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露の帽子をかぶった新茶

 五月の朝、茶畑の若葉はみんな帽子をかぶっていた。

 それは人の手で編んだ麦わら帽子でも、学校へ行く子どもがかぶる黄色い帽子でもなかった。夜がそっと置いていった、透き通った露の帽子だった。

 茶の芽の先に、ひと粒。 若葉の縁に、ひと粒。 まだ開ききらない小さな葉の上に、またひと粒。

 露は、まるく、軽く、今にも転げ落ちそうでありながら、朝の最初の光を受けるまで、そこにじっと留まっていた。まるで新茶の子どもたちが、摘まれる前の短い時間だけ、夜からもらった帽子を大切にかぶっているようだった。

 幹夫は、その光景を見るのが好きだった。

 空がまだ藍色を残し、山の端だけが少しずつ白んでくるころ、茶畑は緑というより、眠りから覚める前の淡い影だった。その影の上で、露の帽子だけが小さく光っている。幹夫にはそれが、まだ誰にも言えない思いを頭にのせた子どもたちの列のように見えた。

 幹夫は十二歳だった。

 村の茶農家の家に生まれ、茶の香りの中で育った。五月になると、家の柱も、畳も、祖母の割烹着も、父の作業着も、みんな新茶の青い匂いをまとう。けれど幹夫にとってその匂いは、ただ明るいものではなかった。

 新茶の香りは、うれしい。 でも、少し痛い。

 胸の奥にしまってある古い手紙を、風が勝手にめくってしまうような匂いだった。

 母が生きていたころ、幹夫はよく朝の茶畑へ連れていってもらった。

 母は白い手ぬぐいを頬の下で結び、籠を背負いながら、若葉の先の露を指さした。

「見てごらん、幹夫。新茶が帽子をかぶっているわ」

「帽子?」

「ええ。夜が編んだ帽子。朝日が強すぎて、若葉がびっくりしないようにね」

 母はそんなふうに言った。

 幹夫は、その言葉を本当のこととして聞いた。茶の若葉は朝日を怖がる。だから夜は、露で帽子を作ってやる。けれど太陽が高くなれば、帽子は消える。そのかわり若葉は、少しだけ強くなっている。

「帽子が消えたら、かわいそう」

 幼い幹夫がそう言うと、母は笑った。

「帽子は消えるんじゃないのよ。葉っぱの中へ入っていくの。そうして新茶の香りになるの」

 幹夫は、その言葉も信じた。

 露の帽子は、香りになる。

 母は去年の冬に亡くなった。

 雪は降らなかった。ただ、空気だけが凍ったように冷たい日だった。病院の白い部屋で、母の手は驚くほど軽かった。幹夫はその手を握っていたのに、言いたいことを何も言えなかった。

 ありがとうも。 行かないで、も。 また朝の茶畑へ連れていって、も。

 みんな喉の奥で小さく固まり、声にならなかった。

 母がいなくなってから、幹夫は自分の胸の中にも、消えない露の帽子があるように思った。母に言えなかった言葉が、頭ではなく胸の上に乗っている。透明で、軽いはずなのに、ときどきひどく重い。

 それを落としたら泣いてしまいそうで、幹夫はずっと、そっと抱えていた。

 その年の一番茶のころ、学校で小さなことがあった。

 朝、幹夫は母が生前に縫ってくれた古い帽子をかぶって登校した。茶色の布帽子で、内側に小さく「幹夫」と名前が縫いつけてある。文字は母の手縫いで、少し丸く、少し右へ傾いていた。

 その帽子は、もう少し小さくなっていた。

 かぶると額に跡がつく。けれど幹夫は捨てられなかった。帽子の内側に額が触れると、母の手が髪に触れたような気がするからだった。

 休み時間、健太がそれを見て笑った。

「幹夫、その帽子、まだかぶってるのかよ。子どもっぽいな」

 悪気のない声だった。

 けれど、幹夫の胸は小さく傷ついた。

 帽子そのものを笑われたのではない。母が縫ってくれた名前まで、母が幹夫の頭に置いてくれたやさしさまで、軽く笑われたような気がした。

 幹夫は何も言い返せなかった。

 その日、家に帰ると、帽子を机の上に置いたまま、しばらく見つめていた。母の縫った名前は、何度も汗を吸い、洗われ、少し色が薄くなっている。

 夕飯のとき、父がそれに気づいた。

「その帽子、もう小さいだろう」

 幹夫は黙った。

「新しいのを買ってやる」

 父の言葉は親切だった。

 でも幹夫の胸は、また痛んだ。

「これでいい」

「きつそうじゃないか」

「いい」

 声が強く出た。

 父は少し驚いた顔をした。

「そんなにむきになることじゃない」

 幹夫はうつむいた。

 分かっている。帽子はただの帽子だ。小さくなれば替えればいい。父はそう思っているのだろう。それは間違いではない。

 けれど幹夫には、ただの帽子ではなかった。

 母がまだいたころの朝。 学校へ行く前、玄関で帽子をかぶせてくれた手。 「行ってらっしゃい」と言った声。 強い風の日に、帽子が飛ばされないよう紐を結び直してくれた指。

 それらが、帽子の内側に折り畳まれていた。

 父はそれを知らないのではない。きっと知っている。けれど父は、そういうものを言葉にするのが苦手だった。

 幹夫も、言葉にできなかった。

 食卓には沈黙が落ちた。

 祖母だけが、急須に湯を注ぐ音を静かに響かせていた。

 その夜、幹夫は帽子を枕元に置いて眠ろうとした。

 けれど眠れなかった。

 窓の外には星が出ていた。山の上には、淡い銀河が流れている。茶畑からは新茶の香りがかすかに漂ってきた。幹夫は帽子を手に取り、内側の名前を指でなぞった。

 母の糸。

 母の手。

 母の時間。

 けれど帽子は、もう小さい。

 かぶり続ければ額が痛む。父の言う通りだった。母の思い出を大事にしているつもりで、自分の頭を締めつけているのかもしれない。

 そう思うと、胸がますます苦しくなった。

 幹夫はそっと起き上がり、帽子を持って外へ出た。

 夜の道は冷えていた。

 草には露が降りはじめていて、靴の先が湿った。田んぼから蛙の声が聞こえる。遠くの製茶場はもう静かで、村は深い眠りの中にあった。

 茶畑へ続く坂を上ると、新茶の香りが濃くなった。

 夜の新茶の香りは、昼よりも静かだ。青く、甘く、少し苦い。その匂いは幹夫の胸の奥へ、母の名前を呼ぶように入ってきた。

 茶畑に着いた。

 若葉は闇の中で色を失い、畝は黒い波のように続いている。けれど葉先には露が宿り、星明かりを受けて小さく光っていた。

 露の帽子をかぶった新茶。

 幹夫は畝の端にしゃがんだ。

 一枚の若葉の上に、まるい露が乗っている。帽子というには小さすぎる。けれど、確かにそれは若葉を守っているように見えた。強い朝日が来るまでの短い間、葉の柔らかさを包んでいる。

「君たちも、帽子を脱ぐのが怖い?」

 幹夫は小さく言った。

 若葉は答えなかった。

 ただ、風に少し揺れた。

 そのとき、茶畑の奥から声がした。

「怖い葉もあるし、早く脱ぎたい葉もあるよ」

 幹夫は顔を上げた。

 畝の向こうに、小さな人影が立っていた。

 年寄りでも、子どもでもないように見えた。頭には露でできた透明な帽子をかぶっている。着物は茶の若葉のような淡い緑で、袖の先からは湯気のような白い光がこぼれていた。

「あなたは誰?」

 幹夫が尋ねると、その人影はにこりと笑った。

「露帽子屋」

「つゆぼうしや?」

「夜ごとに、若葉へ露の帽子を配って歩く者さ」

 幹夫は息をのんだ。

「本当に、夜が帽子を作っているの?」

「夜だけじゃない。空気の冷たさ、土の湿り、星の光、葉っぱの小さな願い。そういうものを少しずつ集めて、露の帽子にする」

 露帽子屋は、茶の若葉の先にそっと手をかざした。

 すると、その葉の露が少し丸くなり、ぴたりと安定した。まるで本当に帽子を整えられたようだった。

「帽子は、何のためにあるの?」

 幹夫は聞いた。

「守るため」

 露帽子屋は言った。

「でも、それだけじゃない」

「それだけじゃない?」

「いつか脱ぐためにもある」

 幹夫は黙った。

 ポケットの中で、母の帽子を握った。

 露帽子屋は幹夫の手元を見た。

「君も帽子を持っているね」

「お母さんの帽子」

「君のお母さんが作った帽子だろう」

 幹夫は驚いた。

「どうして分かるの」

「帽子には、かぶせた人の気持ちが残るから」

 露帽子屋は静かに言った。

「その帽子には、心配と、願いと、行ってらっしゃいの声が縫い込まれている」

 幹夫の目の奥が熱くなった。

 その通りだった。

 帽子をかぶるたび、幹夫は母の「行ってらっしゃい」を聞いていた。聞こえないけれど、確かに聞いていた。

「でも」

 幹夫は言った。

「もう小さいんだ」

「うん」

「かぶると痛い。でも、脱いだらお母さんが遠くなる気がする」

 露帽子屋は茶畑を見渡した。

 夜の若葉たちは、みんな露の帽子をかぶっている。光る帽子、震える帽子、今にも落ちそうな帽子。

「この若葉たちの露帽子も、朝になれば消える」

 露帽子屋は言った。

「かわいそう?」

「少し」

「でも、消えたあと、葉は母の夜を忘れるわけじゃない」

「母の夜?」

「露をくれた夜のこと。冷たい空気に守られたこと。星を映したこと。帽子は葉の上から消えるけれど、葉の中へ入る。そして香りになる」

 幹夫は母の言葉を思い出した。

 帽子は消えるんじゃないのよ。葉っぱの中へ入っていくの。そうして新茶の香りになるの。

「お母さんも同じことを言ってた」

 幹夫はつぶやいた。

 露帽子屋は微笑んだ。

「君のお母さんは、よく聞く人だったからね。茶畑の言葉を」

 幹夫は帽子を胸に当てた。

「じゃあ、この帽子も、脱いでも消えない?」

「消えない」

「でも、かぶらなくなったら、声を忘れそう」

「帽子の声は、布だけにいるわけではないよ」

 露帽子屋は幹夫の胸を指さした。

「君が誰かに気をつけてねと言うとき。小さな子の帽子が曲がっていたら直してあげるとき。強い日差しの下で、誰かを日陰へ入れてやるとき。その帽子の声は、形を変えて出てくる」

 幹夫は黙った。

 母の帽子を脱ぐことは、母を捨てることではないのかもしれない。

 でも、分かることと、できることは違う。

「怖い」

 幹夫は正直に言った。

「脱ぐのが怖い」

「怖くていい」

 露帽子屋は言った。

「若葉だって、露が落ちる時は少し震える」

 風が吹いた。

 茶の葉の上の露が一斉に揺れた。小さな帽子たちが、夜の中で震えた。

「でも、震えながら朝を迎える」

 露帽子屋は続けた。

「強くなるというのは、震えなくなることではない。震えながら、朝の光を受けることだよ」

 その言葉は、幹夫の胸にゆっくり入ってきた。

 父の「強くならんとな」という言葉とは違う強さだった。泣かないことでも、感じないことでもない。露を落とす怖さを知りながら、それでも光の方を向くこと。

 幹夫は若葉の露を見つめた。

 そこには星が映っていた。小さな露の帽子は、夜空を一粒ぶんだけ持っている。

「帽子を脱いだあと、若葉はどうなるの」

「新茶になる」

「新茶」

「そう。露の帽子をかぶっていたことを、香りにして誰かへ届ける」

 露帽子屋は幹夫を見た。

「君も、いつかそうなる」

「僕も?」

「君の悲しみも、怖さも、母さんへの思いも、ずっと帽子の中に閉じ込めておくと、頭が痛くなる。でも少しずつ脱いで、風に当てれば、いつか香りになる」

「香りになったら、どうなるの」

「誰かを守る」

 露帽子屋は言った。

「帽子の形ではなく、言葉やまなざしや手の温度として」

 そのとき、東の空がほんの少し白みはじめた。

 夜明けが近い。

 露帽子屋の姿も、茶畑の露のように少しずつ透けてきた。

「もう行くの?」

 幹夫が聞くと、露帽子屋は頷いた。

「朝は、露帽子屋の閉店時間だからね」

「また会える?」

「五月の夜に、若葉が帽子をかぶるころなら」

 露帽子屋は、幹夫の持っている帽子を見た。

「その帽子を、今日すぐ手放さなくてもいい」

 幹夫は顔を上げた。

「いいの?」

「大切なものは、急に脱ぐと寒い。まずは、痛いほどきつくかぶらないことから始めればいい」

「どうすればいい?」

「持って歩く日があってもいい。机に置いて話しかける日があってもいい。新しい帽子をかぶって、その中に古い帽子の声を入れる日が来てもいい」

 幹夫は帽子を見つめた。

 母の縫った名前。

 薄くなった糸。

 少し小さくなった布。

 それはもう、幹夫の頭を守るには小さい。けれど、幹夫の胸に入るには、まだ十分だった。

 露帽子屋は最後に言った。

「朝が来るよ。若葉たちの帽子が香りになる時間だ」

 その言葉とともに、露帽子屋は茶畑の白い朝靄に溶けた。

 幹夫はひとり、畝の端に立っていた。

 茶の若葉の露帽子が、朝の光を受けて輝きはじめた。ひと粒、またひと粒、露は小さくなっていく。落ちるものもある。消えるものもある。けれどそのたびに、新茶の香りが少しずつ濃くなっていく気がした。

 帽子は、葉の中へ入っている。

 幹夫はそう思った。

 坂道の下から足音がした。

 父だった。

 作業着の上に薄い上着を羽織り、少し息を切らしている。幹夫を見つけると、ほっとした顔になり、それから少し厳しい声で言った。

「こんな朝早くに、黙って出るな」

「ごめんなさい」

 幹夫は素直に言った。

 父は幹夫の手元を見た。

「その帽子を持ってきたのか」

「うん」

 幹夫は帽子を胸に抱いた。

 父はしばらく黙っていた。

 朝の茶畑に、沈黙が降りた。

 けれどそれは、昨日の食卓の沈黙とは違っていた。茶の香りがあり、露の光があり、東の空の白さがあった。

「お父さん」

 幹夫は言った。

「この帽子、もう小さいのは分かってる」

 父は幹夫を見た。

「でも、すぐ捨てたくない」

「ああ」

「かぶると痛い。でも、脱ぐのも怖い」

 父の顔が少しだけ変わった。

 幹夫は続けた。

「お母さんが遠くなる気がするから」

 父は目を伏せた。

 その沈黙の奥に、父自身の痛みがあることを、幹夫は感じた。父もまた、母のものを手放せずにいるのかもしれない。母の湯呑み。母の使っていた茶摘み籠。母の笑い声が残っている場所。

「俺も」

 父は低い声で言った。

「母さんの古い手ぬぐいを、まだ捨てられん」

 幹夫は父を見た。

「お父さんも?」

「ああ」

 父は少し苦く笑った。

「使えばいいのに、使えん。しまっておくと、時々苦しい。でも捨てられん」

 幹夫の胸が温かく痛んだ。

 父にも、露の帽子があったのだ。

 母を思う透明な帽子。見えないけれど、ずっと心に乗っている帽子。

「お父さん」

「なんだ」

「帽子って、脱いでも消えないんだって」

 父は少し困ったような顔をした。

「誰が言った」

 幹夫は茶畑を見た。

「露帽子屋」

 父は眉を寄せた。

 けれど笑わなかった。

「そうか」

 幹夫は言った。

「露の帽子は、朝になると葉っぱの中へ入って、香りになるんだって。だから、この帽子も、いつか僕の中で別の形になるのかもしれない」

 父は長いあいだ黙っていた。

 そして、幹夫の帽子に手を伸ばした。

 大きな手だった。

 その手は帽子に触れる前に、少し止まった。まるで茶の若葉に触れるときのように、強すぎない力を探しているようだった。

「母さんの縫い目だな」

 父は静かに言った。

「うん」

「上手ではないが、丁寧だ」

 幹夫は少し笑った。

「お母さんに聞こえたら怒るよ」

「怒るだろうな」

 父もほんの少し笑った。

 朝日が昇りはじめた。

 露の帽子は、次々と光を失い、茶の葉の中へ消えていく。畑全体が、青く甘い香りを立てた。

 祖母が坂道を上ってきた。

 手には急須と小さな魔法瓶を持っている。

「二人とも、朝の授業はもう終わったかい」

 祖母はそう言って笑った。

「今日は、露の帽子がよく似合う朝だねえ」

 幹夫は驚いた。

「おばあちゃんも知ってるの?」

「何を?」

「露の帽子」

 祖母は当たり前のように言った。

「新茶はみんな、摘まれる前に一度は露の帽子をかぶるものだよ」

 祖母は平たい石に布を敷き、湯呑みを三つ並べた。それから、いつものようにもう一つ小さな湯呑みを置いた。母の分だった。

 急須に新茶を入れる。

 湯を少し冷ます。

 注ぐ。

 湯気が白く立ちのぼった。

 幹夫はその湯気を見た。露の帽子が葉の中へ入り、香りになり、今度は湯気となって空へ戻っていくように見えた。

 祖母が湯呑みを渡してくれた。

 幹夫は両手で包み、一口飲んだ。

 最初に、若い苦みがあった。

 母を思い出す痛みのような苦み。帽子を脱ぐ怖さのような苦み。

 けれどそのあと、甘みが戻ってきた。

 露の帽子が、葉の中で香りになったような甘みだった。

「どんな味だい」

 祖母が尋ねた。

 幹夫は少し考えた。

「帽子を脱いだあとの味」

 父は湯呑みを見つめたまま言った。

「分かるような、分からんような」

 けれど、その声はやわらかかった。

 その日、幹夫は学校へ行くとき、古い帽子をかぶらなかった。

 けれど、置いていったわけでもなかった。

 小さく畳んで、鞄の中に入れた。頭には父が用意してくれた新しい帽子をかぶった。新しい帽子は、まだ少しよそよそしく、布の匂いも硬かった。

 玄関で父が見た。

「その帽子でいいか」

「うん」

 幹夫は答えた。

「でも、古いのも持っていく」

 父は何も言わなかった。

 ただ頷いた。

 学校へ行く道で、茶畑の横を通った。

 朝露はもうほとんど消えていた。若葉は露の帽子を脱ぎ、陽の光を受けて明るく揺れている。帽子がなくなった若葉は、寂しそうではなかった。

 少し眩しそうで、少し誇らしそうだった。

 幹夫は鞄の中の古い帽子に手を触れた。

 母は遠くなっていない。

 少なくとも、今朝はそう思えた。

 母の帽子は頭の上にはない。けれど鞄の中にあり、胸の中にあり、茶畑の香りの中にある。幹夫がいつか誰かへ「気をつけてね」と言うとき、その声の中にも少し入るのかもしれない。

 教室で健太が言った。

「あれ、帽子変えたんだ」

 幹夫は少し胸が鳴った。

 また何か言われるかもしれない。

 けれど幹夫は、静かに答えた。

「うん」

「前のは?」

「持ってる」

「なんで?」

 幹夫は少し考えた。

 全部を説明することはできない。露帽子屋のことも、母の縫い目のことも、朝の茶畑の香りも、短い言葉には入らない。

 だから、こう言った。

「まだ、僕の中で香りになる途中だから」

 健太は首をかしげた。

「何それ」

「帽子の話」

 幹夫は少し笑った。

 健太は「ふうん」と言って、自分の席へ行った。

 笑われなかった。

 たとえ笑われても、今朝ほど深くは傷つかなかったかもしれない。幹夫の胸には、露の帽子を脱いだ若葉たちの姿があったからだ。

 放課後、幹夫は茶畑へ寄った。

 夕方の畑は、西日に照らされて金色を帯びていた。朝には露の帽子をかぶっていた若葉たちが、今は風に揺れている。帽子はもうない。けれど香りがあった。

 幹夫は畝の端に立ち、鞄から古い帽子を取り出した。

 母の縫った名前を、もう一度なぞる。

「お母さん」

 小さく呼んだ。

 返事はなかった。

 けれど風が吹き、新茶の香りが胸へ入ってきた。

 それは、露の帽子が葉の中へ入り、香りになった証のようだった。母の帽子も、いつか幹夫の中で、誰かをそっと守る香りになるのかもしれない。

 幹夫は古い帽子を胸に当てた。

 頭には新しい帽子。 胸には古い帽子。 足元には茶畑。 空には、まだ見えない星。

 そのあいだに、幹夫は立っていた。

 弱く、揺れやすく、すぐに胸がいっぱいになる少年として。けれど、その心は少しずつ、自分の中の露を香りへ変える練習を始めていた。

 夜になれば、また若葉たちは露の帽子をかぶるだろう。

 朝になれば、それを脱ぐだろう。

 そして新茶は、また少し深く香るだろう。

 幹夫は茶畑に向かって、小さく頭を下げた。

 風がさわさわと畝を渡った。

 それは、露の帽子をかぶった新茶たちが、明日の朝へ向けて静かに身支度をしている音のようだった。


 
 
 

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