風と同じ速度で——ネヴァ川遊覧の一日
- 山崎行政書士事務所
- 2025年9月16日
- 読了時間: 3分

桟橋で乗船の列に加わると、川風がシャツの裾を鳴らした。スマホのeチケットをかざしたのにゲートが無言――最初の“やらかし”だ。係の青年が無言で画面の輝度を最大にし、手のひらで光を遮ってもう一度ピッ。「Готово(オッケー)」と肩で笑う。船は軽く身震いして、黒い水を押し分けた。
屋外デッキのベンチに座る。風が気持ちいい……と思った次の瞬間、帽子がふわり。前の席の女性が髪ゴムを外して差し出し、帽子の内側に通して八の字の即席あごひも。「Так ветер не ворует(これで風は盗まない)」、彼女は親指を立てた。ロープの街らしく、ここでは結び目がすぐに見つかる。
船は冬宮のミント色を左に、ペトロパヴロフスク要塞の金の針を右に見ながら進む。ガイドのロシア語が頭上でリズムを刻み、「アドミラルティ」「ロストラの塔」という英単語が波に混じる。ネヴァの水は黒に近い藍色で、太陽の斑点だけが白い鱗のようにまたたく。
二度目の“やらかし”は、紙コップの熱いチャイを受け取ったとき。揺れに合わせて一滴がコートにぽとり。あっと固まる私に、隣の青年が炭酸水を含ませたナプキンを渡し、胸元をトントン。「Ничего страшного(たいしたことない)」の言葉に合わせて、しみは薄く、風は涼しくなる。
船首の方では、幼い子が波を見つめて顔色が青い。母親が心配そうに背中をさすっている。私はポケットからショウガののど飴を取り出し、「пополам?(半分こ?)」。小さく割った飴を口に含むと、子の目が少し丸くなる。船員がやって来て、「地平線を見て、ゆっくり息」と身振りで教え、毛布を肩にかけた。こういう手当ては、どの川でも早い。
川幅が広がると、右舷に巡洋艦の影、左舷に夏の庭園の緑。橋の下をくぐるたび、上の世界の足音が遠くなり、船体が低くこすれる音だけが残る。手すりに手を置き、私はさっきの八の字を指で確かめる。風はまだ強いが、結び目の手応えが心臓の鼓動をゆっくりにする。
帰途、デッキのベンチで彼女がスシュキ(小さなリングパン)の袋を開けた。ひとつを半分にして私へ、私はさっきの飴の残りを半分にして返す。甘さを交換するたび、川の色が一段やわらぐ。桟橋が近づくと、船員がロープを桁にひと回し、最後を八の字で締めた。船はすとん、と町に帰る。
下船口で、朝の係の青年が「Как поездка?(どうだった?)」。私は親指を立て、胸元のトントン跡と帽子の結び目を見せて笑う。彼も笑って肩をすくめ、手のひらをひらりと振った。
今日の小さな出来事――暗かった画面の輝度アップ、帽子の八の字、チャイのトントン、飴の半分こ、毛布のやわらかさ、ロープの最後のひと締め。どれも大事件じゃないのに、ネヴァの風と同じ速度で、胸の中をすこしずつ整えてくれた。
またこの川を走るときも、最初にするのはたぶん同じ。結び目を作り、息を整え、何かを半分こする準備をすること。そうすればネヴァはきっと、今日と同じリズムで、街をやさしく運んでくれる。





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