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青葉おでんの宵、だしの湯気は人情

 幹夫青年が青葉通りの方へ歩いて行つたのは、腹が減つたからといふより、胸の奥の冷えを、どこかで温めたかつたからであつた。 静岡の夕ぐれは、春でもどこか湿り気を含み、灯の色がやはらかい。雨が上がつたばかりのやうな夜道には、街灯が水たまりへ落ち、影が薄く延びてゐる。人間の影も、こんなふうに薄ければ、生きるのが少し楽だらうに、と幹夫は思ひ、思つた自分を少し可笑しく感じて、口元だけで笑つた。

 青葉の並木の下に、細い路地のやうに灯の集まるところがある。 ――青葉おでん街。 看板の字は、観光の宣伝ほど大仰ではなく、生活の延長のやうに控へめで、しかし妙に親しみ深い。そこへ近づくにつれ、匂ひが先にやつて来た。だしの匂ひ、味噌の匂ひ、炭の匂ひ。湯気の匂ひといふものが、ほんたうにあるのを、幹夫はこの頃になつて知つた。湯気は匂ひの姿である。

 小さな店が肩を寄せ合ひ、軒の低い灯が並ぶ。店と店の間の空気が近く、隣の笑ひ声がこちらの箸にまで届くやうである。幹夫は、かういふ近さが苦手であり、同時に、かういふ近さに救はれることもあるのを、今夜は素直に認めてみる気になつた。

 彼は、暖簾の色の少し褪せた店へ入つた。 店内は五六人でいっぱいになる狭さで、鍋の黒い汁が、湯気を上げて静かに煮えてゐる。黒い汁といふのは、初めて見る者には強さがあるが、見慣れてくると、かへつて母親の声のやうに落ち着く。幹夫はカウンターの端に腰を下ろした。

「いらつしやい。お兄さん、寒かつたら、まず大根ね」

 女将は、声がよく通るのに、耳に刺さらぬ言ひ方をした。年のころは分らぬ。年を問ふのが野暮だといふ雰囲気が、湯気の中にある。幹夫は、かういふ雰囲気に弱い。野暮を咎められない場所は、青年の自意識を少し休ませてくれる。

「……大根、お願いします」

 幹夫は言つた。 店の中では、仕事帰りらしい男が一人、酒をちびちびやつてゐる。隣の席には、年配の客が、黒はんぺんを箸で割りながら、何か面白いことを考へてゐさうな顔でゐる。どちらも、幹夫を見もしなければ、無視もしない。ほどよい距離である。

 女将が鍋から大根をすくひ、皿へ置いた。黒い汁をまとつた白い塊が、湯気を立ててゐる。女将は、その上へ粉のやうなものをさらりとかけた。鰹の香がふつと立つ。

「だし粉ね。これが静岡の“粋”」

 粋、と来た。 幹夫は「粋」といふ言葉を、どこか東京の古い町だけのものだと思つてゐた。だが、粋といふものは、土地ではなく、手つきの中にあるらしい。女将の指は、湯気の向うで迷はず動き、だし粉を“過ぎぬやうに”落とした。その加減が、見てゐて気持がよい。

 幹夫は箸で大根を割つた。 湯気が、ふつと顔へ来た。 口へ運ぶと、熱い。熱いが、攻撃の熱さではない。芯へ届く熱さである。だしの味が、舌の上をすべつて、喉へ落ちる途中で、胸の冷えを一つずつ撫でて行く。人は、食べ物で救はれるのがいちばん正直だ。

「うまい?」

 女将が笑つて聞く。 幹夫は、余計な理屈を言はずに、うなづいた。

「……うまいです」

「ほらね。うまいものは、うまいでいいの。難しくすると冷める」

 この「難しくすると冷める」が、幹夫には妙に効いた。 彼は、何でも難しくしてしまふ癖がある。人の言葉も、好意も、失敗も、みな自分の頭の中で“重たく加工”してしまふ。加工すればするほど本物から遠ざかり、遠ざかつたところで、自分だけが疲れる。今夜の大根は、加工を許さぬ。熱いうちに食べろ、といふだけである。

 隣の年配の客が、ふと口を出した。

「兄さん、だし粉はね、人生にも振るといいよ」

 言ひ方が可笑しくて、幹夫は思はず笑つた。 年配の客は、まじめな顔で続けた。

「辛いことがあつてもさ、だし粉みたいに、ちよつと香を足すと、案外食へる。……冷めたら、また火を入れりやいい」

 女将も、鍋をかき混ぜながらうなづいた。

「さうさ。冷めたものにだつて、湯気は戻るよ。ここへ来りや」

 幹夫は、湯呑を持つ手が、少しだけ軽くなるのを感じた。 冷めたら火を入れる。湯気は戻る。 どれも大げさな人生訓ではない。ただの料理の話である。だが、料理の話にしてしまへば、人は案外、明るい顔で真実を言へる。

「お兄さん、飲む? お茶割り」

 女将が言つた。 静岡の町で「お茶割り」と言はれると、何だか土地の証明書をもらつたやうな気になる。幹夫は照れながら、しかし逃げずに言つた。

「……お願いします」

 湯気の立つ鍋の横で、女将が、茶の香のする一杯を出した。酒の匂ひの上に、茶の青い香がふわりと乗る。幹夫はひと口飲んで、喉の奥がすつと開くのを感じた。開くといふのは、胸の石が少し動くことだ。

 そのうち、仕事帰りの男も、杯を幹夫の方へ少し傾けて言つた。

「初めて? ここ、癖になるよ。――でも、癖になつても悪くない癖だ」

 悪くない癖。 幹夫はその言葉が、今夜の自分に都合よく聞こえた。自分の癖は大抵悪い、と彼はいつも思ひ込んでゐたが、癖にも「悪くない」ものがあるのなら、人生は少し肩の力が抜ける。

 幹夫は、もう二品頼んだ。黒はんぺんと卵。どれも「うまい」で済むうまさだ。済むうまさ、といふのは有難い。済むものがあると、人は無理に決着をつけずに済む。幹夫は決着が苦手である。だが今夜は、決着の代りに、温かさがあつた。

 会計の時、女将が紙袋を一つ差し出した。

「だし粉、少し持つてきな。明日のご飯に振りな。——朝がちよつと勝ちになる」

 朝がちよつと勝ちになる。 この程度の勝ち方が、幹夫にはありがたかつた。人生を勝つ、などと言へば嘘になる。だが、朝がちよつと勝つなら、嘘ではない。ご飯に香が立つ。味噌汁がうまい。外へ出る気が少し増す。さういふ小さな連鎖が、案外、前向きといふものの正体なのだらう。

「……ありがとうございます。また、来てもいいですか」

 幹夫が言ふと、女将は笑つて、鍋の湯気の向うで手をひらりと振つた。

「いいに決まつてるぢやん。帰り道、気をつけて。——桜の時期は、濠もきれいだよ」

 幹夫は暖簾を出た。 外の空気はひんやりしてゐるが、胃のあたりが温い。青葉の並木の下、灯が水たまりに落ち、今夜はそれがやけに明るく見えた。彼は紙袋を手に提げたまま、歩いた。歩きながら、さつきの「難しくすると冷める」といふ女将の言葉を思ひ出し、胸の中でそつと繰り返した。

 難しくしない。 冷めたら火を入れる。 湯気は戻る。

 幹夫青年は、青葉おでんの宵に、だしの湯気を一つ持ち帰つた。 それは大げさな希望ではない。けれど、明日の朝をほんの少し明るくするには、十分であつた。

 
 
 

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