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静岡駅、終電ではなく“始発の顔”

 幹夫青年が静岡駅へ辿りついたのは、夜の散歩が少し長くなつたからである。長くなつた、といふより、家へ帰る足の向きが、いつもより頑固に曲つてゐた。呉服町の白い灯をくぐり、七間町の看板の色を横目に見、青葉の並木を抜けて来たころには、胸の内が「帰れ」と言ふ声と「まだだ」と言ふ声とで、さもしい綱引きを始めてゐた。

 駅前の広場は、夜の顔をしてゐる。 タクシーの列の尻が少し乱れ、遠くで酔つた声が一つ浮き、コンビニの明るさだけが妙にまじめだ。北口のガラス張りの面に、幹夫の影が映る。影は、昼のやうに濃くはない。夜の影は薄い。薄いと、少し助かる。

 改札の前へ来ると、案内板の文字が、冷たいほど正確に光つてゐた。終電――といふ文字が見える。幹夫は、その「終」の字に、いつも過剰な意味を見てしまふ癖がある。終電に間に合ふ、間に合はぬ、といふことを、人生の合否のやうに考へてしまふ。考へてしまふから、終電が怖い。

 ホームから、電車が入つて来る音がした。 がたん、と鉄が鳴り、風がひとすぢ抜ける。乗る人々の足音が急ぎ、改札の向うで機械の「ピッ」が短く鳴る。あの音は、いつ聞いても「早く決めろ」と言つてゐるやうで厭だ――と幹夫は思ひかけて、ふと気づいた。今夜は、決めなくてもいいのだ、と。

 彼は、わざと、終電に乗らなかつた。 乗れなかつたのではない。乗らなかつた。 この違ひは、幹夫にとつて、珍しくも大きい。乗らなかつたといふだけで、胸の内の言ひ訳が一つ減る。言ひ訳が減ると、呼吸が少し深くなる。

 終電は、定められた顔で出て行つた。 人を連れて行き、駅の奥へ吸ひ込まれて消えた。消えたあと、駅は一瞬、からつぽになる。からつぽになると、静岡駅の床が、やけに広く見える。広い床は、夜の疲れをよく支へる。

 幹夫は改札の外のベンチに腰を下ろした。 ベンチの木は冷たく、しかし嫌な冷たさではない。肩の力が抜ける冷たさである。彼は上着の襟を立てて、ガラス越しにコンコースの灯を見た。灯はいつもと同じ白い灯だが、終電が去つたあとの灯は、少しだけ優しい。叱る顔をやめて、ただそこにゐる顔になる。

 清掃の人が、モップを押して歩いて来た。 ゴムの音が、しゆ、しゆ、と床を撫でる。撫でる音は、駅の騒がしさを一枚ずつ剥いで行くやうだ。幹夫はその音に、妙に落ち着いた。自分の頭の中の雑音も、ついでに拭ひ取つてくれるやうに思へたからである。

 清掃の人は、幹夫の前を通り過ぎるとき、ちらりと顔を上げた。年配の女で、目がよく笑ふ。声を荒げて「ここで寝るな」と言ふやうな人ではない。むしろ「寒くないか」と言ひたげな目つきであつた。

「兄さん、待ち合わせ?」

 女が、軽く聞いた。 幹夫は「いえ」と言ひかけて、口をつぐんだ。待ち合わせ、と言はれて、胸が少し楽になつたのが不思議だ。待つことは、怠けではなく、予定にも見える。

「……いえ。始発まで、ゐてみようかと」

 幹夫が言ふと、女は、へえ、と笑つた。

「いいねえ。終電は追ひ払ふけど、始発は迎へるからね。駅の顔が変るよ」

 迎へる。 その言葉の明るさが、湯気のやうに胸へ来た。幹夫は、迎へられた経験が少ないと思つてゐた。だが、駅は迎へるのだ、と女は言ふ。駅が迎へるなら、人間も少しぐらゐ迎へられても罰は当らぬ。

「顔、変りますか」

「変るよ。ほら、あと三時間もすりや、パンの匂ひがして来る」

 女は、さう言つてモップを押し、またしゆ、しゆ、と遠ざかつた。

 幹夫は笑つた。 パンの匂ひ――それは確かに、朝の証文である。久能の石段の息切れと同じやうに、朝は、匂ひでやつて来る。

 待つ間、幹夫は自販機で缶珈琲を買つた。 駅の自販機の珈琲は、旨いとも不味いとも言へぬ味だが、夜更けの駅で飲むと、妙に頼もしい。ぬるくもなく熱すぎもせず、ただ「ここにゐろ」と言ふ程度の温度を持つてゐる。幹夫は両手で缶を包み、ガラスの向うに並ぶ案内板の光を眺めた。

 夜は、少しずつ痩せて行つた。 人の声が消え、電車の音が遠のき、空調の唸りだけが残る。駅の時計は、あくまで律義に針を動かす。律義なものを見ると、幹夫はいつも腹が立つのに、今夜は腹が立たない。律義さに追ひ立てられてゐないからだ。終電を捨てた瞬間、追ひ立てられることも捨てたらしい。

 やがて、空の色が変つた。 駅の外の闇が、黒から藍へ移り、藍から灰へ淡くなる。まだ日が出ぬのに、街の輪郭が少しずつはつきりして来る。はつきりして来るのが怖い夜もあるが、今朝は怖くなかつた。怖くなかつた、といふのは、心が強くなつたからではない。ただ、眠らずに朝へ渡つたので、怖がる暇がなかつたのだらう。

 女の言つた通り、どこかでパンの匂ひがした。 駅ナカの店が準備を始めたのだ。バターの匂ひ、甘い生地の匂ひ。匂ひは、こちらを励ますのに説教を要らぬ。匂ひがあるだけで、人は歩ける。

 幹夫は、売店が開くのを待ち、温い茶と小さなパンを買つた。静岡の町で茶を飲むのは、何だか土地の礼儀を踏むやうで気持がよい。紙コップの茶は、驚くほど青い香が立ち、眠気の膜を一枚剥がした。

 始発の時間が近づくと、駅は目を覚ました。 シャッターが上がる音、改札の機械が動く音、足音が増える音。増える音は、夜の孤独を追ひ払ふのではない。夜の孤独を、そのまま朝の群れへ混ぜてくれる。混ざれば、孤独は孤独のままでも、角が取れる。

 幹夫は改札の前に立つた。 いつもなら、あの機械の口が怖い。だが今朝は、怖さが違ふ顔をしてゐた。怖いのではなく、少し照れてゐる。始発に乗る男は、どこか「やり直し」の匂ひがする。その匂ひを、幹夫は誇らしく持つほど立派ではないが、捨てるほど臆病でもなかつた。

 カードを当てる。 ピッ。

 いつもの音だ。 だが今朝は、その音が「おはよう」と聞こえた。 人間の勝手な耳である。勝手な耳だが、勝手に明るく聞こえるなら、今日はそれでよい。

 ホームへ降りると、冷たい空気が頬を撫でた。 向うの線路の上に、空が淡くひらけてゐる。遠くの雲の縁が、少しだけ桃色を含んでゐた。幹夫はそれを見て、立派な感動をしなかつた。立派な感動は要らぬ。只「ああ」と思ふだけで十分である。ああ、と思へるだけで、朝はもう始まつてゐる。

 始発が入つて来た。 車体は昨日の終電と同じやうに見えるのに、音が違ふ。終電は疲れた音をするが、始発は少しだけ軽い。軽い音は、こちらの胸の石を、無理に動かさずに撫でる。

 幹夫は乗つた。 席に座り、窓の外を見た。駅の灯が後ろへ流れ、静岡の街が、眠つた顔から起きがけの顔へ変つて行く。店の看板の光が薄れ、代りに空の光が増える。光が増えると、世界は急に正しくなる。正しくなる世界は、少し怖い。だが、今朝は怖さより先に、腹がすく。腹がすくのは、生きるのに都合がよい。

 幹夫はポケットからスマホを出し、短い文を打つた。 昨日まで先延ばしにしてゐた相手の名前が、画面の上にある。幹夫は、余計な言ひ訳を足さず、朝の温度のまま書いた。

 ――「おはよう。いま始発に乗つた。今日はちゃんと話す。」

 送信してしまふと、胸の内が少し軽くなつた。 軽くなつたところで、何も解決してゐない。だが、解決の前に「始める」といふ段がある。幹夫は今日、その段を踏めた。踏めた、といふだけで、十分に明るい。

 電車は静かに走り、窓の外に、淡い光の筋がのびた。 幹夫青年は、終電を捨てて、始発の顔を選んだ。 人生の大改造ではない。だが、小さな選び方の違ひが、朝の匂ひを変へる。パンの匂ひと、茶の香と、ピッの音――その三つが、今日は味方である。

 味方が三つもあれば、ひとまず上等だ。

 
 
 

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