top of page

赤レンガの体温をわけ合う日――アユタヤ歴史公園にて

雲が低く流れ、空の明るさだけがやけに近い。赤いレンガの城壁の向こうに、黒茶の尖塔(プラーン)がいくつも突き上がり、ところどころに足場がかかっている。焼けた土の匂い、草いきれ、遠くの屋台から漂うココナツの甘い湯気。アユタヤの遺跡に、午前の光が斑に落ちていた。

宿で借りた自転車は、ベルがやたら元気なくせに、チェーンが少し緩んでいた。レンガの壁を背景に写真を撮ろうと止まった瞬間、「ギギッ」といやな音。次の瞬間、チェーンが外れてクランクに巻きつく。陽を吸った地面は裸足で踏めないほど熱い。しゃがみこんで悪戦苦闘していると、背中のほうから「サバーイ?」と声がかかった。

振り向くと、黄色い帽子の日焼けしたおじさん。露店の氷の箱に「น้ำเย็น(冷たい水)」と手書きで貼ってある。彼はためらいもなく自転車を逆さにし、竹串とプラスチックの櫛だけで器用にチェーンを歯車に戻してしまった。指は油でまっ黒だ。

「ピー・ソムチャイ。昔は修理屋、今はここで水とロティ・サイマイを売るよ」と胸を叩く。「君、日本? 手、見せて」

差し出した手の黒い油を、彼はタマリンド水にライムを絞った液でこすり、最後に砕いた塩をひとつまみ。「グリースにはこれが一番」と笑う。たしかに、石鹸より早く落ちていく。塩の粒が指の節に当たる感触まで、妙に心地いい。

礼を言うと、「お金いらない。代わりにこれ」と、娘さんが焼いたというロティ・サイマイを渡してくれた。紙の上に薄い生地を置き、綿菓子みたいな砂糖の糸をふわっとのせて巻く。噛むと、糸がきゅっ、と歯に優しくからむ。甘さが遺跡の乾いた空気にほどけ、ふっと肩の力が抜けた。

チェーンの油の名残で指先がまだ黒いまま、レンガの回廊に沿って歩く。壁の目地は太陽であたたまり、手を当てるとぬくい。焼きレンガの体温って、たぶんこういう温度だ。尖塔の根元には小さな祠があり、線香の煙が薄くたなびいている。そこへ修復作業の若者が通りかかって、ヘルメットのつばを上げた。

「新しいレンガは、赤が少し明るいでしょう?」と彼。「古いのは土が重い。持ってみる?」と一つ手渡される。ずしり。掌に伝わる湿り気のような重さ。若者は続ける。「2011年の洪水の跡が、まだこのへんの基礎に残ってます。水は引くけど、話は残る。だから、僕らはレンガと一緒に話も積み直してるんです」

ちょうどそのとき、空が暗くなり、ぴしゃりと一滴、雨が落ちた。スコールの気配。みんなでレンガをブルーシートで覆い、私は慌てて背負っていたレインジャケットを広げる。そこへ、制服姿の小学生のグループが駆け込んできた。先生が「No climbing, stay together!」と叫ぶ。雨は強くならず、ほんの短い通り雨で終わったが、足もとに小さな水たまりができた。子どもがうっかりおもちゃの恐竜を落とす。私は竹の枝でそっと引き寄せて渡した。少年の目がまん丸になる。「Khop khun krub!」その横で先生が「ありがとう」と日本語で言って笑う。修学旅行らしい。

雨があがると、レンガの匂いが一段と立った。壁の向こう、尖塔の間からガジュマルの青がのぞく。バナナの焼ける香りにお腹が鳴る頃、ピー・ソムチャイの屋台に戻ると、奥さんがกล้วยปิ้ง(グルアイ・ピン/焼きバナナ)を串から外してココナツシロップを垂らしていた。「さっき直してくれたから、今度は食べる番」と笑う。横のベンチには寺の犬が寝そべっている。名前は「ナムターン(椰子糖)」だという。耳の後ろを撫でたら、半目でこっちを見るだけで、動こうともしない。暑い国の犬の、賢い省エネだ。

ピーは、店先の柱に刻まれた線を指さした。「これ、洪水の水位。ここまで水。ボートで店を移動したよ。遺跡も、人も、浮いたり沈んだり、でもまた戻る。僕はそのとき、娘のロティの生地を屋根の上で焼いた。太陽オーブン、ハハハ」

笑いながら、彼は私の腕に白い糸を結んだ。祭礼で使うサイシンだ。「旅の安全と、チェーンが外れないように」。私も笑って、糸を指で弾く。ぴん、と小さな音がした。

午後、雲が切れて空が明るくなると、赤レンガの壁は再び湯たんぽみたいに温かくなった。壁越しに見る尖塔の群れは、どれも表情が違う。先が欠けているもの、蔦を冠っているもの、足場をまとっているもの。ふいに、若いカップルがベールを押さえながら写真を撮っていた。風がいたずらしてベールがレンガに引っかかる。私はそっと外し、「Chok dee(幸運を)」とつたないタイ語を言うと、二人はうれしそうに手を合わせた。

夕方、再び自転車で遺跡を一周する。チェーンは静か、ペダルは軽い。壁の影が長く伸び、尖塔の輪郭がオレンジ色に縁取られていく。ピー・ソムチャイの屋台の前を通ると、彼は大きく手を振った。私はベルを一度だけ「チリン」と鳴らし、白い糸の結び目を指で確かめる。きゅっとした結び目は、朝よりも少しだけ馴染んで、汗の塩で固くなっていた。

アユタヤは、焼けたレンガの匂いの街だ。王朝の栄華や戦火の記憶という大きな物語も、もちろんここには眠っている。でも今日わたしの胸に残ったのは、タマリンドで油を落としてくれた指の温度、ロティ・サイマイのやさしい甘さ、雨宿りの下で渡した小さな恐竜、犬ののんびりした呼吸、そして白い糸の軽さだ。歴史の年号と同じくらい、そういう小さなやりとりが、この遺跡の時間を支えている。

帰り際、夕暮れの風がレンガの壁に触れ、まだ少し温かい体温を運んでくる。私は自転車のハンドルにそっと頬を寄せ、「また来る」と小さく言った。チェーンは静かに回り続ける。糸は切れずに、結び目だけがひとつ増えた。

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page