青葉の冬灯り、手袋をひとつ貸す
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月23日
- 読了時間: 7分

幹夫青年が青葉の並木へ出て来たのは、冬の灯りが見たい――といふ、いかにも真面目な理由からではない。真面目な理由は、口へ出すと途端に湿気を帯びて、帰り道には説教に化ける。幹夫はその化け方を、もう嫌といふほど知つてゐた。
ただ、寒かつたのである。 寒いといふのは、身体の話に見えて、実は気分の話だ。気分が寒いと、部屋の灯が白すぎる。白すぎる灯の下では、自分の返事の遅れや、言ひ損ねた言葉や、妙に角ばつた沈黙が、棚の上に整列して見える。整列して見えるものほど、人を疲れさせるものはない。
だから幹夫は、灯の“ほかほかした方”へ行くことにした。 青葉の冬灯り――木々に灯が巻かれ、夜の通りが少しだけ祝祭の顔になるらしい。祝祭の顔は、こちらの内証の寒さを、しばらく見逃してくれる。
呉服町の方から歩いて来ると、並木の先で、光がふいに増えた。 欅の枝に細い灯が絡み、風に揺れて、小さな星が地上に降りたやうだ。星の降り方が、押しつけがましくない。派手に「感動しろ」と命令するのではなく、ただ「ここにゐる」と言ふだけの灯りである。幹夫は、さういふ灯りが好きだつた。
道の脇には、温いものの屋台が出てゐた。 湯気の匂ひがする。醤油の焦げる匂ひ、甘い焼菓子の匂ひ、そして、どこかに必ずある茶の香。静岡の町は、寒い夜ほど、湯気を上手に使ふ。湯気は説教をしない。説教をしない代りに、胸の石を少し丸くする。
幹夫は、ふらりと茶の屋台の前に立ち、先に言つた。
「こんばんは」
売り子の女が笑つた。年配で、手が働く顔だ。
「こんばんは。今日は冷えるねえ。温いの、飲んでいきな」
「……ください」
紙コップを受け取ると、掌に熱がのる。熱がのると、指先までやつと人間になる。幹夫はそのまま灯りの下を歩き、ひと口含んだ。茶の香が鼻へ抜け、苦みが遅れて追ひかける。追ひかけて来る苦みが、叱る苦みではないのがいい。目を覚ます苦みである。
灯りの列の中ほどに、小さなベンチがあつた。 そこに、黒い手袋が片方だけ落ちてゐる。落ちてゐる、といふより、置き去りにされたやうな顔をしてゐる。冬の手袋が片方だけ――その半端さは、人間の生活の半端さに似てゐて、幹夫は思はず足を止めた。
拾ふか拾はぬか。 幹夫の頭の中で、例の裁判が開廷しかける。
――拾つたら、面倒が増える。 ――拾はなければ、あとで胸がうるさい。 ――そもそも、どこへ届けるのだ。
くだらない裁判だが、くだらないほど強情だ。 ところが、冬の灯りの下の手袋は、裁判など知らぬ顔で冷たくしてゐる。冷たくしてゐるものを見ると、幹夫は急に気が短くなる。気が短くなると、裁判を途中で打ち切れる。
幹夫は、手袋を拾つてポケットへ入れた。 ポケットの中で手袋が、じわりと自分の体温を吸ふ。吸ふのが、妙に安心する。拾つたものが、少しずつこちらの温度になる――それだけで、今日の夜が生活に近づく。
そのとき、少し先で、若い女の声がした。
「……ない。やっぱり、ない」
声は大きくないが、焦りが混じつてゐる。 女は立ち止まり、鞄の中を探し、ポケットを探し、また立ち止まる。肩が少しすぼまり、指先が赤い。手袋を落とした人間の手は、すぐに冬に正直になる。
幹夫は、声をかけるかどうか迷つた。 迷つたといふより、いつもの癖が出かけた。見て見ぬふりをして、後で「それが大人の距離だ」とでも自分に言ひ聞かせる癖である。だが今日は、茶の湯気がまだ胸に残つてゐる。湯気の残つてゐる間だけは、勝手に明るい方へ動いてみても罰は当らぬ。
幹夫は、先に言つた。
「こんばんは」
女が振り向き、少し驚いた顔をした。驚いた顔は、怖いが、同時に正直だ。
「こんばんは……」
「これ、落としました? ベンチのところに」
幹夫がポケットから手袋を出すと、女の目がぱつと明るくなつた。明るくなると、こちらの胸の裁判が一斉に閉廷する。人の顔が明るくなるのは、世の中でいちばん簡単な勝ち方である。
「あっ……それです。ありがとうございます。ほんと、よかった……!」
女は手袋を受け取り、胸のあたりで握りしめた。握りしめ方が、いかにも冬の安心である。 幹夫は、いつもの癖で「いえ」と言ひかけ、しかし今夜は挨拶の形で逃げた。
「どういたしまして。……灯り、きれいですね」
「きれいですね。……でも、片方だけで、どうしようかと思って」
女は苦笑した。片方だけ――。 幹夫は、その言葉がさつきの手袋と重なつて、少し可笑しくなつた。人生も、片方だけのものが多い。片方だけのものを、片方だけのまま抱へるのは寒い。
「もう片方、探してるんですか」
「はい。たぶん、このへんで……。でも、見つからなかったら、帰りがつらいなって」
女は、赤い指先を隠すやうに袖へ入れた。 幹夫は、その仕草を見て、ふいに決めた。決めた、と言つても大げさな決断ではない。手袋一つ拾つた勢ひの続きである。
幹夫は、自分の手にはめてゐた手袋を片方だけ外した。 そして言つた。
「……よかったら、これ、貸します」
貸します。 あげます、ではない。 あげますと言ふと、女は断るだらうし、幹夫もあとで照れてしまふ。貸しますと言へば、冬の間だけの用事になる。用事になれば、胸が重くならぬ。幹夫はこの頃、交換や貸し借りの形が、人間関係の“湯気”だと知り始めてゐた。
女は目を丸くした。
「えっ……そんな、悪いですよ」
「悪くないです。僕、片手ポケットに入れて歩けるんで。……それに、灯り見てると、案外、寒さ忘れます」
言つてしまつてから、少し照れた。 照れたが、照れを急いで消さなかつた。照れは湯気みたいなもので、消すと急に冷える。
女は迷つたが、迷ひ方が上品だつた。迷ひ方が上品だと、こちらも焦らされずに済む。 やがて女は、小さく頭を下げた。
「……じゃあ、ほんとに少しだけ。帰りのバス停まででいいですか」
「はい。バス停なら、ちょうど僕もそっちです」
こうして幹夫青年は、片手をポケットに入れたまま、冬灯りの並木を歩くことになつた。 歩くと、灯りが枝から枝へ移り、影が足元で踊る。二人の足音が、同じ石畳の上で重なる。重なるが、重すぎない。重すぎないところがよい。縁は、重くすると腐る。
「……手袋、片方だけ落ちるの、悔しいですよね」
女が言つた。
「悔しいですね。……でも、片方だけで済んだと思えば、まだ軽いかもしれません」
「軽い、って言えるの、すごい」
すごい、と言はれて幹夫は困つた。すごいことなどしてゐない。片手が寒いだけである。 だが、片手が寒い程度のことを「すごい」と言へる人がゐるなら、世の中はまだ捨てたものではない。
バス停に着くころ、女は手袋を外して返さうとした。 幹夫は手を振つた。
「それ、乗るまでしてていいです。……降りてから返すと、また寒いですから」
女は、少し笑つた。
「じゃあ……明日か、また灯り見に来たとき、ここで返します。来ます。返したいので」
返したいので。 幹夫は、その言ひ方がありがたかつた。返す理由が、義理ではなく、ただの用事になる。用事になると、明日が少しだけ軽くなる。
「……じゃあ、僕も来ます。手袋、受け取りに」
自分で言つて、少し可笑しかつた。 手袋を受け取りに来る――そんな用事が、幹夫の生活に増えるとは思はなかつた。だが、増えた用事は、案外悪くない。悪くないどころか、冬の夜を一つ明るくする。
バスが来た。 女は小さく頭を下げて乗り、窓越しに軽く手を振つた。幹夫も手を振り返した。片手はポケットの中だが、手を振るには十分だ。
女のバスが去ると、幹夫の左手は、たしかに寒かつた。 けれど、その寒さは、嫌な寒さではない。冬の灯りの下で使つた寒さである。使つた寒さは、胸を冷やさない。むしろ、胸を少し温める。
幹夫は家へ帰り、湯を沸かし、茶を淹れた。 片方だけ残つた手袋が、机の端に置いてある。片方だけ――。 だが今夜の片方は、さつきまでの半端さとは違ふ。明日もう一度、続きを取りに行く“しるし”になつてゐる。
幹夫はスマホを取り出し、長文は書かず、短く打つた。 短い文は、言ひ訳が入り込みにくい。
――「青葉の灯りの下で、手袋をひとつ貸した。寒かったけど、気分は温かった。」
送信してしまふと、胸の内がすとんと静かになつた。 冬灯りは、明日になればまた普通の木に戻る。 だが、手袋ひとつの貸し借りは、普通の夜を少しだけ祝祭にする。
幹夫青年は、青葉の冬灯りで立派な善行をしたわけではない。 ただ、寒さを半分こにしただけである。 半分こに出来る寒さがある――それが、冬の夜のいちばん明るい“当たり”であつた。




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