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鉢の緑のあいだから「ヘゼリヒ」を吊るす――オランダ、細長いバルコニーの滞在記

借りた部屋のいちばんの宝は、幅の狭いこのバルコニーだった。レンガの壁に挟まれ、白い手すりには細長いプランターがずらり。柳の籠に植えられた緑、籐の椅子、折りたたみの小さなスツール。見下ろすと、黒い瓦屋根と赤レンガの家々が几帳面に並び、路上の自転車のベルが風に混ざる。到着初日の朝、私はコーヒーを淹れ、ストロープワッフルをカップの上に載せて温めるオランダ式を真似した。キャラメルがじんわり溶け、指先にとろりとした甘さが触れる。下を歩いていたご近所さんが見上げて、「Lekker?(おいしい?)」と笑った。私は親指を立て、旅がやっと始まった気がした。

最初の失敗はすぐに来た。洗った靴下をバルコニーで干そうとして、洗濯ばさみを一つ落としたのだ。乾いた音が下の石畳にはね、慌てて階段を降りかけると、ピンポンが鳴る。ドアを開けると、向かいのブールフラウ(ご近所のおばさん)が、にこにこしながら洗濯ばさみを差し出した。「Voor jou.(あなたのよ)」そして、彼女のポケットから木製のばさみを一つ取り出して、「プラスチックより、こっちが風に強いの」と片目をつむる。翌日、私は近所の**kringloop(リユースショップ)**で木のばさみを追加で買った。旅の荷物の中でいちばん“オランダらしい”お土産になった。

午後、植木に水をやっていたら、注ぎすぎてプランターの底からしずくがぽたぽた。ちょうど下でe-bikeを手入れしていたブールマン(おじさん)の帽子に一滴落ちた。私は顔から火が出そうになって謝ると、彼は笑って「Geen probleem!(問題ないよ)」と肩をすくめ、家から細い注ぎ口のついたジョウロを持ってきて貸してくれた。「オランダの雨は横からも降る。水はいつだって勝手に曲がるさ」。ジョウロのおかげでしずくはぴたりと止まり、私の心拍も落ち着いた。

夕方、通りの角のベーカリーからアペルタルトの香りが漂う時間。私はバルコニーに腰を下ろし、通りのpakjes(宅配便)のやり取りを眺める。配達員が「pakketje!」と呼ぶと、向かいの家の二階からロープで買い物かごが降り、箱がすっと収まってゆっくり上がっていく。誰も急がない。上がりきるまでの十数秒、通りはほんの少しだけ止まる。この緩慢さに、オランダ語の「gezellig(心地よい、くつろいだ)」が少し体で分かった気がした。

そんな穏やかさの中でも、小さなトラブルはやってくる。急なにわか雨でバルコニーの椅子が濡れ、座るとズボンにしずかに染みができた。困っていると、向かいの青年が身振りで「ちょっと待って」と合図。数分後、彼は自分のバルコニーから古い新聞紙をひらひらさせて渡してくれた。紙を敷いて座れば、たちまち即席クッションだ。「Nederlandse oplossing(オランダ式の解決)」と彼は笑い、私はDank je welと返す。新聞が吸い取った雨の匂いまで、妙にやさしくて覚えている。

ある晩は、通りの先の家でボレル(夕方の一杯)が始まったらしく、窓辺で人が集まっていた。私がバルコニーに出ると、誰かが手を振り、「来る?」と口を動かす。誘われるまま階段を下りると、キッチンのカウンターにはビターバレンとチーズ、ピクルス。知らない人に囲まれて緊張していると、ホストの男性が私のグラスを指さし、「半分でいい。オランダでは“半分”が仲良しのやり方」と言う。彼はストロープワッフルを半分に折って私の皿に置き、誰かが自転車のライトの電池交換で困っていると、別の誰かがペンチを貸す。人の手が静かに行き来する。目の前の家の窓から、湯気の上がるスタンポットの匂いが流れてきた。

翌朝、私はバルコニーでハーゲルスラグ(チョコスプレー)をふりかけたパンをかじり、コーヒーを飲んだ。パンくずが風に乗ってプランターの葉の上に落ち、すぐさまスズメがやってきて小さく跳ねる。するとブールフラウが通りから口笛で呼び、「コーヒー温めるでしょ?」と指で四角を作った――つまり「マグを窓から渡して」の合図。私は笑ってマグカップをひょいと差し出し、彼女の台所から戻ってきたマグは、ふわりと温かかった。ストロープワッフルを上にのせて温め直す小さな儀式も、彼女の手の温度つきで戻ってきた。

数日暮らして分かったのは、この細長いバルコニーが通りの舞台袖だということ。ここから「おはよう」も「困った」も、半歩だけ外に向けて差し出す。洗濯ばさみ一つから、新聞紙一枚、ジョウロの注ぎ口、ボレルのグラス半分。やり取りはどれも小さいのに、体温の伝わり方は驚くほど確かだ。旅の名所の写真より、こういうやり取りのほうが、やけに長く胸に残る。

帰国前の最後の朝、私は木のばさみでプルメリアの落ち葉をそっと挟み、プランターの縁に留めた。ブールフラウが見上げて親指を立てる。「Mooi!(いいね)」。スツールに腰かけ、ストロープワッフルを半分に割って、もう半分は透明な袋に入れた。エレベーターの前で思いがけず再会した配達員にそれを差し出すと、彼は「Half for luck」と笑ってポケットへ。バルコニーから見えるレンガの屋根は、相変わらず几帳面で、空には飛行機雲が薄い線を引いていた。

旅の記憶は、風景の壮大さよりも半分この手つきで残るのかもしれない。甘さを半分、雨宿りを半分、新聞紙を半分、ストロープワッフルを半分。オランダの小さなバルコニーで覚えた「gezellig」は、そうやって人の間に吊るされ、風が吹くたびにやさしく揺れていた。

 
 
 

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