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角度のある十五秒

三津井食品の宣伝部長、相馬彩子がその言葉を初めて聞いたのは、都央アドの第七会議室だった。

「今回は、少し“角度”をつけたいんです」

そう言ったのは、東都テレビ営業局の安西だった。五十手前、銀縁の眼鏡、指の先まで管理職らしい男だった。名刺入れは薄く、声は太く、笑う時だけ目が笑わない。

彩子の前には、十五秒CMの絵コンテが並んでいた。

地方の小さな町。雨上がりの商店街。祖母が台所で鍋をかき混ぜている。帰省した孫が、冷蔵庫から三津井食品のレトルトスープを取り出す。祖母が言う。

「ちゃんと食べてりゃ、なんとかなるよ」

それだけのCMだった。

三津井食品は大企業ではない。売上は堅実だが、都会の若者には知られていない。今回、創業九十年を迎えるにあたって、初めて本格的に全国ネットのテレビCMを打つことになった。社長は「商品より会社の体温を伝えたい」と言い、彩子は半年かけて社内の工場や配送センターを回り、社員の顔を思い浮かべながらこの企画を選んだ。

ところが安西は、絵コンテの二枚目に赤ペンで丸をつけた。

「この祖母の台詞なんですが」

都央アドの営業、羽鳥が隣で小さく息を吸った。羽鳥は彩子より十歳若い。いつも笑顔だが、今日は笑顔が貼り付いていた。

「“ちゃんと食べてりゃ、なんとかなるよ”。悪くはないんです。ただ、今の東都テレビの編成方針としては、もう少し前に進む感じがほしい。懐かしさだけだと、視聴者を過去に閉じ込めるというか」

彩子は黙っていた。

安西は続けた。

「たとえば、“自分らしく選べば、未来は変わる”とか」

会議室の蛍光灯が、薄い紙の上で白く跳ねた。

「食品のCMですよね」

彩子が言うと、安西は頷いた。

「もちろんです。ただ、食品にも姿勢がありますから」

姿勢。

彩子はその単語を手帳に書き留めた。広告の会議で出てくる「姿勢」という言葉は、たいてい誰かが何かを譲れと言っている時に使われる。

「東都テレビさんとしては、そういうコピーでなければ考査が通らないということでしょうか」

羽鳥が慌てて口を挟んだ。

「いえ、考査というより、編成との親和性の話でして」

安西は笑った。

「考査は考査で別です。ただ、どの枠に入るか、どの番組と並ぶか、そこには局としての判断がある。三津井さんには、長くお付き合いしていただきたいんです」

その言い方は穏やかだった。

だが彩子には、湯気の向こうに針金が見えた気がした。

都央アドの羽鳥から電話が来たのは、その翌日の午後七時過ぎだった。

宣伝部のフロアには、コピー機の音だけが残っていた。若手社員は皆、退社している。彩子は社長説明用の資料を直していた。

「相馬さん、昨日の件なんですが」

羽鳥の声は、いつもより低かった。

「東都さん、かなり本気です。来期の火曜ドラマの提供枠、押さえられるかどうかが絡んでいます」

「CMのコピーひとつで?」

「コピーだけじゃないんです」

沈黙があった。

「番組連動ですか」

彩子が言うと、羽鳥は小さく笑った。困った時の笑いだった。

「まあ、言い方はいろいろあります。ドラマの中で食卓シーンを作るとか、出演者が情報番組で御社の商品を試すとか、キャンペーンサイトで連携するとか」

「それは広告費ですか」

「制作協力費です」

「同じ財布から出ます」

「名目が違います」

羽鳥はそう言ってから、声を落とした。

「正直に言うと、東都さんは今、スポンサーを選びたいんです。古い企業イメージのまま出稿されると、局のブランドにも影響するという考えで」

彩子は椅子にもたれた。

「テレビ局がスポンサーを選ぶんですか」

「選ぶというより、並びを整えるんです」

「並び」

「番組の価値観、局のキャンペーン、協賛企業の顔ぶれ。そこに違和感があると、全部が弱くなる、と」

羽鳥は代理店の人間だった。スポンサーから金を受け取り、テレビ局に枠を買い、制作会社にCMを作らせる。その間で調整するのが仕事だと自分で言っていた。

だが彩子には、最近の羽鳥が調整ではなく翻訳をしているように見えていた。

局の意向をスポンサーにやわらかく伝える翻訳。スポンサーの抵抗を局に小さく見せる翻訳。金の話を価値観の話に見せる翻訳。

「羽鳥さん」

「はい」

「あなたは、あのCMをどう思っているんですか」

電話の向こうが静かになった。

「僕は、好きです」

それは仕事上の返事ではなかった。

「でも、通したいなら少し変えた方がいいです」

それもまた、仕事上の返事ではなかった。

三津井食品の社内試写は、翌週の月曜日に行われた。

地方工場の従業員たちは、会議室の大型モニターに映った祖母の背中を見て、少し照れたように笑った。撮影は実際の工場の近くで行われていた。鍋の中のスープも、工場で長年働く社員のレシピを元にしている。

総務課の女性が言った。

「うちの母ちゃんみたい」

その一言で、彩子はこれでよかったのだと思った。

ところが、東京本社の役員会では反応が違った。

財務担当の常務が資料をめくりながら言った。

「東都テレビの火曜ドラマ枠が取れない可能性があるというのは本当か」

「可能性です」

彩子は答えた。

「東都側から、コピー修正と番組連動企画の提案がありました。ただ、当初の企画意図とは異なります」

「どの程度の修正だ」

「祖母の台詞を、“自分らしく選べば、未来は変わる”に変える案です」

社長の三津井啓介が顔を上げた。

「祖母がそんなことを言うのか」

「私もそう思います」

「だが、枠が取れないのは困る」

財務常務が口を挟んだ。

「この投資額で視聴率の高い枠を外されたら、説明ができない。地方局のスポットだけでは認知は伸びない」

彩子は、役員会の長机の向こう側を見た。

誰も悪人ではなかった。

社長は創業家の三代目で、工場の名前を一人ずつ覚えている。財務常務は銀行出身で、会社の借入を減らした。営業本部長は量販店との棚取りで頭を下げ続けている。

だからこそ、テレビ局の一言は効いた。

大企業でなければないほど、全国ネットの枠は光って見える。光って見えるものほど、影を見ないふりをする。

社長が言った。

「相馬さん、君の考えはわかる。ただ、会社としては勝負の年だ。十五秒で会社の全部を守ろうとしなくていい」

彩子は返事をしなかった。

十五秒で会社の全部を売ることはある。十五秒で会社の全部を曲げることもある。

そのことを、誰も口にしなかった。

修正版の収録は、都内の小さなスタジオで行われた。

祖母役の女優は七十二歳だった。舞台出身で、台詞の語尾に暮らしの重みを乗せる人だった。最初の撮影で「ちゃんと食べてりゃ、なんとかなるよ」と言った時、現場の照明助手が泣いた。

その女優が、今度は新しい台詞を読む。

「自分らしく選べば、未来は変わる」

監督がカットをかけた。

「すみません、もう一度。もう少し自然に」

女優は台本を見た。

「自然に言える言葉じゃないね」

スタジオの空気が止まった。

都央アドのクリエイティブディレクターは苦笑いした。羽鳥は床を見た。彩子はモニターの前に座ったまま、何も言えなかった。

女優は続けた。

「このおばあちゃんは、そんな立派なことを言わない。孫が痩せてるから、食べなさいって言うだけでしょう」

監督が小声で言った。

「でも、クライアント確認済みなので」

クライアント。

その言葉が彩子の胸に刺さった。自分たちはいつの間にか、自分たちの言葉ではなく、局が望む言葉の発注者になっていた。

収録は続いた。

七テイク目で、女優は完璧に言った。

「自分らしく選べば、未来は変わる」

完璧だった。

だから余計に、嘘に見えた。

東都テレビ本社の二十七階には、窓のない応接室がある。

壁には抽象画が飾られ、机の上には水滴ひとつないグラスが並んでいた。そこに彩子と羽鳥が呼ばれたのは、初回オンエアの十日前だった。

安西は、今度は一人ではなかった。

編成局の堀内という女が同席していた。四十代半ば、紺のジャケット、赤い爪。言葉を選ぶ時、相手ではなく天井の隅を見る癖があった。

「三津井さんの素材、拝見しました」

堀内は言った。

「ありがとうございます」

彩子が答えると、堀内は微笑んだ。

「方向性は近づいています。ただ、最後の商品カットの前に、もう一つ欲しいんです」

「もう一つ?」

「生活者への問いかけです」

安西が資料を差し出した。そこには、白い背景に黒い文字でこう書かれていた。

――食べることは、社会を選ぶこと。

彩子は紙を見たまま、しばらく動けなかった。

「これは、御社の今期キャンペーンコピーですか」

「局全体のメッセージです」

堀内が言った。

「今、消費は単なる消費ではありません。どの企業を選ぶか、どんな未来を支持するか。その意識を視聴者に持ってもらうことが大切です。三津井さんも食品メーカーとして、そこに参加していただけると」

「参加しない場合は?」

彩子の声は、自分でも驚くほど平坦だった。

安西がグラスに手を伸ばした。

「参加しない、という言い方ではありません。ただ、局として推奨する文脈に乗る企業と、そうでない企業では、当然、展開に差が出ます」

「展開とは、枠のことですか」

「枠だけではありません」

堀内が言った。

「情報番組での扱い、ドラマとの連動、朝帯の露出、イベント協賛。テレビは面で動きます。面で動く以上、角度が必要です」

また角度。

彩子は思った。この人たちは、角度のないものを平面だと思っている。だが、暮らしには角度がないからこそ見えるものがある。

「食品会社が、“食べることは社会を選ぶこと”と十五秒CMで言うと、視聴者には説教に聞こえませんか」

堀内は初めて彩子を正面から見た。

「説教に聞こえるかどうかは、作り方次第です」

「押しつけに聞こえる可能性は」

「押しつけという言葉は、少し後ろ向きですね」

羽鳥が小さく咳払いをした。

「相馬さん、素材の秒数上は調整できます。最後の商品カットを一秒詰めれば」

彩子は羽鳥を見た。

羽鳥は目を合わせなかった。

その瞬間、彩子は理解した。この部屋では、商品が削られる。企業の名前も、社員の手も、工場の湯気も削られる。残るのは、局が視聴者に見せたい「正しいスポンサー」の顔だけだった。

事件は、オンエア前日の夜に起きた。

三津井食品の品質管理部に、東都テレビ報道局の記者から電話が入った。

「御社の三年前の自主回収について、改めて確認したいことがあります」

三年前、三津井食品は一部商品のパッケージに賞味期限の印字ミスを出した。中身に問題はなく、すぐ自主回収して消費者庁にも報告している。地方紙に小さく載っただけの話だった。

それが、なぜ今。

彩子が折り返すと、記者は妙に丁寧だった。

「最近、食品メーカーの安全意識について特集を組んでいまして」

「三年前の印字ミスが、なぜ今の特集に入るのでしょうか」

「視聴者の関心が高いので」

「どなたから情報提供がありましたか」

「情報源は明かせません」

電話の向こうで、キーボードの音がしていた。

その直後、羽鳥からメッセージが届いた。

――相馬さん、報道の件、把握していますか。――東都営業も驚いていると言っています。――ただ、局内で報道と営業は別なので、営業からは止められないそうです。

彩子は画面を見つめた。

営業は止められない。だが、知らせることはできる。知らせて、スポンサーが何を考えるかを見ることはできる。

翌朝、社長室に緊急会議が招集された。

財務常務は顔色を失っていた。

「オンエア初日に報道特集で過去の回収が出たら、最悪だ」

営業本部長は怒鳴った。

「量販店に説明できない。棚が落ちる」

社長は彩子を見た。

「東都の要求は何だ」

誰も「要求」とは言っていなかった。しかし全員が、それが要求だと知っていた。

彩子は資料を差し出した。

「局のメッセージを最後に入れること。番組連動企画に参加すること。追加で制作協力費三千万円」

財務常務が机を叩いた。

「払え」

社長は目を閉じた。

「払えば報道は止まるのか」

彩子は答えなかった。

羽鳥に確認すれば、きっとこう言うだろう。

「止まるとは言えません。ただ、空気は変わります」

空気。

この業界では、最も高価なものに名前がなかった。空気を買う。空気を読む。空気で脅す。空気の中で、誰も証拠を残さない。

その日、彩子は東都テレビの地下駐車場にいた。

羽鳥が指定した場所だった。柱に「B3-17」と書かれている。換気扇の音が低く響いていた。

羽鳥は紙袋を持って現れた。

「相馬さん、これ、局からの修正案です」

「メールで送ればいいでしょう」

「残したくないみたいです」

紙袋の中には、絵コンテと見積書が入っていた。見積書の項目には「番組価値共創費」とあった。

三千万円。

彩子は笑った。

「すごい名前ですね」

羽鳥は俯いた。

「僕も初めて見ました」

「あなたの会社は、これを通すんですか」

「通します」

「なぜ」

「東都さんを敵に回せないからです」

羽鳥の声が震えた。

「僕らはスポンサーの代理店です。でも、実際には局の枠を持っている側に逆らえない。枠がなければ、僕らの商品もない。スポンサーに向いている顔と、局に向いている膝が、別々なんです」

「膝?」

「顔はスポンサーに向けて笑って、膝は局に向けて折ってる」

彩子は黙った。

羽鳥は続けた。

「僕、入社した時は、広告って企業の言葉を世の中に届ける仕事だと思ってました。でも今は、企業の言葉を局の言葉に合わせて削る仕事になってる」

駐車場の隅で、黒いワゴン車のエンジンがかかった。

「羽鳥さん」

「はい」

「この見積書、私に渡したことにして大丈夫ですか」

羽鳥は顔を上げた。

その目は、怯えていた。だが、どこかで救われたがってもいた。

「僕は、渡してません」

「わかりました」

彩子は紙袋を抱えた。

人は、正義のためだけに立ち上がるわけではない。眠れなくなったから立ち上がる。鏡を見た時に、そこにいる自分の顔が知らない人間になっていたから立ち上がる。彩子の場合は、七十二歳の女優が言った「自然に言える言葉じゃないね」が、ずっと耳の奥に残っていたからだった。

三津井食品は、東都テレビの火曜ドラマ枠を降りた。

社長の決断は、役員会で割れた。財務常務は反対し、営業本部長は沈黙した。最後に社長が言った。

「うちの会社は、九十年かけてスープを作ってきた。空気を買う会社になったら、次の十年はない」

その言葉は美しかった。

だが、現実は美しくなかった。

降板の翌週、東都テレビの情報番組で「食品メーカーに問われる安全意識」という特集が放送された。三津井食品の社名は出なかったが、映像には三年前の自主回収時に撮られた工場外観がぼかし入りで使われていた。地元の人間ならすぐにわかる建物だった。

SNSでは、三津井食品の名前が出た。

「やっぱりあそこか」「CM打つ金があるなら品質管理しろ」「古い会社って体質も古い」

量販店二社から問い合わせが来た。営業部は一日中、電話をかけ続けた。工場には無言電話が入った。採用内定者の一人が辞退した。

彩子の部下の松村は、トイレで泣いていた。

「私たち、悪いことしてないですよね」

彩子は答えられなかった。

悪いことをしていなくても、悪く見せられることはある。悪く見せられた時、世の中は事実より先に映像を信じる。映像を作る側がその力を知り尽くしていることが、一番恐ろしかった。

数日後、都央アドから正式な謝罪は来なかった。

代わりに、羽鳥が一人で会社を訪ねてきた。

「担当を外されました」

彩子は応接室で彼を見た。頬がこけていた。

「うちのせいですか」

「違います。僕が余計なことを言いすぎたので」

「紙袋のことですか」

羽鳥は首を振った。

「社内の会議で言ったんです。これは代理店の仕事じゃないって」

彩子は、少しだけ笑った。

「それで?」

「上司に言われました。“正しいことを言うなら、売上を持ってこい”って」

その言葉は、あまりに生々しく、あまりにありふれていた。

三津井食品の反撃は、派手ではなかった。

記者会見は開かなかった。東都テレビを名指しもしなかった。訴訟もしなかった。

ただ、自社サイトに一本の動画を上げた。

タイトルは「十五秒に入らなかったこと」。

そこには、工場の朝が映っていた。

五時四十分、白衣に着替える社員。原料の匂いを確かめる品質管理担当。配送トラックに手を振る守衛。休憩室で弁当を食べる若手。祖母役の女優が、撮影の合間に言った言葉。

「このおばあちゃんは、そんな立派なことを言わない。孫が痩せてるから、食べなさいって言うだけでしょう」

最後に、最初のCMが流れた。

雨上がりの商店街。祖母が鍋をかき混ぜる。孫がスープを飲む。祖母が言う。

「ちゃんと食べてりゃ、なんとかなるよ」

商品カット。社名。それだけ。

動画の説明欄には、こう書かれていた。

――私たちは、食べることに大きな言葉をかぶせません。――食べる人の一日が、少しだけ続きやすくなればいい。――三津井食品は、そのために作っています。

最初の一日は、ほとんど再生されなかった。

二日目、地方紙の記者が記事にした。

三日目、工場のある町の商店街が動画を共有した。

四日目、三津井食品の商品を長年扱っている小さなスーパーの店主が、手書きのPOPを出した。

「うちはこのスープを売り続けます。理由は、うまいからです」

それは広告ではなかった。

だから強かった。

一か月後、彩子のもとに差出人不明の封筒が届いた。

中には、東都テレビ営業局の内部資料のコピーが入っていた。表紙には「統合価値戦略スポンサー選定リスト」とあった。

スポンサー企業が、三つの色で分類されていた。

青――局方針と親和性高。黄――調整余地あり。赤――旧来型。露出注意。

三津井食品の名前は、赤に入っていた。

備考欄にはこう書かれていた。

「地方色強。情緒訴求。局キャンペーンとの接続弱。報道素材あり」

彩子は、その紙を長く見つめた。

報道素材あり。

人間の暮らしも、工場の壁も、三年前の印字ミスも、誰かにとっては素材だった。都合のいい時に切り出し、都合のいい角度で照らし、都合のいい音楽を乗せるための素材。

封筒の中には、もう一枚、小さなメモがあった。

――顔はスポンサーに、膝は局に。もうやめます。

羽鳥の字だった。

その翌週、羽鳥は都央アドを辞めた。

十一

半年後、東都テレビの火曜ドラマは高視聴率を取った。

三津井食品の代わりに入ったスポンサーは、外資系の飲料メーカーだった。CMには、局のキャンペーンコピーが美しく組み込まれていた。若者たちが夜明けのビルの屋上で笑い、画面にはこう出た。

――選ぶことで、世界は変わる。

悪いCMではなかった。

むしろ、よくできていた。

彩子は自宅のテレビでそれを見ながら、ビールを飲んでいた。皮肉なことに、その番組は面白かった。俳優も脚本も優れていた。テレビというものは、腐った構造の上にも美しい花を咲かせる。だから厄介なのだ。

番組が終わると、ニュースが始まった。

キャスターは穏やかな声で言った。

「次は、企業とメディアの新しい関係について考えます」

彩子はリモコンを持ったまま、少し笑った。

テレビは、時々自分自身を批判する。だが、その批判さえ番組になる。番組になった瞬間、批判は枠の中に収まり、スポンサー名の下で安全に流れる。

翌日、彩子は会社で新しい広告企画の会議に出た。

若手の松村が提案したのは、テレビではなく、地域の学校給食と連携した小さな企画だった。派手なコピーはない。視聴率もない。全国一斉の話題化もない。

「地味ですけど」

松村は不安そうに言った。

「うちっぽいと思います」

彩子は企画書をめくった。

地元の子どもたちに、工場見学をしてもらう。栄養士と一緒に、家庭で作れるスープのレシピを配る。社員が自分の仕事を話す。最後に、参加した子どもが家族に一袋持って帰る。

それだけ。

彩子は頷いた。

「いいと思う」

松村の顔が明るくなった。

「コピー、どうしますか」

彩子は少し考えた。

会議室の窓の外に、昼の東京が広がっていた。ビルの壁面には巨大な広告が映り、交差点のスクリーンには誰かの正しい未来が流れている。

彩子はペンを取った。

「大きなことは言わなくていい」

そして、企画書の余白に書いた。

――今日も、食べて帰ろう。

松村が笑った。

「普通ですね」

「普通でいい」

彩子は言った。

「普通を誰かに明け渡すと、あとで取り返すのが大変だから」

十二

その夜、彩子は久しぶりに羽鳥からメールを受け取った。

件名はなかった。

本文には、短い近況が書かれていた。地方の小さな制作会社に入ったこと。企業PRや自治体の記録映像を作っていること。給料は下がったこと。けれど、夜は眠れるようになったこと。

最後に、こうあった。

――あの時、紙袋を受け取ってくれてありがとうございました。――僕はずっと、誰かに見つけてほしかったんだと思います。

彩子は返信を書いた。

――こちらこそ。――今度、工場の動画を撮りに来ませんか。――台詞は、自然に言えるものだけでお願いします。

送信してから、彩子は窓を開けた。

五月の夜風が入ってきた。遠くで電車が走っている。テレビをつければ、今日も誰かが正しい言葉を語っているだろう。スポンサーは微笑み、局は頷き、代理店は拍手の音量を整える。

それでも、どこかの台所では湯が沸いている。

誰かが疲れて帰ってくる。誰かが鍋をかき混ぜる。誰かが「食べなさい」と言う。

その言葉には、角度がない。だからこそ、まっすぐ届くことがある。

彩子は、明日の会議資料を閉じた。

十五秒で世界は変わらない。けれど十五秒で、守れるものはある。声の高さ。言葉の手触り。嘘をつかない背中。

テレビの向こう側で作られた未来よりも、鍋の湯気の中にある今日の方が、彩子にはずっと確かに見えた。

 
 
 

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