蒲原の風とあかねの羽
- 山崎行政書士事務所
- 2025年8月27日
- 読了時間: 7分

昭和二十年代のなかほど、駿河湾のうえには薄い藍色のひかりがのびて、蒲原の浜はしんと呼吸をしていました。潮はゆっくりと来てはかえり、浜の石ころをころころと裏返しては、白い泡を残していきます。東海道の線路の方では、ことこと――と汽車の足音がして、薩埵峠の崖の影に吸いこまれていきました。
幹夫は八つ。麦わら帽子をうしろに傾けて、祖母が干し台にのばした網の端を押さえています。網にはまだ朝の水が残っていて、指先に冷たく、すこし塩の結晶がちくりとします。
「幹(みき)、そこ、風に負けないように指でぎゅっとな」「うん」
風はどっどど――と、みかん畑の方から降りてきて、浜の砂をひと握り連れていきました。幹夫はその砂のなかに、ビー玉ほどの丸いガラス片をひとつ見つけました。空の色がしずかにとじこめられたような、うすあおい丸いかけらです。耳の横で潮の鈴が鳴るように、ビー玉は光りました。
「それは海の星だよ」と祖母が笑って言いました。「洗って、ポケットにしまっておいで」
幹夫は波打ちぎわにしゃがみ、ひざを濡らしながらガラス片を洗いました。水はからりと冴えて、小さな泡がぷくぷくと浮かびます。その泡が二つ、三つ、いっしょに割れて、幹夫の胸のなかで、知らない小鳥が羽ばたくみたいに、軽い音がしました。
網を干し終えると、祖母は家に戻り、幹夫は浜からすこし高い畦道をのぼりました。畦道のわきには、オカトラノオの穂が白く波のかたちになってゆれています。穂は風が通るたび、ちいさく会釈をしました。
「おまえさん、今日はどこへ行くのさ」 ふっと、そんな声が聞こえたので、幹夫は立ちどまりました。声の主は、オカトラノオの穂先にとまっていた七つ星のてんとう虫でした。赤い羽は朝の梅酢のようで、黒い星は夜の豆電球のようです。
「ぼく、あの上の峠まで。向こうの海がどんな色か見てみたいんだ」「それはよい旅だね。風のすじがきれいにひかれているよ」
てんとう虫は羽をすこしだけ開いて、かすかな鈴の音のような羽音をしました。すると畦道の先の草むらが、きゅっとひらいて細い小径を示しました。幹夫が一歩ふみだすと、草の匂いがやさしくひざをなでました。
小径の途中、石の腰かけがありました。石は朝の露でしっとりしていて、背中にひかえめな冷たさをあたえます。耳をすませば、土の底からしゅうしゅうと、小さな湧き水の声がのぼってきます。幹夫はビー玉を取りだして、その泉にそっと浸してみました。ガラスのなかに、泡の銀の玉がいくつも、星座のように浮かびました。
そのとき、空のほうで細い線がすっと引かれ、赤とんぼが一匹、幹夫の肩へおりてきました。羽は透明で、よく磨いた紙のようにかさりと鳴ります。胴は夕方の石炭の火のように赤くて、目は黒曜石の粒のようでした。
「きみは幹夫くんだね」「うん。きみは?」「ぼくはあかね。秋の空の端から来た、風の案内人だよ」
あかねは自分の羽で、そっと幹夫の頬をあおぎました。すうっと、胸のあたりのからまった糸がほどけるようでした。
「最近、胸のなかが少し重かったろう」と、あかねが言いました。「朝の帳面に書ききれない、ちいさな心配が石のようにたまっていたね」
幹夫はうなずきました。父は海の向こうの町の工場へ働きに出ていて、月の終わりにしか帰ってきません。夕やけになると、家の窓は薄あかるくなるのに、父の足音はしません。祖母は「大丈夫だよ」と笑ってくれるけれど、夜の布団のなかで幹夫の耳は、遠い汽笛をさがしてしまうのでした。
「重さを少し、風に分けてごらん」 あかねはそう言って、幹夫の肩から背中へ、羽先で弧を描きました。すると見えない扉がひとつ、からりと開きました。中からは、海の底のように澄んだ空気がこぼれ出して、幹夫のからだを軽くしました。
「ねえ、どうして風はぼくの重さを知ってるの」「風はね、海から上がって山に触れて、また海へ戻る間に、ひとの息を一つずつ確かめていくのさ。ひょいと胸の前を通るとき、ちいさなしわや結び目があると、そっと指でのばすんだよ」
幹夫は笑いました。すると、笑い声が草むらを透きとおって、向こうで待っていたオカトラノオの穂が、もっときれいに頭をさげました。
「幹夫という名は、木の幹のようにまっすぐ、みんなの重さを受けとめる意味だろう」と、あかねが言いました。「受けとめるひとは、ときどき自分の重さを忘れがちだ。だから、こんなふうに、空の端で一度軽くなるのがいい」
「空の端?」「うん。ここから少し上は、昼と夕方の糸がより合わさるところだよ。目を閉じて、ぼくの羽音を聞いてごらん」
幹夫が目を閉じると、羽音は線香の煙のように細くのびて、耳のうしろでやさしく輪になりました。かすかに、潮の香りとみかんの青い皮の匂いがまざりました。足もとはまだ畦道なのに、背中はすこしずつ空に近づいていくようです。
見えないはずのものが、見えるふりをしました。薩埵の険しい崖が、ひととき羊の背中のように丸くなり、汽車はその毛並みを整える櫛になりました。海は大きな硝子皿になって、太陽の光をかすかに反射しました。皿の底を覗くと、しらすの群れが銀の雨となって、音もなく降っていました。
「聞こえるかい」 あかねの声がいっそう遠く、そして近くなりました。「うん。――なにか、とてもきれいな、見えない音がする」
「それはきみの心臓の音が、海に映っている音だよ。人の胸の鳴りは、ときどき海の波形と重なって、透明な太鼓になる」
幹夫は、胸のあたりに手を当てました。そこにはもう、さっきまでの石の角はありませんでした。代わりに、やわらかい音符の粒が、ビー玉の中の泡のように、ひとつずつ浮き沈みしているのでした。
「そろそろ戻ろう」と、あかねが言いました。「君の祖母は、網の具合を見に、もう一度浜へおりるはずだ。青いビー玉も、そろそろポケットから出たがっている」
幹夫が目をあけると、畦道はさっきと同じ場所にあり、草むらも石の腰かけも、ゆっくりと揺れています。ただ、空だけが、さっきよりいくぶん深い藍色をしていました。あかねは幹夫の肩からふわりと離れ、オカトラノオの先へと移りました。てんとう虫はいつのまにか幹夫の帽子のつばで休んでいて、黒い星をひとつ、まばたきのように光らせました。
「ありがとう」と幹夫が言うと、あかねは細い翼をこすって、かさり、と音をたてました。「礼は風に言っておくれ。ぼくらは風の郵便屋だからね」
浜へ降りる道の途中で、東海道の踏切が鳴りました。――カン、カン、カン。幹夫は立ちどまり、汽車が通りすぎるのを待ちました。車窓の向こうに座る人たちの肩や帽子が、みかん畑の影のようにやわらかに流れていきます。幹夫は、そのどこかに父の背中をさがそうとして、それから、そっと目を細めました。さがさなくても、胸のなかにもう、あの透明な太鼓の音があるからです。
浜へ降りると、祖母が網のそばに立っていました。網はよく乾いて、陽の光を飲みこんだ布のように軽くなっています。
「おや、顔の色がよくなったね」と祖母が言いました。「峠の風が、ぼくの中の結び目を解いてくれたよ」「それは結構。風は、ちゃんと仕事をするからねえ」
幹夫はポケットから、海の星――あのビー玉を取りだしました。祖母は両の手でそれを受けとり、太陽にかざしました。ガラスの中では、小さな銀の泡が眠っていて、ときどき、ふっと目を開けるように光ります。
「この星は、家の窓辺に下げておこう」と祖母が言いました。「夜になって父さんの汽笛が遠くで鳴るとき、窓の星がいっしょに鳴るかもしれないよ」
幹夫はうなずきました。波はまた来てはかえり、白い泡を置いていきます。泡が二つ、三つ並んで割れるたび、幹夫の胸でも、見えない鈴がちりん、ちりんと鳴りました。みかん畑の風はどっどど――と、おだやかに畦道をわたり、薩埵峠のほうへ帰っていきます。
その日の夕方、家の窓辺に吊るされた海の星は、ほんの少しだけ青く光りました。幹夫は布団に入り、耳をすませました。遠い線路の方で、汽笛がひとつ、やさしく鳴りました。あかねの羽が、どこかでかさりと鳴って、風の郵便が投函された気がしました。
――大丈夫。
声はたしかに、胸の中の透明な太鼓から発せられました。幹夫は目を閉じ、小さな両手を胸の上で重ねました。海の呼吸と、心の呼吸がきれいに重なるまで、蒲原の夜は、しずかに、やわらかく、ひとつの毛布になって、町ぜんたいを包んでいました。





コメント