雨垂れが落ちるまで
- 山崎行政書士事務所
- 2025年1月28日
- 読了時間: 7分
四月――新しい年度が始まり、桜の花びらが都会のビル街の隙間で舞っている。私は大手総合商社〈桐崎商事〉の中堅社員、永瀬修平(ながせ しゅうへい)。入社して十二年目を迎えたが、今の部署に来たのは半年前だ。
経営企画室――いわゆる会社の頭脳。エリートコースを歩んできた者たちの集まり、というのが一般的なイメージだろう。しかし実際は、常にプレッシャーと戦いながら会社の大局を設計する仕事だ。私もその一員になれたことを、当初は誇りに思っていた。
けれど、その新しい部署で待ち受けていたのは、想像を絶する圧力だった。とくに直属の上司である室長の加納正明(かのう まさあき)は、いわゆる「成果主義」の権化のような人物。ストイックに仕事をこなし、自分と同じテンションを部下にも求める。結果が出なければ容赦なく叱責し、徹夜続きになろうとも「やる気の問題だ」と言い放つ。
初めは私は「できるだけ食らいついてみよう」と決意していた。だが、ある日から加納の態度が変わり始めた。叱咤激励の域を超え、私の人格を否定するかのような言動をするようになったのだ。
「永瀬、なんでこんな単純な分析に時間がかかるんだ。頭が悪いのか?」 「お前のやり方が甘いんだよ。結果が出ないなら辞表を出せ」 「お前の存在自体が、経営企画室には不必要だ」
上司からそんな言葉を浴びるのは初めてだった。もしかすると、これが世にいう“パワーハラスメント”なのかもしれない――そんな疑念が脳裏をよぎったのは、二か月ほど前のこと。だが私は「仕事が遅い自分が悪いのでは?」と自問し、結局は黙って耐えてしまっていた。
***
それでも耐えきれなくなったのは、新規プロジェクトの企画書を加納がみんなの前で投げ捨てたあの日だった。私が徹夜で書き上げた企画案をデスクに叩きつけ、他の室員たちの前でこう言い放ったのだ。
「なんだこれは? 小学生の作文か? 今すぐ書き直せ!」
ショックで顔面がカーッと熱くなるのを感じ、室内はシーンと凍りついた。誰も止めない。誰も何も言わない。加納の権力は絶対的であり、周囲はそれに従うのみ。私は拳を握りしめながら資料をかき集め、急いで自分の席に戻ったが、もはや冷静さを失っていた。デスクに着くと頭が真っ白になり、どうしていいかわからずキーボードを叩いては消し、叩いては消し――時だけが虚しく過ぎていった。
やがて私は急に息苦しさを覚え、椅子から立ち上がるとそのまま会社のトイレに駆け込んだ。眩暈がする。冷たい水で顔を洗い、鏡の中の自分を見つめると、目の下に濃いクマがうっすらと浮かんでいる。自分の仕事能力や存在意義を否定され続け、気づかないうちに疲弊していたのだ。
「こんな職場、もう辞めようか……」
ふと呟いた。心の中で、確かにもう限界が来ている自分がいた。しかしそれでも、これまで十二年かけて積み上げてきたものをあっさり捨てるのか――そう思うと踏みとどまってしまう。家族もいる。ローンもある。簡単に投げ出せるものではない。
***
数日後、私に転機が訪れた。社内の人事部に新しく配属された佐々木という女性が「ハラスメント対策の窓口」を開設したのだ。すでにセクハラやパワハラの相談を受け付けており、電話やメールでの通報や相談が可能という社内メールが流れてきた。
私には「パワハラだと騒ぐのは甘え」という先入観があった。だが、加納からの暴言は日に日にエスカレートし、以前にも増して私の人格を抉る。残業は連日深夜に及び、家に着くころには気力も尽きていた。人事部への相談メールの文面を作りかけては消し、送るかどうかを逡巡する夜が続く。
そのうち、体調はますます悪化し、週末も頭痛が治まらない。どんよりと沈んだ雨空の下、休日出勤で経営企画室へ向かった私は、とうとう意を決して佐々木へメールを送信した。それは短い文章だった。
――「加納室長の言動により、業務に支障が出ています。パワハラと思われる行為が繰り返されており、相談に乗っていただきたいです」――
メールを送信する瞬間、心臓が高鳴った。万が一この相談が漏れて加納の耳に入れば、どんな報復があるか――恐怖はあった。しかし、このままでは自分が壊れてしまう。背に腹は代えられない。覚悟を決めた。
***
翌朝、佐々木から返信があった。「秘密厳守で、まずはお話しをお伺いできますか。日時をご指定ください」 私は会社近くのカフェにするか、それともビルの一室にするか迷った末、人事部が用意している“相談室”を指定した。それは、本社ビルの地下にある小さな会議室。昼休みにそこへ行くと、佐々木は静かに向かい合わせに座り、私の話を聞き始めた。
「具体的に、加納室長からどのような言葉や指示があったのか、教えていただけますか?」 佐々木の声は落ち着いていた。私は、胃のあたりがチクリと疼くのを感じながら、これまでの経緯を話した。暴言や侮辱的発言、度を超えた叱責、企画書を投げ捨てられた場面――すべてを打ち明け終えると、自分でも驚くほど喉がカラカラに乾いていた。
「お話、ありがとうございます。状況は深刻ですね。今までお辛かったでしょう」 佐々木は眉をひそめながら、メモを取りつつ言った。「会社としては、パワハラが疑われる事例について速やかに調査することが義務づけられています。加納室長の言動が“業務指導の範囲”を超えるものであれば、対策が必要です。必要であれば別部署への異動や、室長への指導も検討します」
――室長への指導? これだけ絶対権力を振りかざす加納に対し、会社が本気で動いてくれるのか? 正直半信半疑だった。けれど、佐々木は決して冗談めいた様子ではない。私は彼女の毅然とした態度に、ほんの少し救われた気持ちになった。
***
それから一週間ほど経ったある日、私は呼び出しを受けることなく、ただ“社内調査が進行中”という連絡を受け取った。 一方、加納は相変わらず職場で尊大な態度を続けていたが、私に対する露骨な罵倒や威圧は、なぜか減った。まるで周りの動きを察知しているかのようだった。
そして、二週間後。経営企画室の朝礼で、加納が突然「家庭の事情」でしばらく休むことになったとアナウンスされた。代わりに室長代理として、外部から呼び戻されたベテラン社員が来るという。
噂によれば、社内調査で加納のパワハラに関する複数の証言が集まり、会社として“懲戒の一歩手前”の処分が検討されたらしい。加納が自主的に“休職”を申し出たのは、その処分を回避するための方法だったのではないか――と、同僚たちの間で囁かれていた。
私としては、個人的に直接謝罪を受けたりはしていないが、“あの圧”が消えた職場は嘘のように穏やかになった。新しく室長代理になった篠原は、仕事に厳しいが理不尽な怒鳴り声は上げず、「困ったらすぐ相談してくれ」と繰り返し声をかけてくれる。私はまだ心のどこかに「ミスをすればまた否定されるのでは」という恐怖感を抱えていたが、少しずつ克服できそうな手ごたえを感じていた。
***
薄曇りの金曜日。外は小雨が降っている。オフィスビルの窓ガラスを伝う雨粒が、まるで肩の力を抜くように落ちていく。私はデスクに向かい、週末に向けてまとめたプロジェクトの報告書をプリントアウトした。手がわずかに震えているのは、加納がいない今でも、心の傷が完全には癒えていないからかもしれない。
けれど、私はそれでも前に進もうと思う。会社が今回、少なくとも私の訴えを聞き、何らかのアクションを起こしてくれた事実がある。その結果、職場環境が変わった。自分一人ではどうにもならなかった苦しみが、社内の制度と他者のサポートを得て、確かな“光”になりはじめたのだ。
雨音がカーテン越しに聞こえる。こうして雨に打たれながら、街は静かに変わっていく。きっと、同じように私たちの会社も変わっていくのだろう。まだ完全ではない。加納のように強権的な指導を「組織のため」と信じている上司が、他にもいないとは限らない。しかし、一度こうした“例”が生まれれば、社内の空気は確実に動く。
――パワハラを許さない―― それは、社員一人ひとりの尊厳を守るだけでなく、会社全体の健全性を取り戻すために必要なスタートラインだと、今なら実感できる。
「よし……」
小さくつぶやいて、プリントアウトした報告書を胸に抱え、私は会議室へ向かった。雨のしずくがビルの窓を伝うように、私の中に滞っていた暗い感情も、少しずつ流されていく――。 きっと、雨が上がれば、空はまた鮮やかに広がるはずだ。そのときを信じ、私はまた一歩、足を踏み出すのだった。





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