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赤いポスト・一行だけの便り(舞台:静岡市清水区 御門台)


 幹夫青年は、御門台の夜の道を歩きながら、ポケットの中の薄い紙を、指の腹でそっとなぞってゐました。

 紙は小さく、まだあたたかくもなく、ただ「書かれないまま」の白さで、折り目だけがきちんとついてゐます。



 冬の空気は透明で、すこし硬く、息を吐くと白い息がふうっと出て、街灯の白い光の中でいちど膨らみ、それから闇の方へほどけて消えました。

 消えるのに、あたたかい。

 幹夫は、また思ひました。



 (ことばも、白い息みたいならいい。

  出て、消えて、でも少しあたたかい。)



 けれど幹夫の胸の中のことばは、息みたいに軽くありません。

 冷えた小石みたいに角ばって、胸の奥でごろごろしてゐます。



 ――「遅い。」

 ――「いまさら。」

 ――「でも言はないと、もっと遅い。」



 そんな見えない裁判官が、胸の中でこつこつ机を叩いてゐました。

 机の上には、送られないままの短い文が、切符みたいに何枚も並んでゐるのです。

 並んでゐるのに、どれも改札を通れない。

 通れないから、ますます冷える。冷えるから、ますます重くなる。



 御門台の道は、夜になると静かです。

 静かなのに、線だけはよく見えます。

 電線の線。

 道路の白線。

 家の塀の輪郭の線。

 そして、息が白くなる線。



 幹夫は、駅へ向かふ道の途中の、小さな文具屋の灯りの前で立ち止まりました。

 ガラス越しに、便箋や封筒や、季節のポストカードが並んでゐます。

 富士山の絵、波の絵、赤い実の絵。

 御門台の夜は寒いのに、カードの上の富士山はいつも晴れてゐて、いつも遠くの青を持ってゐます。



 幹夫は、いちばん小さいカードを一枚買ひました。

 小さいものは、長い説明を要求しません。

 小さいものは、ただ持って歩けます。

 そして、ただ持って歩けるものは、だいたい人を救ひます。



 店を出ると、風がすうっと通りました。

 見えません。けれど通ったのが分かります。

 なぜなら、幹夫の白い息が、いちどだけ斜めに引かれて、細い線になったからです。



 (線……。)

 (一本だけ。)



 幹夫は、坂を少し下った角で、赤いものを見ました。

 夜の中に、ぽっと赤い柱が立ってゐます。

 赤いポストです。

 御門台の白い街灯の下で、その赤は、白に負けません。

 白は厳しいのに、赤はやさしい。

 それは、赤が「叱るための光」ではなく、「届かせるための光」だからだ、と幹夫は思ひました。



 理科の授業で、光には波長があると聞いたことがあります。

 赤い光は波長が長い。

 長いものは、遠くまで届く。

 だから遠い合図には赤が使はれる――踏切の赤い点滅も、港の灯も、みんな同じ仕事をしてゐる。



 (この赤も、届く赤だ。)



 ポストの口は、横長の暗い穴で、そこだけが小さな宇宙の入口みたいでした。

 暗い穴の向うに、どこまで続いてゐるか分からない管があって、そこを言葉が滑っていく――そんな気がしました。

 御門台と、知らない遠さが、赤い柱一本でつながってしまふのです。



 幹夫は、ポストの前で、カードを取り出しました。

 カードの白い面は、いつもより白く見えました。

 白は、見つめるほど怖くなることがあります。

 白は、「書け」と言ふのに、何を書けとも言ひません。

 その無言が、胸の裁判官を元気にします。



 ――丁寧に書け。

 ――遅れた理由を説明しろ。

 ――謝れ。

 ――謝るなら、長く。



 長く。

 その「長く」が、幹夫にはいつも苦しくて、冷たくて、重たかったのです。

 長いことばは、途中で凍ります。

 凍ると、送る前に落ちます。



 幹夫は、カードの白を見つめたまま、ふうっと息を吐きました。

 白い息が、カードの上にいちどだけ落ち、すぐに消えました。

 消えたあとに残ったのは、ほんのわずかな、ぬるい湿り気だけです。



 (息は短い。)

 (短いのに、あたたかい。)



 そのとき、遠くの方から、御門台駅の短い合図が来ました。

 あの一点の音です。



 ツン。



 短い。

 短いから、言ひ訳が入りこめません。

 そして短いのに、確かに届く。

 幹夫の胸の中で、何かがぱちんと弾けました。

 火花です。思ひ付きの火花。



 (ひとこと。)



 幹夫は、ペンのふたを外しました。

 ペン先が紙に触れるとき、ほんの小さな抵抗がありました。

 その抵抗は、冬の朝の手すりで静電気が「ぱちっ」と来るときの、あの確かな感じに似てゐました。

 世界は小さな火花で変はります。

 長い演説より、小さな火花の方が早いのです。



 幹夫は、たった一行だけ書きました。



 「元気でゐてね。御門台より。」



 書いてしまふと、拍子抜けするほど、胸が軽くなりました。

 一行は短い。短いから、嘘が入りません。

 嘘が入らないから、立派な顔をしなくて済みます。

 立派な顔をしなくて済むと、呼吸がよく通ります。

 呼吸が通ると、胸の裁判官の机の音が遠くなります。

 机の音が遠くなると、夜がやさしくなります。



 幹夫は、そのカードを両手で持ちました。

 紙はもう白いだけの紙ではありません。

 一行の熱を持った紙です。

 小さな熱。

 でも、長い波長の赤みたいに、遠くまで届くかもしれない熱。



 幹夫は、ポストの口にカードを差し込みました。

 暗い穴へ入る瞬間、指先が少しだけためらひました。

 ためらひは、怖さではありません。

 「外へ出す」といふことの、最後の重さです。



 それから、幹夫は、手を放しました。



 ごとん。



 ポストの中で、乾いた音がしました。

 鈴でもベルでもない、生活の音です。

 生活の音は、妙にあたたかい。

 あたたかいのに、しつこく残りません。

 残らないから、次が出来ます。



 その瞬間、幹夫はふしぎな光景を胸の中に見ました。

 赤いポストの中には、見えない仕分け機があって、カードの一行を「波長」で分けてゐるのです。

 長い説明は重くて落ちる。

 けれど一行は光の粒みたいに軽い。

 軽いから、管の中を滑り、夜の見えない坂を越えて、どこかの家のポスト口へ、そっと滑り込む。



 幹夫は、赤いポストを見上げました。

 赤は黙ってゐます。

 黙ってゐるのに、「届く」とだけ言ってゐるやうでした。



 遠くで、もう一度、短い合図が鳴りました。



 ツン。



 幹夫は、その音に、黙ってうなづきました。

 胸の裁判官の机は、いま、叩かれてゐません。

 机の上に、御門台の雨の点や、用水の銀河の粉や、ブランコの虹の粉が散らばって、叩く場所がなくなってしまったのです。



 幹夫は、ポケットからスマホを取り出しました。

 画面の白い光は正確で、すこし厳しい。

 けれど、ポストの赤の残像が、画面の白に薄い“にじみ”を足してくれる気がしました。

 にじむ白は叱りません。

 にじむ白は、短いものを通します。



 幹夫は、長い文を書きませんでした。

 一行を投函したばかりです。

 同じやうに、一行だけでいい。



 ――「御門台。赤いポストに一行だけ落とした。元気?」



 送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。

 汽笛は鳴りません。

 でも、ポストの ごとん と同じやうに、確かに落ちて、確かに進んだのです。



 幹夫青年は、御門台で大きな奇跡を見たわけではありません。

 ただ、一行だけを書いて、赤いポストへ落としただけです。

 けれど、その“一行だけ”があると、夜はちゃんとあたたかい方へ進みます。

 御門台の赤い柱は今夜も静かに立ちながら、ひとりの胸の中の門を、そっと開けてゐたのでした。

 
 
 

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