青の導き手(続編)
- 山崎行政書士事務所
- 2025年5月5日
- 読了時間: 9分
プロローグ:冬の記憶
あれから幾度かの四季が巡り、東京の美術大学に通う幹夫(みきお)は二十歳を迎えた。冬の初めのある朝、アトリエの窓から見下ろすと、冷たい雨がアスファルトを濡らしている。空は低く曇り、街の雑踏はビルの狭間に吸い込まれるようだ。 そっとカーテンを引いて、幹夫は椅子に座る。ふいに故郷の山あいの雪道が脳裏をよぎる。あのとき、傍らには夏子がいて、一緒に白い静寂の道を歩き出したのだった。 けれどいま、聞こえてくるのは車の行き交う音と、降りしきる雨のざわめきだけ。東京での生活は刺激に満ちる一方、故郷で感じたあの“深い静けさ”を忘れそうになる瞬間がある。あの白馬の幻や、凍える森の香りは、今でも自分の中に生きているのだろうか──。 幹夫はそう自問しながら、机の上に広げたスケッチブックを開いた。そこには淡く青い色彩で下描きした森の風景がある。筆先は止まったまま、まだ完成にはほど遠かった。
第一章 都会の森
大学のあるキャンパスは、たくさんの樹木に囲まれ、都会の中でも比較的緑が多いといわれている。黄葉が散り敷く小道を歩いていると、時おり「森」を思い出せそうな気がして幹夫は嬉しくなる。 ただ、そこには四方を高いビルやマンションが取り囲んでいて、視界の彼方には喧噪や急ぎ足の人々の気配が絶えない。 その日、絵画実習の講義が終わり、夕暮れの薄紫色の空を見上げながらアトリエへ戻ろうとしたとき、「みきお、ちょっと待って」と声をかけてきたのは同級生の**青木司(あおき つかさ)**だった。 司は大学の中でも頭角を現している油絵科の学生で、やや長身、鋭い目元が印象的。 「この間の合同展、観に行ったよ。幹夫の出品作、面白かったな。どこか静かで…それでいて不思議に呼吸をしてるような絵だった」 幹夫はふと照れくさくなり、軽く会釈をする。 「ありがとう…自分ではまだまだ、うまく描けてないと思ってるんだけど」 「いや、僕は好きだな。ところで、今度あるギャラリーの公募展に出してみないか? まだ締め切りまで少しあるし、幹夫の作品なら注目されるかもしれない」 司はそう言うと、要項の紙を差し出した。幹夫は公募展という言葉にわずかに心が動くものの、素直に頷けずにいた。自分はまだ、人前で胸を張れるほどの“完成品”を描けていない──そう感じていたからだ。
第二章 夏子からの手紙
夜、下宿先の薄暗い部屋でスケッチブックを広げていると、スマートフォンが振動し、メッセージの通知が灯った。 「元気にしてる? 久しぶりに手紙を書いたから、届いたら読んでね」 差出人は、故郷に残っている夏子(なつこ)だった。卒業後、彼女は家業の酒蔵を手伝いながら、近くの短期大学で経営を学んでいる。幹夫の進学と同時期に上京するかと思われていたが、祖父母を支えるためにもう少し地元に残ることを選んだのだ。 幹夫はそっと微笑む。夏子はスマートフォンのやりとりより、紙の手紙を書くのが好きだった。文字の温もりが伝わる気がするから、とよく言っていたっけ。 数日後、届いた封筒を開けると、やや丸みを帯びた夏子の字が並んでいる。そこには最近の近況や、故郷の冬支度の様子が綴られ、最後にこうあった。
「幹夫が東京で頑張ってるの、遠くからでもわかるよ。今度帰ってきたら、雪の森を一緒に歩こうね。あの白馬はもう見えないかもしれないけど、私はなんとなく感じるの。あの馬は、幹夫の中にずっといるんだって」
幹夫は手紙を静かに畳み、胸元に押し当てた。夏子の優しい言葉が、不安に揺れる心をゆっくりとあたためてくれる。白馬の幻──あの冬の、深い森の光景は忘れてはいけない原点なのかもしれない。自分が何を描くべきか、そろそろ向き合わなければならない、と幹夫はそう思う。
第三章 青の巨匠との出会い
大学の図書室で美術雑誌を眺めていた幹夫は、あるインタビュー記事に目を留めた。そこには、故・東山魁夷の弟子筋にあたる老画家が、来月東京で個展を開くと書かれている。 「青の表現を極めた画家」とのキャッチコピーが添えられたモノクロ写真の中で、その老画家は厳かでありながらどこか温かみのある眼差しを向けていた。 幹夫は思わず雑誌を閉じ、個展会場の地図をメモする。東山魁夷を敬愛する同じ流れを汲む画家なら、きっと自分が感じてきた“静寂”や“幻想”について何かヒントを得られるかもしれない。そう思うと、胸の奥がそわそわと逸るような気持ちになった。
個展の初日、幹夫は早朝から少し遠いギャラリーへ足を運んだ。開館間もない会場は人影もまばらで、展示室には青や緑の濃淡で描かれた山水や夜の森が並んでいる。 それらの作品には、東山魁夷を彷彿とさせる幻想的な静けさが宿る一方、作者自身の視点なのか、どこか優しい“人肌”のような温もりが滲んでいた。 その奥の一室で、立ち尽くす老画家の姿を見かけた幹夫は、鼓動の高鳴りを感じながらも、思い切って声をかける。
「あの…すみません。あなたは、この展覧会の…」「ああ、今日来てくれたんだね。私の作品を見に?」
作家はまなざしを細め、穏やかに微笑んだ。 「ただ静かな絵を描こうとしているだけでは、森の声は聞こえてこない。自分も自然の一部だと思わないとね」と、会場の隅に置かれた椅子へ幹夫を促す。 幹夫は思わず姿勢を正す。まるで東山魁夷本人に会うかのような神聖さと親しみが、同時にそこにはあった。
第四章 新たなるステップ
老画家とのひとときの対話は、幹夫に大きな刺激を与えた。 「君は、何かを捜しているね。きっとそれは、君の中の一番静かな場所にあるんだよ」 そう言われた幹夫は、なぜか亡き父の面影と、白馬の幻、そして夏子の手紙が心をよぎる。東山魁夷が描いた森の奥底に流れる静寂が、いま自分の中で繋がろうとしているのかもしれない……。 個展の会場を出る頃には、幹夫の足取りは不思議と軽くなっていた。
翌日、大学で司に会い、公募展の件について話してみた。 「俺、やっぱり出してみようと思うんだ。今の自分なりに描けるものを描いて、それがダメでも次に繋げたい」 司は嬉しそうに微笑み、幹夫の肩を軽く叩いた。 「いいじゃないか。僕も出品する予定だし、互いに切磋琢磨しよう」 そう言うと、司はさっと自分のデッサン帳を広げて見せる。そこには都会のビル群や交差点が不思議な角度で捉えられ、幻想的な光の粒が散りばめられていた。 同世代の才能に触れ、幹夫の胸は競り上がるような興奮と、謎めいた郷愁とが入り混じる。東京という多彩な刺激の中で、自分は何を描くべきか──それを見極めるために、今はただ筆を握ろうと決意する。
第五章 帰郷、そして白馬の夜
公募展の出品作の構想を練るうち、幹夫はどうしても森の風景を再確認したくなり、冬休みを使って再び故郷へ帰ることにした。 幹夫が汽車を降りると、夕闇の中、駅前には母の姿があった。顔を合わせるや否や、「大丈夫かい? ちゃんと食べてる?」と、母の小さな手が幹夫の頬を撫でる。その温もりは、東京では味わえぬ懐かしさだった。 そして翌朝、母に挨拶をしてから一人、裏山の森へ足を運ぶ。積もり始めたばかりの雪が薄く白い絨毯となり、葉を落とした木立の間からは冬の陽射しが斜めに差していた。 「幹夫!」と、声がして振り向くと、夏子が小走りに近づいてくる。厚手のコートに首巻きをぐるぐるにして、鼻先は赤く染まっていた。 「手、冷えてない?」と言いながら、彼女は笑顔で手袋を外す。幹夫は少し照れながらも、嬉しそうに会釈を返した。
やがて夕暮れが迫ると、2人は肩を並べて雪の森を歩き始める。道を踏むたびキュッキュッと小さな音が鳴る。かつて白馬の幻を見た湖畔へは、もう少し先を進んだところだ。 ふと、幹夫は森の奥に白い影を感じて立ち止まる。もちろんそこには何もいない。だが心の底で、確かにあの気配が生きている。亡き父が、自分を導いてくれたように。 「昔と変わらない森だね」と夏子が呟き、幹夫は静かに頷いた。あの冬の夕靄が、少しずつ、雪の木立を包み始める。
第六章 心の絵を描く
夜が更け、幹夫は久々に自室でスケッチを始めていた。外の空気はキリリと冷え、窓ガラスには薄い結露が浮かんでいる。手元には、公募展に出す予定の下絵──都市のビルや街灯を背景に、どこかで繋がっているはずの“森”を重ねるイメージだ。 都会と故郷、静寂と喧噪──それらが同時に存在する世界を描きたい。そこに、東山魁夷の絵のような深い緑や青を宿してみたい。自分の中で出会った白馬と、父や夏子の記憶を織り込むように……。 筆を走らせるたび、かつて感じた“森の鼓動”が蘇ってくる。夜が明ける頃、幹夫は何度も塗り直しながらも、一枚のキャンバスに向き合い続けた。筆先からにじむ青や緑の微妙なグラデーションが、宵闇の街と森を結ぶ。
窓の外が白み始めるころ、幹夫は自分の描いた絵を見つめながら、こみ上げるものを感じていた。そこには家々やビルの合間に、まるで幻のように姿を見せる暗い森があり、湖畔のような場所にうっすらと白い馬の影が浮かんでいた。 「これが…僕の中の“緑響く”なのかもしれない」 そう呟くと同時に、心がふっと解放されるのを幹夫は感じた。
第七章 青の導き手(エピローグ)
それから幾日かして、幹夫は公募展の締め切りに間に合わせるため、東京へ戻り作品を最終仕上げし、応募した。手放すように出品した絵は、実はまだ完成しきってはいないという感覚もあったが、今の自分をありのまま映す“未完の完成形”だとも思えた。 結果はどうであれ、一歩先へ進もう──そんな決意を胸に迎えた展示会の初日。会場へ足を踏み入れると、すでに審査員や他の出品者たちが行き交い、ざわめきが満ちている。 幹夫の作品は「特選」ではなかったものの、入選し展示スペースの一角に飾られていた。小さな札には「新海 幹夫」と名前が記され、通りかかる人々が足を止め、じっと見つめている。 肩越しに自分の作品を眺める人たちの沈黙は、かつて文化祭で感じたあの静かな感動と同じだった。彼らの眼差しに触れた瞬間、幹夫の胸には懐かしく深い「青の風」が吹き渡った。 会場の奥に進むと、司が声をかけてくる。「おめでとう。いい作品だな。都会と森が同じ呼吸をしてるみたいだ」 幹夫は照れくさそうに笑って、「ありがとう」とだけ言う。公募展がすべてではない。けれど、この場で感じる空気は、自分が歩む道をそっと後押ししてくれているようだった。
展示をあとにし、夕暮れの街を歩きながら幹夫は空を見上げる。都会のビルの隙間から覗く空は、どこか淡い群青色に染まっていた。 ──あの白馬の幻、そして東山魁夷の絵が示してくれた静寂と精神の深み。それはもう「過去の一瞬の奇跡」ではなく、自分自身の中に生きる存在なのだ。 幹夫は目を閉じ、父や母、そして夏子の顔を思い浮かべる。遠く離れていても、きっと心はつながっている。目を開けると、ビルの谷間を抜けて夜の星がかすかに瞬くのが見えた。 「これからだ……」 幹夫は小さくつぶやき、アスファルトを踏みしめて歩きだす。その足元には、再び長い道が一筋、影を落としている。今度はその道の先に、ぼんやりと白い気配が見えるような気がした。 彼はもう振り返らない。風のない冬の夜の街を、青い風がそっと撫でていく。白馬は見えなくとも、その静寂は幹夫の奥深くで永遠に響き続けるのだった。




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