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駿府の堀端、灯りが水にほどける

 幹夫青年が駿府の堀端へ出て来たのは、「クリスマスだから何か見に行かう」といふ、いかにも世間並みの口実を自分に与へたかつたから――といふより、与へたふりをしたかつたからである。 祝ひの日といふものは、参加しないと仲間外れにされるやうな顔をする。参加すると、今度は「楽しんでゐる顔」をせねばならぬやうな顔をする。どちらにしても面倒で、面倒だと思ふ自分がまた面倒で――と、幹夫はいつも、頭の中で余計な裁判を開いてしまふ癖があつた。

 だが今夜は、部屋の白い灯が厭に正確で、机の上の未返信の通知や、読みかけの紙や、半端に折れたレシートが、皆きちんと整列して見えた。整列してゐるものほど人を疲れさせるものはない。 そこで幹夫は、整列の外へ逃げた。逃げたと言つても、遠くへ行く気力はない。静岡の町の中で、灯りが多く、しかも急がされない場所――それが駿府の堀端であつた。

 静岡駅の方から歩いて来ると、町はすでに聖夜の顔をしてゐた。 アーケードの店先に小さなリースが吊られ、コンビニの前でチキンの匂ひが風に混じり、どこかのカフェの窓には白い雪の飾りが貼つてある。雪など降りもしないくせに、窓の雪だけは律義に光つてゐる。その律義さが、今日はあまり腹立たしくなかつた。 冬の空気が乾いてゐるせゐか、灯りがよく澄んで見えるからである。

 駿府城公園の入口へ近づくと、樹々の影が濃くなり、その影の間から灯りが漏れた。 派手な光ではない。枝に巻かれた細い灯が、夜気の中で小さく震へ、歩く人の息の白さと混ざつてゐる。呼吸の白さが灯りを邪魔しないのが、静岡の冬のよさだ。雪はなくても、白いものはちゃんとある。

 堀の水面は、暗い。 暗いが、ただ黒いのではない。灯りが落ちるところだけ、ふわりと明るくなる。明るくなるのに形が定まらない。定まらない光は、まるで湯気のやうに揺れる。 幹夫はその揺れを見て、ふと思つた。 灯りは、ここでは「飾り」ではなく、「ほどける」ものなのだと。ほどけて水に溶け、溶けてまた拾ひ集められ、次の揺れになる。 ほどける、といふ言葉には、叱られない感じがある。

 堀端には人がゐた。 子どもの手を引く父親、肩を寄せる若い男女、カメラを構へる年配の夫婦。 幹夫はその中に混じると、いつもの癖で少し斜に構へかけた。 ――皆、祝日らしい顔をするのが上手い。 だが、斜に構へると、寒さが余計に骨へ沁みる。骨へ沁みる寒さは、前向きの敵である。幹夫はその斜めを、今夜はポケットの底へしまつた。しまへる程度の斜めなら、しまつてしまつた方がいい。

 歩いてゐると、堀端の一角に小さな屋台が出てゐた。 紙コップの茶と、甘い菓子――クリスマスらしく、薄いケーキの端切れみたいなものまで並んでゐる。湯気が立つてゐる。 静岡の町は、何かにつけて湯気を味方につける。湯気は説教をしない。説教をしないのに、人の肩を落ち着かせる。

 屋台の女は年配で、首にマフラーを巻き、手が働く顔をしてゐた。 幹夫が近づくと、女は先に言つた。

「こんばんは。寒いねえ。温いお茶、どう?」

 幹夫は、反射で「すみません」と言ひさうになり、今日はやめた。すみませんは便利だが、便利すぎて、何でも自分の罪にしてしまふ。

「こんばんは。……ください」

 紙コップを受け取ると、掌に熱がのる。 熱がのると、人は急にまじめになる。まじめになるといふより、余計な芝居が引つ込む。引つ込んだ分だけ、目が外へ向く。 幹夫はひと口飲んだ。茶の香が鼻へ抜け、遅れて苦みが来る。苦みが叱らない苦みであるのがよい。冬の夜の苦みは、目を覚ますための苦みだ。

 女は、紙コップを並べながら笑つた。

「今日はね、みんな“メリークリスマス”って言ふのが照れ臭いみたいでね。『こんばんは』の方がよく売れるのよ」

 幹夫は、思はず口元が緩んだ。

「……僕も、言へない方です」

「いいんだよ。言へない人ほど、言はれたら嬉しいんだから」

 女はさう言つて、唐突に、軽い調子で付け足した。

「メリークリスマス、兄さん」

 幹夫は、ほんの一瞬、言葉に詰まつた。 詰まつたが、その詰まりは嫌な詰まりではない。湯気が喉の奥でほどけるやうな詰まりである。

「……メリークリスマス」

 言へてしまつた。 言へたとき、胸の内側が少しだけ明るくなる。明るくなるのは、自分が立派になつたからではない。照れ臭さを、照れ臭いまま出せたからである。

 幹夫は茶を持つて、堀端のベンチに腰を下ろした。 水面は相変らず灯りをほどいてゐる。ほどけた光が、風に押されてゆつくり流れる。 その流れを眺めてゐると、今日の自分の心配も、あの程度にほどけてしまへばいいのにと思ふ。心配はいつも形を作りたがる。形を作るから重くなる。ほどければ、少しは軽くなる。

 ふと、近くで小さな音がした。 からん、と乾いた音。 見ると、子どもが堀端の柵の近くで、何かを落としてゐた。小さな鈴の飾りらしい。ツリーに付けるやうな、赤いリボンのついた鈴だ。母親が慌てて探してゐるが、暗い足元では見つけにくい。

 幹夫は、立ち上がつて、落ちた鈴を拾つた。拾ふのは、案外、考へるより早い。考へると、拾ふ前に言ひ訳が育つ。拾ふなら、先に手を動かした方がいい。

「こんばんは」

 幹夫が鈴を差し出すと、母親は目を丸くした。

「あっ……! ありがとうございます。すみません……」

 幹夫は、すみませんの重たさが苦手で、今日は挨拶で返した。

「どういたしまして。メリークリスマス」

 自分でも驚くほど、するりと言へた。 母親が笑ひ、子どもが鈴を握りしめて、くすぐつたさうに笑つた。 鈴はもう鳴らないのに、場の空気だけが小さく鳴つた気がした。

 幹夫がベンチへ戻らうとすると、母親が一歩追ひかけて来て、袋から小さな包みを出した。

「これ……よかつたら。子どものクッキーなんですけど」

 幹夫は一瞬、受け取るのを躊躇した。 受け取ると、返さねばならぬ気がする。返さねばならぬ気がすると、急に責任が生れて、胸が固くなる。 だが、ここで断つたら、せつかくの湯気が冷める。冷めるのは、相手の好意だけではない。自分の中の小さな前向きも冷める。

「……ありがとうございます。じゃあ、代りに」

 幹夫は、ポケットの中の小銭を探して、屋台で買つた茶を思ひ出した。 そして、立ち戻つて、紙コップをもう一つ買つた。女がにやりと笑つた。

「いいねえ。聖夜はね、手が忙しい方が勝ちだよ」

 幹夫は、その紙コップを母親へ渡した。

「温いお茶です。……寒いので」

 母親は驚いた顔をして、それから、ほつと笑つた。

「……嬉しいです。ありがとうございます。ほんと、メリークリスマスですね」

 “メリークリスマスですね”――その言ひ方が、よかつた。 メリークリスマス、といふ言葉を立派に掲げるのではなく、ただ今の湯気に添へる。添へる程度の祝ひなら、幹夫にも持てる。

 母子が去ると、堀端の灯りはまた水にほどけてゐた。 幹夫はクッキーの包みを開け、ひとつ齧つた。甘い。甘いが、甘さが押しつけがましくない。子どもの手が作る甘さは、だいたい軽い。 幹夫はその軽さを噛みしめながら、ふと、自分の部屋の白い灯のことを思つた。白い灯は厳しいが、今夜は、そこへ小さな甘さを持ち帰れる。

 彼はスマホを取り出した。 長い文は書かない。長い文は言ひ訳の巣になる。聖夜は、巣を作るより、灯りをほどく夜である。

 ――「メリークリスマス。駿府の堀で灯りが水にほどけてた。温いお茶がうまかった。元気?」

 送信して、幹夫は息を吐いた。 返事が来るかどうかは分らぬ。分らぬが、今夜はそれで十分だと思へた。言葉を腐らせずに出せたことが、今日の小さな贈り物になつたからである。

 帰り道、堀端の灯りは、相変らず水にほどけてゐた。 ほどけるものは、また結べる。結べるものは、重くならない。 幹夫青年は、駿府の聖夜で何かを大きく変へたわけではない。 ただ、紙コップの湯気と、拾ひ上げた鈴と、言へてしまつた「メリークリスマス」を三つ、ポケットの中に入れて帰つただけである。

 その三つがあるだけで、机の上の整列も、明日には少し崩れて見えるだらう。崩れて見えれば、手が動く。手が動けば、返事も動く。 灯りが水にほどけるやうに、生活もほどけて、また結ばれる。 それが、静岡の堀端の、いちばん実用的な聖夜であつた。

 
 
 

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