駿府城のどんぐり兵隊
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月22日
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幹夫青年は、夕暮れの駿府城公園をひとりで歩いてゐました。
空はすこしずつ紫に沈み、雲の端がまだうす金で、濠(ほり)の水は、その間に挟まれた黒い硝子のやうに、ひつそりと冷たく光つてゐます。
石垣の上には松が立ち、松葉が風にこすれて、
「さらさら、さらさら……」
と鳴りました。
幹夫の胸の中も、ちやうどその松葉の音のやうに、はつきりしないものが擦れてゐました。うれしいのでも、悲しいのでもなく、ただ、どこかが細かく鳴るのでした。
幹夫は濠の縁へ出て、欄干に手を置きました。鉄はつめたく、指の腹をきちんと確かめます。
水面には街灯の光がすーつと伸び、波が小さく揺れるたびに、その光は「ぱき、ぱき」と折れたりつながつたりしました。
――月の光は、太陽の光の反射だ。
――水は、角度によつて光を返す。
――風が止まれば、光は一本の道になる。
幹夫は、どこかで習つたやうなことを思ひ出しながら、空を見上げました。月はまだ低く、うすい白で、いまにも雲に縁をこすられさうでした。
そのとき、背後の木の下で、
「ころ、ころ、ころ」
と、乾いた音がしました。
幹夫が振り向くと、どんぐりが二つ、芝生の斜面を転がつてゐます。どんぐりは、まるい帽子(殻斗)をかぶつて、転がるたびに、
「ころり、ころり」
と、まるで小さな靴音のやうでした。
幹夫はどんぐりを一つ拾ひ上げました。掌にのせると、どんぐりは思ひのほかあたたかく、つやつやしてゐました。幹夫がそつと指で帽子を直してやると、どんぐりは、
「こつ」
と鳴つて、ひとりでに掌の上で立ちました。
そして――まつたくふしぎなことに――
芝生の上のどんぐりが、あちこちで次々に「立ち」上がりはじめたのです。
「ころ、ころ、ころ」
「こつ、こつ」
「ころり、ころり」
どんぐりは、帽子をきちんとかぶり、松葉の槍を一本ずつ持つたやうに見えました。槍は、ほんたうは落ちた松葉なのですが、どんぐりの手(と言つても小さな筋のやうなもの)に、たしかに握られてゐるのです。
どんぐりの列は、二列、三列になつて整列し、芝生から石畳へ、石畳から濠の縁へ、ぴたりぴたりと進みました。
その歩き方は、どんぐりが転がるのではなく、たしかに行進してゐるのでした。
「コナラ第七中隊、点呼!」
どこからか、たいへん細い声がしました。
幹夫が耳を澄ませると、いちばん前の、帽子の深いどんぐりが、胸を張つてゐます。帽子の縁には、うすい苔のやうな飾りがついて、まるで肩章です。
「イチ! ニ! サン! ヨン!」
どんぐりたちは、ころりころりと、けれども確かに番号を返しました。番号は声ではなく、帽子がこつこつ鳴る音で返されるのです。
幹夫は思はず笑ひさうになりましたが、笑ひはすぐ胸の奥で止まりました。笑ふと、行進の音が壊れるやうな気がしたからです。
隊長らしいどんぐりが、幹夫の方へ向き直りました。
「ミキオ青年。キミ、ココニ立ツ。ヨシ。」
幹夫は驚いて、自分の胸を指さしました。
「え……ぼく?」
どんぐり隊長は、松葉の槍で、濠の水面をちよんと指しました。
水面には、月の光が、さつきよりも少し強く落ちてゐて、ちやうど一本の細い道みたいに見えるところがありました。波が止まると道は伸び、風が通ると道は切れます。
「コレ、ツキノ橋。
イマ夜。
イマ、水静カ。
橋、カカル。
ダガ、橋ハ軽イ。
重イモノ、ノルト、沈ム。」
幹夫は濠の水を見つめました。
たしかに、光は道のやうですが、道は水の上です。足を出せば、冷たい水へ落ちるに決まつてゐます。
「……そんなの、渡れないよ」
すると、どんぐり隊長の後ろから、小さなどんぐりが一つ、ころりと出て来ました。
そのどんぐりは帽子が少しずれて、顔(みたいなところ)が見えると、そこに黒い点が二つ、しよんぼり並んでゐました。
「ワタシ、向フ岸、行カナイ。
アチラ、取ラレタ。
トリ(鳥)ノ糸。
カメ(亀)ノ首。
ヤサシイ手、ホシイ。」
幹夫は、胸がすこしだけ痛みました。
向ふ岸――石垣の影の方――には、確かに何か、じつと動かない黒い形がありました。
よく見ると、それは小さな亀でした。首のあたりに、釣り糸のやうなものが絡まつて、じたばたもできずにゐるのです。濠の水は深く、岸は切り立つてゐて、人間の手では簡単に近づけさうにありません。
どんぐり隊長が言ひました。
「ミキオ青年。
キミノ手、オオキイ。
キミノ心、重イ。
ダガ、重イ心ハ、ツカエル。
オモリニナレ。
橋ヲ押ヘロ。
ソシテ渡レ。」
幹夫は意味がわかりませんでした。
けれども、亀の首の糸が、月の光の中で細く光つてゐるのを見ると、足が自然に濠の縁へ寄りました。
水面の月の道は、いま少しだけまつすぐでした。
どんぐり兵隊は、濠の縁にずらりと並び、松葉の槍を水に向けて、まるで風を止めるやうに構へました。
「サラサラ、サラサラ……」
松が鳴り、風がほんの少しだけ弱くなりました。
水面の光の道が、すーつと伸びました。
どんぐり隊長が叫びました。
「カイシ!」
どんぐり兵隊は一斉に、
「ころり、こつ、ころり、こつ」
と、足並みを揃へて光の道へ出ました。
すると不思議なことに、どんぐりの足の下で、光が少しだけ厚くなり、道がしつかりした板のやうに見えました。――もちろん板ではありません。けれども光が、光だけで橋にならうとしてゐるのです。
幹夫は息を呑みました。
そして、そつと片足を出しました。
足の裏は、空を踏んだやうでした。
冷たいものが、すうつと靴底へ触れました。
光の道が、きし、と鳴つた気がしました。
その瞬間、幹夫の胸の中の「重たいもの」が、どつと前へ出て来ました。
――落ちる。
――笑はれる。
――無駄だ。
そんな声が、ぐらぐらと湧きました。
光の道が、ふるへました。
どんぐり兵隊の行進が、一瞬、乱れました。
「ミキオ青年! 重イ! 重イ!」
どんぐり隊長の声が、鋭く響きました。
幹夫は、胸の中の声を押し込めようとしました。押し込めるほど、声は膨らみました。
膨らむ声は、身体を重くします。重い身体は、光の橋を沈めます。
幹夫は、そのとき、思ひ出しました。
三保の松原で、鴎の脚の糸をほどいたとき。
安倍川で、鮎の子のために水の道を作つたとき。
あのときは、胸の中の声が、どこかへ消えてゐたのです。消えたのではなく、別の「仕事」に変はつてゐたのです。
幹夫は、目を閉ぢて、いちど息をすうつと吸ひました。
それから、胸の中で、ちひさく言ひました。
――いま、亀の首をほどく。
――それだけ。
すると、胸の重たいものは、石のやうではなく、道具箱のやうに感じられました。道具箱は重いが、運ぶ意味がある。意味がある重さは、ふしぎと足を軽くします。
幹夫はもう一歩、光の上へ出ました。
どんぐり兵隊の列が、ぴたりと揃ひました。
松葉の槍が、風を押へ、波が少し静かになりました。
月の橋が、すうつと伸びました。
「ヨシ。
ヨシ。
イマ、渡レ。」
どんぐり隊長の声は、さつきより低く、あたたかく聞こえました。
幹夫は、歩きました。
歩くとき、靴底の下で光が「しん」と鳴るやうに感じられました。
水の匂ひがしました。
藻の匂ひと、石の冷えた匂ひと、夜の匂ひ。
向ふ岸へ近づくと、亀がこちらを見てゐるのが分りました。
亀の目は黒く、小さく、けれどもまつすぐでした。
首の糸が、きつく食ひ込み、皮膚が少し赤くなつてゐます。
幹夫は膝をついて、そつと亀の首を押さへました。
亀は逃げませんでした。ただ、呼吸が「ふう」と小さく鳴りました。
幹夫は糸の結び目を探しました。糸は泥と藻でぬるぬるし、指にからみました。
幹夫の爪の端が痛み、指が冷えました。
けれども彼は、ただほどきました。
その間、背後の光の橋は、時々「ゆらり」と揺れました。
どんぐり兵隊の「ころり、こつ」が、遠くで規則正しく続いてゐます。
「ホドケ。
ホドケ。
ソラノ光、ココデ使ヘ。」
松の梢がさらさらと鳴り、どんぐり隊長が、そんなふうに言つたやうに聞こえました。
やつと糸が外れると、亀は一度だけ首を伸ばし、
「ふうう」
と深く息をしました。
それから亀は、ゆつくり水へ滑り込みました。水面が「ぽん」と鳴り、亀は黒い水の中へ消えました。
幹夫は立ち上がりました。
胸の中が、すこし空になつたやうでした。
空になつたのに、寒くありません。むしろ、どこか明るいのです。
振り返ると、月の橋は、もう細くなりはじめてゐました。風が戻り、水面が小さく波立つて、光の道は切れ切れになりました。
どんぐり隊長が叫びました。
「タイサン! タイサン!」
どんぐり兵隊は一斉に、ころりころりと引き返しました。
引き返すとき、どんぐりは水面に落ちるのではありません。光の切れ目を、ちやうど飛び石のやうに、軽く跳んでゆくのです。
幹夫は、帰り道をどうするか、一瞬迷ひました。
けれども迷つた瞬間に、もう橋は消えてゐました。
「ミキオ青年!」
どんぐり隊長が、濠の向うから叫びました。
隊長は松葉の槍を高く掲げ、こちらへ敬礼したやうに見えました。
「橋ハ、光。
光ハ、毎晩違フ。
ダガ、仕事ハ、毎晩同ジ。
オモイ心、運ベ。
オモリニナレ。
ソシテ、軽ク歩ケ。」
幹夫は、思はずうなづきました。
うなづくと、背後の闇の中から、さつきの亀が「ぽん」と顔を出して、ひとつだけ泡をふきました。泡は月の光を受けて、ちひさく光つて、すぐ消えました。
幹夫は、石垣のわきの小さな石段を探し、遠回りして公園の出口へ戻りました。
戻る道すがら、木の下にどんぐりがたくさん落ちてゐました。
どれもただのどんぐりです。帽子をかぶつてはゐますが、行進はしてゐません。松葉の槍も持つてゐません。
けれども幹夫は、もうそれでよいと思ひました。
兵隊は、見えるためにゐるのではない。仕事があるときだけ現れて、仕事が終つたら、また静かな種に戻るのです。
公園の外へ出ると、静岡の夜の街灯が、舗道に円い光を落としてゐました。
幹夫の影が、光の円から円へ、短くなつたり長くなつたりしながら、ついて来ます。
幹夫青年は歩きました。
胸の中の重たいものは、まだ完全にはなくなりません。
けれどもそれは、さつきまでのやうな石ではなく、道具箱のやうに感じられました。
道具箱は重い。重いが、誰かの糸をほどくために持てる。
松の梢は、遠くでまださらさら鳴つてゐました。
――ココデ。
――イマ。
――ヒカリハ ツカハレル。
幹夫は、その言葉を胸の中で小さく繰り返しながら、静岡の夜へ、ゆつくり帰つて行きました。




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