赤いポスト・一行だけの便り(舞台:静岡市清水区 御門台)
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月27日
- 読了時間: 6分

幹夫青年は、御門台の夜の道を歩きながら、ポケットの中の薄い紙を、指の腹でそっとなぞってゐました。
紙は小さく、まだあたたかくもなく、ただ「書かれないまま」の白さで、折り目だけがきちんとついてゐます。
冬の空気は透明で、すこし硬く、息を吐くと白い息がふうっと出て、街灯の白い光の中でいちど膨らみ、それから闇の方へほどけて消えました。
消えるのに、あたたかい。
幹夫は、また思ひました。
(ことばも、白い息みたいならいい。
出て、消えて、でも少しあたたかい。)
けれど幹夫の胸の中のことばは、息みたいに軽くありません。
冷えた小石みたいに角ばって、胸の奥でごろごろしてゐます。
――「遅い。」
――「いまさら。」
――「でも言はないと、もっと遅い。」
そんな見えない裁判官が、胸の中でこつこつ机を叩いてゐました。
机の上には、送られないままの短い文が、切符みたいに何枚も並んでゐるのです。
並んでゐるのに、どれも改札を通れない。
通れないから、ますます冷える。冷えるから、ますます重くなる。
御門台の道は、夜になると静かです。
静かなのに、線だけはよく見えます。
電線の線。
道路の白線。
家の塀の輪郭の線。
そして、息が白くなる線。
幹夫は、駅へ向かふ道の途中の、小さな文具屋の灯りの前で立ち止まりました。
ガラス越しに、便箋や封筒や、季節のポストカードが並んでゐます。
富士山の絵、波の絵、赤い実の絵。
御門台の夜は寒いのに、カードの上の富士山はいつも晴れてゐて、いつも遠くの青を持ってゐます。
幹夫は、いちばん小さいカードを一枚買ひました。
小さいものは、長い説明を要求しません。
小さいものは、ただ持って歩けます。
そして、ただ持って歩けるものは、だいたい人を救ひます。
店を出ると、風がすうっと通りました。
見えません。けれど通ったのが分かります。
なぜなら、幹夫の白い息が、いちどだけ斜めに引かれて、細い線になったからです。
(線……。)
(一本だけ。)
幹夫は、坂を少し下った角で、赤いものを見ました。
夜の中に、ぽっと赤い柱が立ってゐます。
赤いポストです。
御門台の白い街灯の下で、その赤は、白に負けません。
白は厳しいのに、赤はやさしい。
それは、赤が「叱るための光」ではなく、「届かせるための光」だからだ、と幹夫は思ひました。
理科の授業で、光には波長があると聞いたことがあります。
赤い光は波長が長い。
長いものは、遠くまで届く。
だから遠い合図には赤が使はれる――踏切の赤い点滅も、港の灯も、みんな同じ仕事をしてゐる。
(この赤も、届く赤だ。)
ポストの口は、横長の暗い穴で、そこだけが小さな宇宙の入口みたいでした。
暗い穴の向うに、どこまで続いてゐるか分からない管があって、そこを言葉が滑っていく――そんな気がしました。
御門台と、知らない遠さが、赤い柱一本でつながってしまふのです。
幹夫は、ポストの前で、カードを取り出しました。
カードの白い面は、いつもより白く見えました。
白は、見つめるほど怖くなることがあります。
白は、「書け」と言ふのに、何を書けとも言ひません。
その無言が、胸の裁判官を元気にします。
――丁寧に書け。
――遅れた理由を説明しろ。
――謝れ。
――謝るなら、長く。
長く。
その「長く」が、幹夫にはいつも苦しくて、冷たくて、重たかったのです。
長いことばは、途中で凍ります。
凍ると、送る前に落ちます。
幹夫は、カードの白を見つめたまま、ふうっと息を吐きました。
白い息が、カードの上にいちどだけ落ち、すぐに消えました。
消えたあとに残ったのは、ほんのわずかな、ぬるい湿り気だけです。
(息は短い。)
(短いのに、あたたかい。)
そのとき、遠くの方から、御門台駅の短い合図が来ました。
あの一点の音です。
ツン。
短い。
短いから、言ひ訳が入りこめません。
そして短いのに、確かに届く。
幹夫の胸の中で、何かがぱちんと弾けました。
火花です。思ひ付きの火花。
(ひとこと。)
幹夫は、ペンのふたを外しました。
ペン先が紙に触れるとき、ほんの小さな抵抗がありました。
その抵抗は、冬の朝の手すりで静電気が「ぱちっ」と来るときの、あの確かな感じに似てゐました。
世界は小さな火花で変はります。
長い演説より、小さな火花の方が早いのです。
幹夫は、たった一行だけ書きました。
「元気でゐてね。御門台より。」
書いてしまふと、拍子抜けするほど、胸が軽くなりました。
一行は短い。短いから、嘘が入りません。
嘘が入らないから、立派な顔をしなくて済みます。
立派な顔をしなくて済むと、呼吸がよく通ります。
呼吸が通ると、胸の裁判官の机の音が遠くなります。
机の音が遠くなると、夜がやさしくなります。
幹夫は、そのカードを両手で持ちました。
紙はもう白いだけの紙ではありません。
一行の熱を持った紙です。
小さな熱。
でも、長い波長の赤みたいに、遠くまで届くかもしれない熱。
幹夫は、ポストの口にカードを差し込みました。
暗い穴へ入る瞬間、指先が少しだけためらひました。
ためらひは、怖さではありません。
「外へ出す」といふことの、最後の重さです。
それから、幹夫は、手を放しました。
ごとん。
ポストの中で、乾いた音がしました。
鈴でもベルでもない、生活の音です。
生活の音は、妙にあたたかい。
あたたかいのに、しつこく残りません。
残らないから、次が出来ます。
その瞬間、幹夫はふしぎな光景を胸の中に見ました。
赤いポストの中には、見えない仕分け機があって、カードの一行を「波長」で分けてゐるのです。
長い説明は重くて落ちる。
けれど一行は光の粒みたいに軽い。
軽いから、管の中を滑り、夜の見えない坂を越えて、どこかの家のポスト口へ、そっと滑り込む。
幹夫は、赤いポストを見上げました。
赤は黙ってゐます。
黙ってゐるのに、「届く」とだけ言ってゐるやうでした。
遠くで、もう一度、短い合図が鳴りました。
ツン。
幹夫は、その音に、黙ってうなづきました。
胸の裁判官の机は、いま、叩かれてゐません。
机の上に、御門台の雨の点や、用水の銀河の粉や、ブランコの虹の粉が散らばって、叩く場所がなくなってしまったのです。
幹夫は、ポケットからスマホを取り出しました。
画面の白い光は正確で、すこし厳しい。
けれど、ポストの赤の残像が、画面の白に薄い“にじみ”を足してくれる気がしました。
にじむ白は叱りません。
にじむ白は、短いものを通します。
幹夫は、長い文を書きませんでした。
一行を投函したばかりです。
同じやうに、一行だけでいい。
――「御門台。赤いポストに一行だけ落とした。元気?」
送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。
汽笛は鳴りません。
でも、ポストの ごとん と同じやうに、確かに落ちて、確かに進んだのです。
幹夫青年は、御門台で大きな奇跡を見たわけではありません。
ただ、一行だけを書いて、赤いポストへ落としただけです。
けれど、その“一行だけ”があると、夜はちゃんとあたたかい方へ進みます。
御門台の赤い柱は今夜も静かに立ちながら、ひとりの胸の中の門を、そっと開けてゐたのでした。




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