、母の声は合っていた。合っているほうが現実なのだと、幹夫はそのとき知った。
歩き出すと、遠くで汽笛が鳴った。幹夫は音の方角を見た。音ははっきりしていて、サイレンよりずっと親切だと思った。汽笛は「来る」と知らせる。サイレンは「逃げろ」と命じる。命じられることは怖い。でも、届かない命令はもっと怖い。何をすればいいのか分からないまま、怖さだけが残るからだ。
幹夫は母の手を、少しだけ強く握った。母は何も言わなかった。ただ、握り返してきた。その握り返しが、答えの代わりになるときがある。幹夫は、そのことをまだ言葉にできない。
空は、今日も青かった。 蒲原には、サイレンは届かなかった。 だから幹夫は、自分の胸の中で鳴っている小さな警報の名前を、まだ知らないままでいた。
金属片を草の間に戻してからも、幹夫の手のひらには、さっきの土の匂いが残っていた。握っていたのはほんの数秒なのに、匂いはいつまでもしつこく、指の関節の隙間にまで入り込んでいる気がした。
幹夫は歩きながら、何度もこっそり手を嗅いだ。母に見つかると叱られそうで、鼻先を手の甲に近づけるだけで済ませる。土と鉄が混ざった、乾いた匂い。怖いというより、どこか寂しい匂いだった。空から落ちたかもしれない、と母が言ったその「空」が、青くて綺麗なものから、急に重い天井みたいなものに変わったせいだ。
母は早足だった。配給の袋が肩で揺れて、袋の口がかすかに鳴る。幹夫は母の歩幅に遅れないように足を動かしながら、それでも母の横顔を何度も見た。横顔というより、目のあたりの空気。母は何か考えているとき、まぶたの力が少し強くなる。幹夫はそれを知っていた。
駅のほうへ行く道は、日なたと日かげが短い間隔で入れ替わった。古い家の塀が影を落として、そこを抜けると一瞬だけ明るくなる。幹夫の心もそのたびに、明るくなったり暗くなったりした。気持ちは、自分のものなのに、道の影に引っ張られるみたいに勝手に変わる。
配給の列は、いつも「怒っていない怒り」で満ちていた。大きな声は出ない。誰も喧嘩はしない。ただ、待つという行為そのものが、じわじわと人の顔を硬くしていく。幹夫は列の端で、母の膝のあたりに目を置いていた。顔を見上げるのが、なんとなく怖かったのだ。顔には言葉が出る。膝には言葉が出ない。
前に並ぶ男の背中が、妙に細かった。肩幅はあるのに、背中の真ん中がへこんでいる。服は大きすぎて、背中が服の中で泳いでいる。幹夫は、その背中が寒そうだと思った。冬でもないのに、寒そうに見える背中がある。母の指先の冷たさと同じ種類の寒さ。
幹夫は自分の手を開いたり閉じたりした。母の手を握っているほうではない、自由なほうの手。そこにまだ土の匂いが残っている。
列の少し先で、子どもが泣き声を出した。赤ん坊ではない。歩ける子どもの泣き方だ。声が割れず、息が詰まるような泣き方。幹夫は反射みたいに、泣き声のほうへ視線を向けた。
小さな女の子が、しゃがみこんでいた。膝が砂で白くなっている。手には紙の切れ端みたいなものを握っていて、握りしめすぎてくしゃくしゃだった。母親らしい女が、その子の肩を押さえて何か言っている。叱っているのではない。叱る余裕がない言い方だった。
「……ほら、ほら、泣いても増えんで」
増えん。幹夫は、その言葉を胸の中でゆっくり繰り返した。泣いても増えない。笑っても増えない。お願いしても増えない。増えるのは、列の時間だけだ。
女の子の手の中の紙が、ちらりと見えた。配給の券だと幹夫は分かった。見たことがある。祖母が大事そうに引き出しから出し、母が濡れないように布で包むもの。あれは、紙なのに、紙より重い。
幹夫の胸の奥が、きゅっと縮んだ。自分の家にも同じものがある。その紙がなくなったとき、家の空気がどうなるか――言葉では知らないのに、体が先に知っていた。
幹夫は母の手を、少し強く握った。握った瞬間に、しまったと思った。母がこちらを見る。母の目が「なに」と言う前に、幹夫は小さく息を飲んだ。
「……あの子、」
幹夫が言いかけると、母はすぐに視線の方向を追った。母は一度だけその光景を見て、すぐに目を戻した。見るだけで、胸が削れるときがある。母の顔が、さっきより少し硬くなった気がした。
「ほっとき」
母は短く言った。短い言葉は、強い言葉だ。強い言葉は、必要なときにだけ出る。幹夫はそれを知っているのに、足だけは勝手に前へ出ようとした。心が先に動いて、体が追いかける。いつも幹夫は、そういう順番で失敗する。
列はじりじりと進む。幹夫は、泣いている女の子のほうを、見ないふりをしながら見た。見ていないふりをするのは、幹夫がいちばん得意なことだった。家の中でも、よくそうしてきた。祖母が黙り込むとき。母が遠くを見るとき。見ていないふりの目は、いちばんよく見えてしまう。
女の子は、握りしめていた券を落としたらしい。地面の上に、もう一枚、同じような紙が落ちていた。踏まれそうな位置に。誰かの足が動くたび、紙が砂に押されて、さらに汚れていく。
幹夫は、呼吸の仕方が分からなくなった。息を吸うと胸が苦しい。吐くと、その紙がもっと遠くへ行きそうな気がする。
幹夫は母の手を放した。放した瞬間、母の指が少しだけ空を掴んだ。母の手が空を掴むのを見たとき、幹夫は胸が痛んだ。まるで自分が母を置いていくみたいだった。けれど足は止まらない。止められない。止めたら、自分の中で何かが折れる。
幹夫は列をすり抜け、地面の紙にしゃがみこんだ。拾うだけ。拾って渡すだけ。それだけなのに、手が震えた。怖いのは、叱られることじゃない。拾ったこの紙が、誰かの一日を支えている重さに触れてしまうことだ。
紙は薄く、端が破れかけていた。砂がついている。幹夫は息を止めて、袖口でそっと砂を払った。袖はもう何度も洗われて繊維が痩せていて、紙を傷つけない程度に柔らかい。幹夫はそのことを、ぼんやりと誇らしく思った。自分の服が、こういうとき役に立つ。
「……これ」
幹夫は女の子の前に紙を差し出した。声が思ったより小さくなった。自分の声が、空気に負けそうだった。
女の子は泣き止まないまま、紙を見た。見ただけで、すぐに分かったらしい。泣き声の質が変わった。悲しい泣きから、助かった泣きに変わるときの、あの短い間の音。
女の子の母親が、幹夫を見た。目が驚きと疲れで濁っている。ありがとう、と言う口の形はした。でも声は出なかった。声を出す余裕がない人の顔だ。幹夫は、その顔が嫌ではなかった。むしろ、どこか安心した。母と同じ顔をしているからだ。
幹夫は頷いた。頷くことで、もう十分だと思った。礼が欲しくて拾ったわけじゃない。拾わずにいられなかっただけだ。拾わないでいると、自分が自分じゃなくなる気がした。
列に戻るとき、幹夫は母の背中を探した。自分の居場所が分からなくなる怖さが、急に押し寄せた。人の列は、波と同じで、ちょっと目を離すと形が変わる。
母は、そこにいた。幹夫のいない空気を抱えたまま、少しだけ体を固くして立っていた。幹夫が近づくと、母の肩がほんの少し下がった。それが安堵なのか、諦めなのか、幹夫には分からない。ただ、母が息をひとつ取り戻した気配だけは分かった。
「……戻ったか」
母はそれだけ言った。叱る声ではない。褒める声でもない。疲れた声でもない。幹夫がどれにも聞き分けられない声。だから幹夫は、答え方を知らなかった。
幹夫は、母の手をもう一度握った。今度は、さっきより少しだけ慎重に。手のひらの温度を確かめるみたいに。母は握り返してきた。握り返し方が、いつもより少し強かった。
その強さに、幹夫は胸の奥がふわっと緩むのを感じた。自分がしたことが正しいのかどうかは分からない。分からないけれど、母の手が強くなるとき、世界は少しだけ怖くなくなる。
配給を受け取って帰る道、袋の中には芋が入っていた。土がまだついている芋。重さはあるのに、足りない重さ。母は黙っていた。幹夫も黙っていた。ふたりの黙り方は似てきた。黙るとき、人は同じ形になる。
家の近くまで来たとき、幹夫は袋の持ち手に手を伸ばした。
「ぼく、もつ」
言ってから、息が止まった。母が断るかもしれない。断られたら、胸の奥がざらざらする。それを想像してしまうのが、幹夫の悪い癖だった。
母は一瞬だけ立ち止まり、幹夫の手を見た。小さい手。指が細い。力はない。なのに、その手が袋に触れた瞬間、母の顔のどこかがやわらいだ。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
母は持ち手を少しずらして、幹夫に渡した。袋は、幹夫の腕を下へ引っ張った。重い。けれど幹夫は、重さを嫌だと思わなかった。重さには、理由がある。重いから、母の肩が少し軽くなる。母の肩が軽くなるから、家の空気が少し軽くなる。
幹夫は、袋を引きずらないように歩いた。袋の底が地面に触れると、土が削れて、芋が汚れてしまう気がした。汚れたら、怒られるのではなく、悲しくなるのだ。幹夫は、悲しくなるほうが怖かった。怒られるのは、外側だけが痛い。悲しくなるのは、どこが痛いのか分からなくなる。
家の戸を開けると、祖母が台所にいた。湯気の匂い。煮えた芋の甘い匂いではなく、ただ湯を沸かした匂い。湯だけの匂いは、空腹の匂いに似ていた。
「おかえり」
祖母が言う。目だけが先に袋を見る。
幹夫は袋を下ろし、芋の土が落ちないように、そっと置いた。置くときの手つきが、妙に丁寧だった。丁寧に置けば、芋が増えるわけじゃない。けれど幹夫は、丁寧に置くことで、足りなさの角が少し丸くなる気がした。
祖母が芋を手に取って、ふっと笑った。笑ったというより、口の端だけが上がった。
「ええのが手に入ったじゃん」
母は「そうかね」と短く返した。短い会話の間に、幹夫は台所の隅にある小さな欠けた茶碗を見た。欠けたところが、白く光っている。欠けているのに、光る。幹夫はいつも、その白い欠けがかわいそうだと思う。茶碗は欠けても、毎日働かされる。欠けたまま、使われる。捨てられないというのは、ありがたいことなのか、苦しいことなのか。
幹夫は茶碗をそっと手に取り、欠けた部分が唇に当たらないように、向きを変えて棚に戻した。誰に頼まれたわけでもない。けれど、そうしないと落ち着かなかった。欠けたままのものが、傷を増やすのを見たくない。茶碗が傷つくのも嫌だし、茶碗で祖母や母の唇が傷つくのはもっと嫌だ。
その夜、芋は薄く切られて、少しの塩で食卓に出た。湯気は弱く、甘い匂いも弱い。けれど幹夫は、匂いが弱いことに腹を立てることができなかった。腹を立てる先が見つからない。増えないものに腹を立てても、自分の中の何かが減るだけだ。
祖母が一切れを口に運ぶ。母が一切れを口に運ぶ。幹夫の皿にも一切れある。幹夫はそれを見て、なぜか急に胸が熱くなった。自分の分がある。それが当たり前じゃないことを、幹夫は体が知っている。
幹夫は自分の芋を箸でつまみ、半分に割った。割れ目から湯気が少しだけ出た。その湯気が、なぜだか泣きそうな形をしていた。
幹夫は、割った半分を母の皿にそっと置いた。置いた瞬間、心臓がどくんと鳴った。やってしまった、と思った。母が困るかもしれない。母が怒るかもしれない。母が悲しむかもしれない。
母は箸を止めた。幹夫の顔を見た。見て、すぐに目を逸らした。さっき配給の列で見たのと同じ仕草だった。見続けると、言葉が必要になる。
「……自分の、食べな」
母は低い声で言った。
幹夫は首を横に振った。理由は言えない。言葉にした瞬間、善いことをしたみたいになるのが嫌だった。善いことをしたいわけじゃない。ただ、母の指先が冷たいのが嫌だ。母の肩が固いのが嫌だ。母のまぶたの力が強いのが嫌だ。嫌だから、少しでも変えたかった。
母はしばらく黙っていた。それから、幹夫の皿に残った半分の芋を見て、箸を動かした。自分の皿に戻すのではなく、幹夫の芋の横に、自分の芋をほんの少しだけ寄せた。分けたのではない。寄せただけ。けれどそれは、幹夫にとって「一緒にいる」の合図だった。
祖母が、何も言わずに味噌汁をよそった。味噌汁の具は少なく、汁が多い。けれど湯気はちゃんと立った。幹夫はその湯気を見て、胸の奥が少しだけ温まるのを感じた。湯気は、手で掴めないのに、確かにそこにある。サイレンと違う。湯気は届く。ちゃんと、届く。
夜、布団に入ってから、幹夫は耳を澄ませた。遠くで汽笛が鳴った。波の音がした。家の柱が、寒さで小さく鳴った。母の寝息が、かすかに聞こえた。
幹夫の胸の中にも、音があった。名前のない、小さな警報みたいな音。誰かが悲しむ前に、何かをしてしまいたくなる音。誰かが傷つく前に、先に自分が痛くなる音。
幹夫はその音が嫌いじゃなかった。 嫌いじゃないどころか、それがあるから自分はここにいられる気がした。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 だから幹夫は、自分の中で鳴るその小さな音だけを頼りに、明日も誰かの手を探してしまうのだった。





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