見えざる軋轢の果て
- 山崎行政書士事務所
- 2025年1月28日
- 読了時間: 4分
ここ数年、「カスタマーハラスメント(以下、カスハラ)」という概念がビジネス誌の特集を賑わせるようになった。その渦中にある企業の取材を進めていくうちに、私は一つの疑問に突き当たる。――「いつから、そしてなぜ、顧客による理不尽な要求や暴言が、当たり前のように放置されてきたのか」という点だ。
私は都内に本社を持つ中堅IT企業〈HRIソリューションズ〉を訪れた。かつては「顧客第一主義」を旗印に急成長を遂げたこの会社が、今では「従業員を守るためのカスハラ対策」に本腰を入れているという。現場に生じた深刻な歪みを、トップが問題視した結果だというが、果たしてどのような実態があるのか。
応接室で迎えてくれたのは、人事部マネージャーの竹内加奈(たけうち かな)氏。小柄で穏やかな物腰だが、その目にはどこか揺るぎない意思が宿っている。彼女が切り出したのは、冒頭から「社員が泣きながら電話をとる」ほど追いつめられた事例の数々だった。
「例えば、オンラインサービスの不具合に腹を立てた顧客が“無償サービスを延長しろ”“担当者をクビにしろ”などと深夜まで電話を放さない。あげくには人格を否定するような罵声を浴びせたり、SNSで会社全体を中傷したり。若いスタッフの中には、“悪いのは自分だ”と思い込んでしまう子もいます」
そうした声が社員アンケートで表面化したのが転機だった、と竹内氏は言う。過剰なクレームをすべて「接客のマナーがなっていないからだ」と片づけてきた上層部が、初めて社内の危機を真正面から認識し、「もうこれ以上、見て見ぬふりはできない」と決断したのだ。
私が取材用に見せてもらったファイルには、「カスハラにおける具体的事例の定義」や「初期対応のポイント」「上司・専門機関へのエスカレーションの手順」「従業員のケア方法」「刑事法を含む法的助言」が細かくまとめられている。これは新たに導入された「カスハラ対応マニュアル」だという。
驚いたのは、その内容の緻密さだ。録音の手順、メモ作成の方法、さらに警察への通報や弁護士への相談のタイミングまで、マニュアルに詳述されている。企業がここまで踏み込むとは、従来の“お客様第一”という呪縛を脱却するには相当の覚悟があったのだろう。
「正直、最初は抵抗がありました。昔から“お客様は神様”と叩き込まれてきたので、無理難題に対しても耐えるのが当たり前だと。でも、このままだと社員が心身ともに壊れてしまう。ですから、社長も含め経営陣が“従業員の安全と健康を最優先にする”という旗印を掲げたんです」
竹内氏がそう言い切る姿は、頼もしくさえある。だが、顧客との関係を悪化させないのかという懸念は、誰もが抱くだろう。その点を尋ねると、彼女は「むしろ反対です」と答えた。
「理不尽なクレームがまかり通ると、本当に会社やサービスのためになる建設的な提案がかき消されてしまう。何より、社員が疲弊した状態では、良質な仕事はできません。だからこそ、限度を超えた要求には毅然と“NO”と言うべきだし、そのための法的準備も怠らない。結果的に“真っ当な声”を大事にできる体制が整うんです」
同社ではさらに、定期的なカスハラ対応研修を行い、メンタルヘルスサポートの拡充にも力を入れている。外部カウンセラーとの契約はもちろん、産業医との連携体制を強化し、“万が一の時にも一人で抱え込まない”仕組みを用意しているという。
午後、私は実際にコールセンター部署のミーティングを見学した。そこでは、若手スタッフが自分の受けたクレームを具体的に共有し、「これは冷静に対処するべきだった」「これ以上の暴言が続いたら上司にバトンタッチする」といった意見が飛び交っていた。かつては“そんなのは甘えだ”と一蹴されがちな会話だが、今は周囲が受け止め、適切な手段を提案している。妙な我慢や萎縮が無いぶん、却って議論がスムーズに見えるのが印象的だった。
取材を終えて社屋を出るころ、私の頭には一つの言葉が残っていた。――「絶対に譲ってはいけない一線」という言葉だ。顧客とのトラブルをすべて否定するのではなく、あくまで“理不尽で違法性のある行為”にはきちんと楯突く。それは従業員個人のためだけでなく、会社や社会の健全性を保つためにも必要な一線なのだろう。
これまで「我慢の美徳」という観念に縛られていたビジネスの現場は、今、確実に変わり始めている。カスハラを容認しない企業の動きは、やがて業界全体へ波及するに違いない。何より、そこで働く一人ひとりの健康と尊厳を守ることが、企業の未来を作る――その事実を、私は今回の取材で改めて思い知った。





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