駿府の濠端、桜の影は軽い
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月22日
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幹夫青年が駿府城公園へ足を向けたのは、花を見たいといふ殊勝な心からではなかつた。まして名所旧蹟を愛するといふ、気取つた趣味が急に芽生えたわけでもない。春の夕ぐれの空気が、どこか尻のあたりを押して、部屋の中にゐることを許さぬやうに感じられたのである。人は気分が重くなると、なぜか軽いものを探しに出る。幹夫もまた、その例外ではなかつた。
濠端の道へ出ると、桜はちやうど盛りであつた。石垣の上に立つ枝が、風にゆるく撓んで、花の影が水面へ落ちてゐる。その影は、たしかに影でありながら、どこか光のやうで、黒くならぬ。桜の影といふものは不思議なもので、墨で描けば濃いはずのものが、実際には淡く、しかも、見てゐるうちに胸の奥の湿り気まで薄めてしまふ。
濠の水は、春の水らしく鈍い緑を帯び、鯉がゆつたりと、気位高い顔で泳いでゐた。遠くから子どもの声がする。公園の外では車の走る音が絶えず、時々、信号の電子音が鋭く鳴る。文明の騒ぎはこの辺まで押し寄せて来るが、桜の下だけは、古い静けさが残つてゐた。
幹夫は、濠を見下ろすベンチに腰をおろした。ベンチの木は少し古びて、触れるとひんやりする。春の夕方といふものは、あたたかさと冷たさがいひ争ひをして、結局どちらにも決しない。幹夫の心も、なにやら似たところがあつた。
彼は別に落胆してゐたといふほどではない。けれど、何かがいつも足りないやうな、足りないことを責められてゐるやうな、さういふ気分がこの頃つきまとつてゐた。仕事のこと、金のこと、返事をせねばならぬ連絡のこと。さういふものは、胸の中に入れて置くと、いつの間にか増殖する。増殖して、動かぬ石になる。幹夫は、その石を今夜だけ、桜の下へ持ち出してみたのである。
風が吹いて、花びらが二三枚、幹夫の膝へ落ちた。幹夫は反射的にそれを払ひかけ、思ひ直して指先でつまみ、掌にのせた。紙のやうに薄い。しかも、ほんのりと冷たい。桜の花びらは、触れると誰かの手紙のやうだ、と幹夫は考へたが、考へた途端、少し気恥づかしくなつてやめた。文学の真似事は、独りでしてゐても赤面する。
そのとき、隣の方で、乾いた咳払いが一つ聞こえた。
「いやあ、今年は早いねえ」
見ると、ベンチの端に、いつの間にか老人が腰をおろしてゐた。帽子を目深にかぶり、背は小さいが、姿勢はしゃんとしてゐる。手には紙袋を持ち、その袋の口から、煎餅のやうなものが覗いてゐた。
幹夫が会釈すると、老人は濠の水面を顎で指して言つた。
「花が早いと、影も早い。影が早いと、散歩が助かる」
幹夫は、その理屈のやうで理屈でない言ひ方が可笑しくて、思はず口元がゆるんだ。
「……影が早い、ですか」
「さうさ。ほら、見たまへ。桜の影は軽いだらう。黒い影を落とさぬ。人間もああいふ影なら、持ち歩いても疲れん」
老人は、いかにも当たり前のことを言ふやうに言つて、袋から煎餅を一枚取出し、ぱりりと噛んだ。その音が、春の湿り気の中で、妙に小気味よく響いた。
幹夫は、老人の横顔を盗み見た。老人は桜を見てゐるのだが、見上げるでもなく、見惚れるでもなく、ただそこにあるものを確かめるやうに見てゐた。ものを確かめる目つきといふものは、若い者には案外むづかしい。若い者は確かめる前に、意味づけをしてしまふ。意味づけをすると、景色はすぐに重たくなる。幹夫の心の石も、たいていはその意味づけから生まれるのであつた。
「……毎年、いらつしやるんですか」
幹夫が聞くと、老人は笑つた。
「毎年といふほど律義ぢやないよ。来られる年に来るだけさ。桜は逃げやしない。逃げるのは人間のほうだ」
その言葉は、軽い冗談のやうに聞こえたが、幹夫の胸の石を、こつと一つ叩いた。逃げるのは人間――それを認めてしまふと、少しだけ楽になる。認めないでゐると、逃げた自分をまた追ひかけて疲れる。
老人は煎餅のかけらを、そつと濠の方へ投げた。すると鯉が、いかにも心得たやうに寄つて来て、ぱくりと食ふ。水面に小さな輪がひろがる。その輪はすぐ消えるが、消えることを恥じない。輪が消えるのは、輪の仕事だからである。
「鯉はいいですね」
幹夫が言ふと、老人は即座に首を振つた。
「いやいや。鯉も大変だ。年中見られてゐる。餌を貰つてゐる顔をせにゃならん。ほら、人間と同じだよ」
幹夫は吹き出した。餌を貰つてゐる顔――それはまさしく、幹夫が日々してゐる顔ではないか。頼んでもゐないのに、世界から何かを貰ひたがり、貰へぬと拗ね、貰へると今度は恥づかしくなる。幹夫は、老人の言葉が、あまりにさりげなく自分の胸の内を言ひ当ててゐるのに驚いた。
老人は、幹夫の笑ひを見て、満足さうにうなづいた。
「笑へば勝ちだよ。君、さつきまで負けてた顔をしてた」
幹夫は、その直截さにまた笑つた。負けてた顔――たしかに、彼はここへ来るまで、自分の顔が負けてゐることを知らなかつた。知らなかつたが、言はれてみれば、負けてゐた。負けてゐたと気づけるのは、負けの中にも少し余裕ができた証拠である。
「……勝ち方を、忘れてました」
「勝ち方なんぞ覚える必要はない。負け方を軽くすればいいんだ。桜の影みたいにね」
老人は、さう言つてベンチから立ち上がつた。立ち上がると、帽子のつばの影が顔に落ちるが、その影さへ軽い。幹夫は、なんだか不思議な気持で、その後ろ姿を見送つた。
「じゃあ、君。花が散る前に、もう一回くらゐ来なさい。散つても来てもいいが、散る前に来ると、少し得した気がする」
得した気がする――その言葉の小ささが、幹夫にはありがたかつた。人生の立派な意味などではなく、得した気がする程度でいい。得した気がする程度の幸福なら、幹夫にも手が届く。
老人は歩いて行き、桜並木の中へ紛れて見えなくなつた。幹夫はしばらく、ひとりで濠を眺めてゐた。花びらがまた落ちる。水面に浮かび、ゆつくり流れる。夜の灯りが水に映る。石垣の陰が伸びる。それらを見てゐると、胸の中の石が、石であることをやめはしないが、少しだけ角が取れる気がした。角が取れれば、持ち歩ける。持ち歩ければ、歩ける。
幹夫は立ち上がつた。 歩き出すと、靴の裏が地面に馴染んで、足音がやけに素直に聞こえた。桜の影は、たしかに軽い。軽い影の下では、人間の気分も少し軽くなる。
公園を出ると、街の音がまた濃くなる。車の音、看板の光、コンビニの明るさ。けれど今夜は、それらが幹夫を責めるやうには見えなかつた。責められないのではない。責められても、ひとまず笑へるくらゐの余裕ができたのである。
幹夫は、帰り道の角にある小さな茶屋の前で立ち止まつた。いつもなら通り過ぎるところを、ふと、暖簾をくぐつてみたくなつた。得した気がする、といふ老人の言葉が、まだ耳の奥でぱりりと鳴つてゐたからだ。
そして幹夫は、温い茶を一杯だけ飲んで帰つた。 それが何の解決にもならぬことは、幹夫がいちばんよく知つてゐる。けれど、解決でなくてもよい夜がある。桜の影が軽い夜は、ただそれだけで、少し明るいのである。




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