静鉄草薙のベルと、見えない青い風(舞台:清水区草薙)
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月26日
- 読了時間: 6分

幹夫青年は、静鉄草薙のホームに立ってゐました。 ホームの灯は白く、きちんとして、まるで冬の算術のやうに正確に地面を照らしてゐます。 その正確さの中に立つと、胸の中の言葉も、いつも正確に並んでしまふのでした。
――「いま送るのは遅い。」 ――「でも送らないなら、もっと遅い。」 ――「遅いと言ってゐるうちに、列車が行ってしまふ。」
幹夫は、ポケットの中でスマホを握りしめ、ふうっと息を吐きました。 白い息が、ホームの白い灯の中で、ふくらんで、輪になって、すぐに暗い方へほどけて消えました。
白い息は消えるのに、いつも少しあたたかい。 あたたかいのに、長く残らない。 幹夫は、その「消えてあたたかい」感じが、どうしても好きでした。
線路は、夜の中でまっすぐで、二本の黒い筋が、遠くまでつづいてゐます。 その黒い筋の上に、電線の網が張られ、時々、ン—— と細い唸りがしました。 まるで、空の上のどこかで、透明な楽器が鳴ってゐるやうでした。
そのとき、ホームの端の小さな柱のあたりで、ベルが鳴りました。
ツン。
ほんの一音です。 長い説明が入りこむひまのない、短い鋼の声。 幹夫は、その一音を聞いた瞬間、胸の中の裁判官が、一度だけ筆を止めるのを感じました。 短いものは、叱るより早いのです。
ベルが鳴ると、風が動きました。 見えないのに、動いたのが分かりました。 なぜなら、幹夫の吐いた白い息が、ふわりと片側に引かれて、細く伸びたからです。
幹夫は、そこに――ほんのすこしだけ――青いものを見ました。 もちろん、本当に青い風があるわけではありません。 けれど、冬の夜の空気は澄んでゐて、灯の白さが、風の動きを“色”にして見せることがあります。 幹夫の目には、その動きが、青い鉛筆の線みたいに見えました。
(青い風だ。)
幹夫は、頭の中でそう言ってみました。 言ってみると、青い線は、線路に沿って、すうっと伸びて行くやうに思へました。 線路の上を走るのは列車だけではない。 言葉も、ため息も、迷ひも、そして――ひとことの勇気も、きっとあの上を走れるのだ、という気がしてきました。
ベルがもう一度鳴りました。
ツン。
今度は、その音が、幹夫の胸の中の“固い言葉の列”の間に、細い隙間をつくりました。 隙間ができると、そこへ風が通ります。 風が通ると、固い言葉が少しだけやわらかくなります。
そのとき、近くのベンチのところで、紙の擦れる音がしました。 見ると、制服を着た学生が、カバンから何かを取り出して、落としてしまったらしく、足元を探してゐます。 薄い封筒のやうなものです。 封筒の角に、青いシールが貼ってありました。 それが、ホームの白い灯の下で、ほんの少しだけ青く光りました。
学生は、焦ったやうに息を吐きました。 白い息が、封筒のあたりで揺れて、また消えました。 消えるのに、焦りだけが残る。 焦りは、消えにくいのです。
幹夫の胸の裁判官が、いつものやうに机を叩きかけました。
――関はるな。 ――面倒だ。 ――見なかったことにしろ。
けれど、そのとき、青い風が――あるいは幹夫の気分の青い線が――ベンチの下へすうっと入り、封筒の角をほんの少し動かしたやうに見えました。 封筒は、まるで「ここだ」と言ふみたいに、わずかに光を拾ったのです。
(星座だ。) 幹夫は思ひました。 草薙駅の時刻表が星座になるやうに、いま、この封筒の角も、青い星みたいになってゐる。 そして、星を見つけたら、線を結ぶのは人間の仕事なのだ。
幹夫は、考へる前に屈んでゐました。 屈んで、封筒を拾ひ、軽く払い、学生に差し出しました。
「こんばんは」
自分の声が出たことに、幹夫は少し驚きました。 けれど、その驚きは、悪い驚きではありません。 白い息が出るときに、体が勝手に冬に合わせるやうな、そんな自然な驚きでした。
学生は目を丸くして、それから、ほっと白い息を吐きました。
「……こんばんは。ありがとうございます。これ、なくしたら大変で……」
封筒を受け取る指が、少し震へてゐました。 震へは、寒さだけではありません。 大事なものが“戻った”ときの震へです。
幹夫は、その震へを見て、心の中で小さく言ひました。
(戻りたがるものは、ちゃんと戻る。)
そのとき、列車が近づく音がしました。 線路の上を、音が先に走って来ます。 ゴトン、コトン、と、夜の石の上を、何かが正確に刻んでくるやうな音です。 列車がホームへ入ってくると、あたたかい空気が一筋だけ流れ出て、幹夫の白い息を、また少し曲げました。
白い息は曲がりながら、ホームの灯の下で一瞬だけ青く見えました。 青い風が、白い息を持ち上げてゐる。 幹夫は、そんなふうに思へました。
学生が、封筒を抱へたまま言ひました。
「……あの、これ、今日、渡すやつなんです。遅れたら、嫌だなって」
幹夫は、胸の中で、ひどく小さな火花が弾けるのを感じました。 (遅れたら、嫌だ。) それは、幹夫がいつも胸の奥で繰り返してゐる言葉と同じでした。 ただ、学生はそれを、ちゃんと口に出してゐました。 口に出すと、言葉は“外の空気”になります。 外の空気になれば、青い風に乗せられます。
幹夫は、言ひ訳を探さずに、ただ言ひました。
「……渡せますよ。列車、来ましたし」
学生は、驚いたやうに笑ひました。
「そうですね。……ありがとうございます。なんか、すごい軽くなりました」
軽くなる。 その言葉は、幹夫にとって、祝ひの言葉よりずっと役に立つ言葉でした。 軽くなると、動けるのです。 動けると、ひとことが言へるのです。
列車のドアが閉まりかけました。 学生は慌てて乗り込み、ドアの窓越しに小さく頭を下げました。 そして列車は、線路の上をすうっと滑り出し、ホームの灯を一つずつ後ろへ流して行きました。
ベルが鳴りました。
ツン。
幹夫は、その短い音を、今度は「命令」ではなく、 (よし) といふ合図のやうに受け取りました。
幹夫は、スマホをポケットから出しました。 画面の白い光は、やっぱり正確で、厳しい。 けれど、いまはホームの空気が、その白さを少しやわらげてくれます。 白い息が出て、青い風が通って、ベルが短く鳴る――その全部が、画面の白に“にじみ”を足すのです。
幹夫は、長い文を書きませんでした。 長い文は、説明になり、説明は言ひ訳になり、言ひ訳は風に重くて乗りません。 青い風に乗るのは、短いものです。 白い息みたいに、ひとつ吐いて消えるものです。
幹夫は、たった一行、打ちました。
――「草薙。静鉄のベルが鳴ると、青い風が通る気がする。元気?」
送信すると、胸の中で何かが小さく発車しました。 汽笛は鳴りません。 でも、胸の中の固い言葉の列の間に、たしかに風が通りました。
幹夫は、ホームの端まで歩き、線路を見下ろしました。 黒い二本の筋は、夜の中へつづいてゐます。 その上を、列車も、言葉も、ため息も、そして“ひとことの勇気”も、走って行ける――そんな気がしました。
ベルが、もう一度、短く鳴りました。
ツン。
幹夫青年は、その音に、黙ってうなづきました。 青い風は見えません。 けれど、白い息が曲がるとき、確かにそこにゐます。 そして、青い風がゐる夜は、ひとことが、ちゃんと届く方へ進むのです。





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