雲の海で速度を替える――窓側A席の小さな旅
- 山崎行政書士事務所
- 2025年9月15日
- 読了時間: 5分

離陸前、私は迷いなく窓側を選んだ。雲の海を見るためだ。シートベルトをカチリと締め、前のポケットから安全のしおりを抜いて眺めるふりをしながら、胸の鼓動を落ち着かせる。となりの席には仕事帰りらしい女性、通路側には赤ちゃん連れの若い夫婦。客室乗務員が「携帯電話は機内モードで」と笑顔で確認していくあいだ、エンジンの音が低い唸りから、電動ドリルのような勢いに変わっていった。
最初の“やらかし”は、動き出してすぐに起きた。キャビンの揺れで、私の水のカップがテーブルの上をゆっくり滑りだしたのだ。慌てて手を伸ばす前に、隣の女性が紙ナプキンを四つ折りにして、私のカップの下へすっと差し込む。「それ、滑り止めになりますよ」。たしかにピタリと止まった。私は親指を立て、彼女は肩だけで微笑んだ。飛行機に乗り慣れている人は、だいたいこういう小さな手当てをいくつも持っている。
雲の層を突き抜けると、窓の外は一気に白い国になった。もくもくと盛り上がる雲は、焼きたてのメレンゲの山みたいで、ところどころに青い海のポケットが覗いている。機体がその谷をぽこ、ぽこと渡るたび、シートの背が柔らかい拍手をする。私は額を窓に近づけて、雲の影が雲へ落ちる不思議を眺めた。地上の段差がいっさい見えない世界に来ると、心の凹凸まで平らになる気がする。
通路側の赤ちゃんが、耳が痛いのか眉間にしわを寄せて泣き始めた。母親が困った顔で抱き直すと、乗務員が紙コップと温かいおしぼりを持ってきて、コップの底におしぼりを入れ、赤ちゃんの耳へふんわり当てる。「これで少し楽になります」。私はバッグからのど飴を出して父親に渡す。「お父さんもどうぞ、つばを飲むと耳抜きになります」。数分後、赤い顔はやわらぎ、赤ちゃんは機内の低い唸りに合わせてすうすうと眠りはじめた。列は同じ速度で空を進むけれど、こういうやり方はいつだって早い。
ベルトサインが消えたころ、私はペンを取り出して入国カードを書こうとした。ところが、手の汗で滑ったのかペンがコロコロと転がり、前の座席の下へ潜りこむ。身を縮めて手を伸ばしても届かない。すると、隣の女性が足先で器用にペンの尻をつついて前へ押し戻してくれた。「チームワークですね」と彼女。私は「ほんとに」と笑い、ついでに彼女の分の飴をもう一つ差し出した。
機内販売のワゴンが近づく。私はコーヒー、彼女は紅茶。砂糖は?と聞かれ、二人して「半分だけ」と答えたら、乗務員が目を丸くして笑った。配られたチョコレートは一つ。私は自然にそれを半分に割り、隣へ差し出す。彼女もポケットから米菓を取り出し、これも半分。「Half for luck」と小声で言い合う。窓の外の雲が、一段と明るく見えた。
白い国にも、たまに穴が空く。そこだけ地上の色が覗き、川が蛇のように黒く光る。私は地図アプリを開きかけて、機内モードにしていたことを思い出す。いいのだ、正確じゃなくて。雲の地図は、想像で読む方が面白い。あの暗い筋は山脈、あの光る点は湖、あの長い影は、これから降りる町の高層ビル。
小さな揺れが続いたとき、乗務員が再び回ってきて、シートベルトを軽く引いて確認してくれた。「大丈夫、ただの空の段差です」。そう言われると、たしかに胸の中の緊張が解ける。窓の外で、雲の峰が風にくるりと形を変え、私の手のひらの飴がころりと転がった。雲は同じ形を三十秒と保たないけれど、安心の言葉は意外と長く効く。
やがて機長のアナウンスが短く入り、降下が始まる。私は鼻をつまんでゆっくり息を吹く。赤ちゃんも目を覚まし、母親が「もうすぐだよ」と耳元で囁く。窓の外の白が薄くなり、雲の底をくぐると、地上の色が一気にカラフルになる。雲海はテーブルクロスのように引かれ、町の四角と川の銀色、畑の幾何学が戻ってくる。
車輪が滑走路に触れ、どん、どんと二度、柔らかく跳ねた。拍手をする人はもうあまりいないけれど、私は紙コップの底をひとつ指で弾いて、心の中でだけ拍手をした。タキシングのあいだ、隣の女性が「雲、きれいでしたね」と言う。「ええ。地上のこと、いったん全部白で塗りつぶしてくれました」と私。彼女は頷き、空の明るさを名残惜しそうに見上げた。
ゲートに着くと、私は座席の上の棚から自分のバッグを下ろす。そこで最後の小さな“やらかし”。荷物タグの紐が緩んでいて、ぶらりと外れかけていたのだ。私は飴の包み紙の銀のワイヤーを取り、タグの穴に通して八の字でねじる。隣の女性が「器用ですね」と笑う。「行きで教わったんです、小さな直し方」。歩きだした通路に、さっき半分こにしたチョコの甘さがまだ残っている気がした。
空港のドアを出ると、温度が一段変わった。地面の固さが足裏に伝わり、人々はそれぞれの速度で散っていく。私はバックパックのポケットを確かめ、予備の飴を一つ残しておく。次にどこかで誰かの耳が痛くなったら――雲の国で受け取った手当てを、地上で半分こして渡すために。
雲の海は、行き先の名前より、人の手の温度を覚えさせる。滑り止めのナプキン、紙コップの即席耳当て、足先で押し戻されたペン、半分の砂糖、八の字のタグ。あの白い国にいたあいだだけ、世界はやさしく同じ速度で進んでいた。次のフライトでも、窓側を選ぶつもりだ。雲の向こうで、また速度を替えるために。





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