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駿府城のどんぐり兵隊

 幹夫青年は、夕暮れの駿府城公園をひとりで歩いてゐました。

 空はすこしずつ紫に沈み、雲の端がまだうす金で、濠(ほり)の水は、その間に挟まれた黒い硝子のやうに、ひつそりと冷たく光つてゐます。

 石垣の上には松が立ち、松葉が風にこすれて、

 「さらさら、さらさら……」

 と鳴りました。

 幹夫の胸の中も、ちやうどその松葉の音のやうに、はつきりしないものが擦れてゐました。うれしいのでも、悲しいのでもなく、ただ、どこかが細かく鳴るのでした。

 幹夫は濠の縁へ出て、欄干に手を置きました。鉄はつめたく、指の腹をきちんと確かめます。

 水面には街灯の光がすーつと伸び、波が小さく揺れるたびに、その光は「ぱき、ぱき」と折れたりつながつたりしました。

 ――月の光は、太陽の光の反射だ。

 ――水は、角度によつて光を返す。

 ――風が止まれば、光は一本の道になる。

 幹夫は、どこかで習つたやうなことを思ひ出しながら、空を見上げました。月はまだ低く、うすい白で、いまにも雲に縁をこすられさうでした。

 そのとき、背後の木の下で、

 「ころ、ころ、ころ」

 と、乾いた音がしました。

 幹夫が振り向くと、どんぐりが二つ、芝生の斜面を転がつてゐます。どんぐりは、まるい帽子(殻斗)をかぶつて、転がるたびに、

 「ころり、ころり」

 と、まるで小さな靴音のやうでした。

 幹夫はどんぐりを一つ拾ひ上げました。掌にのせると、どんぐりは思ひのほかあたたかく、つやつやしてゐました。幹夫がそつと指で帽子を直してやると、どんぐりは、

 「こつ」

 と鳴つて、ひとりでに掌の上で立ちました。

 そして――まつたくふしぎなことに――

 芝生の上のどんぐりが、あちこちで次々に「立ち」上がりはじめたのです。

 「ころ、ころ、ころ」

 「こつ、こつ」

 「ころり、ころり」

 どんぐりは、帽子をきちんとかぶり、松葉の槍を一本ずつ持つたやうに見えました。槍は、ほんたうは落ちた松葉なのですが、どんぐりの手(と言つても小さな筋のやうなもの)に、たしかに握られてゐるのです。

 どんぐりの列は、二列、三列になつて整列し、芝生から石畳へ、石畳から濠の縁へ、ぴたりぴたりと進みました。

 その歩き方は、どんぐりが転がるのではなく、たしかに行進してゐるのでした。

 「コナラ第七中隊、点呼!」

 どこからか、たいへん細い声がしました。

 幹夫が耳を澄ませると、いちばん前の、帽子の深いどんぐりが、胸を張つてゐます。帽子の縁には、うすい苔のやうな飾りがついて、まるで肩章です。

 「イチ! ニ! サン! ヨン!」

 どんぐりたちは、ころりころりと、けれども確かに番号を返しました。番号は声ではなく、帽子がこつこつ鳴る音で返されるのです。

 幹夫は思はず笑ひさうになりましたが、笑ひはすぐ胸の奥で止まりました。笑ふと、行進の音が壊れるやうな気がしたからです。

 隊長らしいどんぐりが、幹夫の方へ向き直りました。

 「ミキオ青年。キミ、ココニ立ツ。ヨシ。」

 幹夫は驚いて、自分の胸を指さしました。

 「え……ぼく?」

 どんぐり隊長は、松葉の槍で、濠の水面をちよんと指しました。

 水面には、月の光が、さつきよりも少し強く落ちてゐて、ちやうど一本の細い道みたいに見えるところがありました。波が止まると道は伸び、風が通ると道は切れます。

 「コレ、ツキノ橋。

  イマ夜。

  イマ、水静カ。

  橋、カカル。

  ダガ、橋ハ軽イ。

  重イモノ、ノルト、沈ム。」

 幹夫は濠の水を見つめました。

 たしかに、光は道のやうですが、道は水の上です。足を出せば、冷たい水へ落ちるに決まつてゐます。

 「……そんなの、渡れないよ」

 すると、どんぐり隊長の後ろから、小さなどんぐりが一つ、ころりと出て来ました。

 そのどんぐりは帽子が少しずれて、顔(みたいなところ)が見えると、そこに黒い点が二つ、しよんぼり並んでゐました。

 「ワタシ、向フ岸、行カナイ。

  アチラ、取ラレタ。

  トリ(鳥)ノ糸。

  カメ(亀)ノ首。

  ヤサシイ手、ホシイ。」

 幹夫は、胸がすこしだけ痛みました。

 向ふ岸――石垣の影の方――には、確かに何か、じつと動かない黒い形がありました。

 よく見ると、それは小さな亀でした。首のあたりに、釣り糸のやうなものが絡まつて、じたばたもできずにゐるのです。濠の水は深く、岸は切り立つてゐて、人間の手では簡単に近づけさうにありません。

 どんぐり隊長が言ひました。

 「ミキオ青年。

  キミノ手、オオキイ。

  キミノ心、重イ。

  ダガ、重イ心ハ、ツカエル。

  オモリニナレ。

  橋ヲ押ヘロ。

  ソシテ渡レ。」

 幹夫は意味がわかりませんでした。

 けれども、亀の首の糸が、月の光の中で細く光つてゐるのを見ると、足が自然に濠の縁へ寄りました。

 水面の月の道は、いま少しだけまつすぐでした。

 どんぐり兵隊は、濠の縁にずらりと並び、松葉の槍を水に向けて、まるで風を止めるやうに構へました。

 「サラサラ、サラサラ……」

 松が鳴り、風がほんの少しだけ弱くなりました。

 水面の光の道が、すーつと伸びました。

 どんぐり隊長が叫びました。

 「カイシ!」

 どんぐり兵隊は一斉に、

 「ころり、こつ、ころり、こつ」

 と、足並みを揃へて光の道へ出ました。

 すると不思議なことに、どんぐりの足の下で、光が少しだけ厚くなり、道がしつかりした板のやうに見えました。――もちろん板ではありません。けれども光が、光だけで橋にならうとしてゐるのです。

 幹夫は息を呑みました。

 そして、そつと片足を出しました。

 足の裏は、空を踏んだやうでした。

 冷たいものが、すうつと靴底へ触れました。

 光の道が、きし、と鳴つた気がしました。

 その瞬間、幹夫の胸の中の「重たいもの」が、どつと前へ出て来ました。

 ――落ちる。

 ――笑はれる。

 ――無駄だ。

 そんな声が、ぐらぐらと湧きました。

 光の道が、ふるへました。

 どんぐり兵隊の行進が、一瞬、乱れました。

 「ミキオ青年! 重イ! 重イ!」

 どんぐり隊長の声が、鋭く響きました。

 幹夫は、胸の中の声を押し込めようとしました。押し込めるほど、声は膨らみました。

 膨らむ声は、身体を重くします。重い身体は、光の橋を沈めます。

 幹夫は、そのとき、思ひ出しました。

 三保の松原で、鴎の脚の糸をほどいたとき。

 安倍川で、鮎の子のために水の道を作つたとき。

 あのときは、胸の中の声が、どこかへ消えてゐたのです。消えたのではなく、別の「仕事」に変はつてゐたのです。

 幹夫は、目を閉ぢて、いちど息をすうつと吸ひました。

 それから、胸の中で、ちひさく言ひました。

 ――いま、亀の首をほどく。

 ――それだけ。

 すると、胸の重たいものは、石のやうではなく、道具箱のやうに感じられました。道具箱は重いが、運ぶ意味がある。意味がある重さは、ふしぎと足を軽くします。

 幹夫はもう一歩、光の上へ出ました。

 どんぐり兵隊の列が、ぴたりと揃ひました。

 松葉の槍が、風を押へ、波が少し静かになりました。

 月の橋が、すうつと伸びました。

 「ヨシ。

  ヨシ。

  イマ、渡レ。」

 どんぐり隊長の声は、さつきより低く、あたたかく聞こえました。

 幹夫は、歩きました。

 歩くとき、靴底の下で光が「しん」と鳴るやうに感じられました。

 水の匂ひがしました。

 藻の匂ひと、石の冷えた匂ひと、夜の匂ひ。

 向ふ岸へ近づくと、亀がこちらを見てゐるのが分りました。

 亀の目は黒く、小さく、けれどもまつすぐでした。

 首の糸が、きつく食ひ込み、皮膚が少し赤くなつてゐます。

 幹夫は膝をついて、そつと亀の首を押さへました。

 亀は逃げませんでした。ただ、呼吸が「ふう」と小さく鳴りました。

 幹夫は糸の結び目を探しました。糸は泥と藻でぬるぬるし、指にからみました。

 幹夫の爪の端が痛み、指が冷えました。

 けれども彼は、ただほどきました。

 その間、背後の光の橋は、時々「ゆらり」と揺れました。

 どんぐり兵隊の「ころり、こつ」が、遠くで規則正しく続いてゐます。

 「ホドケ。

  ホドケ。

  ソラノ光、ココデ使ヘ。」

 松の梢がさらさらと鳴り、どんぐり隊長が、そんなふうに言つたやうに聞こえました。

 やつと糸が外れると、亀は一度だけ首を伸ばし、

 「ふうう」

 と深く息をしました。

 それから亀は、ゆつくり水へ滑り込みました。水面が「ぽん」と鳴り、亀は黒い水の中へ消えました。

 幹夫は立ち上がりました。

 胸の中が、すこし空になつたやうでした。

 空になつたのに、寒くありません。むしろ、どこか明るいのです。

 振り返ると、月の橋は、もう細くなりはじめてゐました。風が戻り、水面が小さく波立つて、光の道は切れ切れになりました。

 どんぐり隊長が叫びました。

 「タイサン! タイサン!」

 どんぐり兵隊は一斉に、ころりころりと引き返しました。

 引き返すとき、どんぐりは水面に落ちるのではありません。光の切れ目を、ちやうど飛び石のやうに、軽く跳んでゆくのです。

 幹夫は、帰り道をどうするか、一瞬迷ひました。

 けれども迷つた瞬間に、もう橋は消えてゐました。

 「ミキオ青年!」

 どんぐり隊長が、濠の向うから叫びました。

 隊長は松葉の槍を高く掲げ、こちらへ敬礼したやうに見えました。

 「橋ハ、光。

  光ハ、毎晩違フ。

  ダガ、仕事ハ、毎晩同ジ。

  オモイ心、運ベ。

  オモリニナレ。

  ソシテ、軽ク歩ケ。」

 幹夫は、思はずうなづきました。

 うなづくと、背後の闇の中から、さつきの亀が「ぽん」と顔を出して、ひとつだけ泡をふきました。泡は月の光を受けて、ちひさく光つて、すぐ消えました。

 幹夫は、石垣のわきの小さな石段を探し、遠回りして公園の出口へ戻りました。

 戻る道すがら、木の下にどんぐりがたくさん落ちてゐました。

 どれもただのどんぐりです。帽子をかぶつてはゐますが、行進はしてゐません。松葉の槍も持つてゐません。

 けれども幹夫は、もうそれでよいと思ひました。

 兵隊は、見えるためにゐるのではない。仕事があるときだけ現れて、仕事が終つたら、また静かな種に戻るのです。

 公園の外へ出ると、静岡の夜の街灯が、舗道に円い光を落としてゐました。

 幹夫の影が、光の円から円へ、短くなつたり長くなつたりしながら、ついて来ます。

 幹夫青年は歩きました。

 胸の中の重たいものは、まだ完全にはなくなりません。

 けれどもそれは、さつきまでのやうな石ではなく、道具箱のやうに感じられました。

 道具箱は重い。重いが、誰かの糸をほどくために持てる。

 松の梢は、遠くでまださらさら鳴つてゐました。

 ――ココデ。

 ――イマ。

 ――ヒカリハ ツカハレル。

 幹夫は、その言葉を胸の中で小さく繰り返しながら、静岡の夜へ、ゆつくり帰つて行きました。

 
 
 

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