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静鉄の車内、赤いマフラーは戻りたがる

 幹夫青年が静鉄に乗らうと思つたのは、急ぐ用事があつたからではない。 急ぐ用事など、彼の生活には滅多にない。急ぐ用事がないくせに、胸の中だけがいつも急いでゐる――それが幹夫の癖である。

 けれど、夜の静岡の町を歩き続けると、足の先が冷える。冷えると、頭の中の裁判官が元気になる。「ほら、遅い」「ほら、迷ふ」「ほら、言へない」――さういふ叱り文句を、冷えた指先のやうにちくちく刺して来る。 裁判官を黙らせるには、湯気と灯りが要る。湯気と灯りがあるところ――それが静鉄の車内だと、幹夫は勝手に思ひ込んでゐた。

 新静岡の改札をくぐると、空気が一段、駅の匂ひになる。金属と紙と、甘い菓子の匂ひ。ホームへ下りる階段の途中で、クリスマスの曲が小さく流れてゐた。ちりん、とベルが鳴る。 ベルは、時々人を急がせる。急がせるのに、実は大したことは言つてゐない――その薄さが、今夜の幹夫にはちやうどよかつた。薄いものは、持ち運びやすい。

 電車は短い編成で、灯りが白い。 白いが、部屋の白い灯ほど厳しくない。厳しくない白は、生活の白である。 幹夫はドアの近くの席に腰を下ろし、コートの襟を直した。手袋は両手に揃つてゐる。揃つてゐると、それだけで安心する。人間は、意外に小さな揃ひに救はれる。

 車内には、幾つかの種類のクリスマスがゐた。 ケーキの箱を抱へてゐる女。紙袋を下げてゐる若い男。サンタ帽をかぶつて眠りかけてゐる子ども。仕事帰りの顔をしてゐるまま、スマホを睨んでゐる男。 祝ひの日に、祝ひの顔をしない人間も、ちゃんと祝ひの中にゐる。幹夫は、その事実が少しありがたかつた。自分もその「顔のまま」でゐてよい気がするからだ。

 発車すると、電車は軽く揺れ、車輪の音が一定のリズムを刻み始めた。 一定の音は、胸の中の無駄な言ひ訳を眠らせる。言ひ訳は、変化のあるところで元気になる。一定のところでは、退屈して黙る。

 幹夫が窓の外を眺めてゐると、二つ先の席に、赤いマフラーが見えた。 赤は、夜の中でよく目立つ。目立つのに威張らない赤――そんな赤があるのだと、幹夫は思つた。 赤いマフラーを巻いた女は、学生か若い会社員か、どちらとも言ひにくい年頃で、膝の上に小さな紙袋を置き、ぼんやり窓を見てゐる。紙袋の角から、金色のリボンが覗いてゐた。世間のクリスマスが、その袋に入つてゐるのだらう。

 幹夫は赤いマフラーを見て、なぜだか少し落ち着いた。 落ち着く理由は分からない。分からないが、分からない落ち着きほど、生活にはよく効く。

 次の駅で、女が立ち上がつた。 立ち上がるとき、赤いマフラーの端が椅子の背に引つかかり、ふわりとほどけた。ほどける赤は、灯りを拾つて一瞬だけ光る。 女はマフラーを直さず、そのままドアの方へ行つた。 電車が止まり、ドアが開き、人が降りる。女も降りる。

 その瞬間、赤いマフラーが、するりと椅子の上へ落ちた。

 ――落ちた。

 落ちたものを見ると、幹夫の胸の裁判官が、すぐ机を叩きかけた。 ――気づかぬふりをすればいい。 ――駅員に任せればいい。 ――そもそも、関はれば面倒だ。 面倒、といふ言葉は便利だ。便利だから、人はすぐ逃げられる。

 だが、赤いマフラーは、妙に「戻りたがる顔」をしてゐた。 物に顔などあるはずがないのに、今夜はある。落ちたままの赤は、座席の灰色の上で、いかにも寒さうに見えた。寒さうなものを見ると、人間は意地が悪くなりにくい。意地が悪くなるには、温かいところが必要だ。今夜の幹夫は、まだ少し冷えてゐた。

 幹夫は、考へる前にマフラーを拾つた。 拾つた瞬間、手の中が赤くなる。赤い布は、掌の熱をすぐ受け取る。受け取ると、こちらの胸も受け取りやすくなる。

 ドアはまだ開いてゐる。 女はホームを数歩進み、振り返らずに歩いてゐる。 幹夫は、喉の奥に言葉を集めた。集めると、いつも遅れる。遅れると、チャンスが閉まる。 ――先に言へ。 浅間さんの一言みくじが、胸の奥で短く鳴つた。

「……すみません!」

 幹夫の声は、自分が思つたより高く出た。 出た瞬間、恥づかしさが来る。恥づかしさが来るが、ここで引いたら、赤いマフラーが余計に寒くなる。寒くなるのは、物だけではない。自分の胸も寒くなる。

「赤いマフラー……お忘れです!」

 女がぴたりと立ち止まつた。 立ち止まつて、振り返る。 振り返つた顔は驚いてゐるが、嫌な驚きではない。驚きは、生活がまだ柔らかい証拠だ。

「あっ……!」

 女は小走りに戻つて来た。 幹夫は、ドアのところでマフラーを差し出した。赤い布が、駅の灯りの下でふわりと揺れる。揺れは短い。短いのに、夜の色を一寸だけ明るくする。

「すみません……ほんと、ありがとうございます」

 女が言つた。 幹夫は、重たい礼を受け取るのが苦手で、いつもなら「いえ」を言つて逃げるところだが、今夜は挨拶に替へた。挨拶は、重たさを薄める。

「こんばんは」

 女は一瞬きょとんとして、それから笑つた。

「こんばんは……」

 幹夫は、その「こんばんは」が妙に可笑しく、そして嬉しかつた。 夜のホームで、赤いマフラーを挟んで「こんばんは」と言ふ。祝ひの日の立派な言葉より、ずつと生活に近い。

 女はマフラーを巻き直しながら、ぽつりと言つた。

「……メリークリスマス、ですね」

 幹夫は、また照れた。 だが照れは、今日まで幾つか稽古して来た。照れを消さずに、照れたまま言ふ稽古。

「……メリークリスマス」

 言へてしまつた。 言へてしまへば、言葉は案外あつさりしてゐる。あつさりしてゐるのに、胸の内側だけが温かい。温かさは、言葉の内容より、言葉が通つたことから来る。

 ホームのベルが鳴り、ドアが閉まりかけた。 女は慌てて一歩下がり、幹夫に小さく頭を下げた。

「ほんと、助かりました。……よい夜を」

「……どういたしまして。よい夜を」

 電車のドアが閉まる。 女の赤いマフラーが、ホームの灯りの中で一度だけ揺れて、それから駅の柱の影へ消えた。 消えたのに、赤の余韻だけが、幹夫の目の奥に残つた。

 電車が動き出す。 一定のリズムがまた戻る。 幹夫は、さつきまで「面倒だ」と言ひかけた自分を思ひ出して、少し可笑しくなつた。面倒は、やらない理由にもなるが、やつた後の温かさの理由にもなる。 やつてしまへば、面倒の顔が変はる。変はつた面倒は、案外、胸を冷やさない。

 幹夫は窓の外を見た。 住宅の灯、店の看板、遠くの信号。 灯りは、ツリーみたいに立派に並んでゐるわけではない。むしろ勝手に点在してゐる。勝手に点在してゐる灯りの方が、人間の生活には似合ふ。

 幹夫はそこで、ふと思つた。 赤いマフラーを戻したのは、物を戻しただけではない。 自分の中に溜めてゐた「返すべきもの」――返しそびれた返事、言ひそびれた挨拶――それらもまた、どこかで戻りたがつてゐるのだらう、と。

 戻りたがるものを、ポケットに入れたままにしておくと、だんだん冷えて、硬くなる。硬くなると、ますます返しにくくなる。 ならば、戻せるものは、早い方がいい。 立派に戻さなくていい。短く戻せばいい。鈴のやうに。拍手のやうに。 “先に言へ”――今夜は、その言葉がやけに実用的だ。

 幹夫はスマホを取り出した。 長文は書かない。長文は言ひ訳の巣になる。 今夜の出来事は、マフラーの端のやうに短くていい。

 ――「メリークリスマス。静鉄で赤いマフラーを返した。ちょっとあったかい。」

 送信すると、胸の内がすとんと静かになつた。 返事が来るかどうかは分らぬ。分らぬが、こちらが先に戻せたことが、今日は十分だと思へた。十分は、立派より長持ちする。

 やがて幹夫の降りる駅が近づき、車内の灯が一瞬揺れた。 降りると、外はひやりとしてゐる。だが手袋の中の手は温い。 温いのは暖房のせゐだけではない。赤いマフラーの「戻りたがる顔」に、こちらが負けてやれたせゐだ。

 幹夫青年は、静鉄の車内で英雄になつたわけではない。 ただ、落ちた赤を拾ひ、呼び止め、戻しただけである。 だが、その“だけ”があると、クリスマスの夜は立派でなくても成立する。

 赤いマフラーは戻りたがる。 言葉もまた、戻りたがる。 幹夫はその二つを、同じ夜の同じ温度で覚えた。

 
 
 

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