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駿河の新茶と銀河の笛

駿河の新茶と銀河の笛

 駿河の五月には、海から来る風にも茶の香りが混じる。

 幹夫は、そう思っていた。

 山の斜面に続く茶畑は、朝になると若葉を明るく光らせる。畝は緑の波のようにうねり、遠くには駿河湾が青くひらけている。海の上を渡ってきた風は、潮の匂いを少しだけ含み、それから茶畑の若葉に触れて、青く甘い香りをまとって村へ下りてくる。

 それは、駿河の新茶の風だった。

 幹夫は十二歳だった。

 人より少しだけ、心の奥が揺れやすい少年だった。友だちが何気なく言った一言を、夜になっても胸の中で聞いていることがある。道端に落ちた鳥の羽を見ると、その鳥がどこへ飛んでいったのか、いつまでも考えてしまう。夕暮れの海が暗くなるころには、理由もなく喉の奥が詰まった。

 父は、そんな幹夫を心配していた。

「お前は、何でも胸に入れすぎる」

 父はよくそう言った。

 責めているわけではなかった。けれど幹夫には、胸に入ってくるものをどうやって止めればいいのか分からなかった。

 風が吹けば、茶の葉は揺れる。 雨が降れば、土は匂う。 人の声が少し沈めば、心はそれを聞いてしまう。

 それは幹夫にとって、自分で選ぶことではなかった。

 母が生きていたころ、幹夫はそのことを恥ずかしいと思わずにいられた。

 母は、幹夫が「新茶の香りは少し泣いているみたい」と言っても笑わなかった。「駿河湾の夕方は、誰かが遠くで笛を吹いているようだ」と言っても、黙って隣に立ち、同じ海を見てくれた。

「幹夫の心は、笛みたいね」

 母は一度、そう言ったことがある。

「笛?」

「ええ。空っぽのところがあるから、息が通って音になるの」

「空っぽって、寂しいところ?」

「そうね。でも、寂しいところがあるから、やさしい音も出るのよ」

 母は去年の冬に亡くなった。

 雪の降らない、ただ冷たい日だった。病院の白い壁、消毒液の匂い、細くなった母の手。幹夫はその手を握っていたのに、言いたいことをほとんど言えなかった。

 ありがとう。 行かないで。 また駿河湾の見える茶畑へ行こう。 あの笛を、もう一度吹いて。

 そのどれもが喉の奥で固まり、声にならなかった。

 母は、小さな竹の笛を持っていた。

 篠笛というほど立派なものではなく、祖母が若いころ使っていた竹笛を、母が直したものだった。表面は少し飴色に古び、吹き口のそばに、母が細い刃物で小さく文字を刻んでいた。

 ――銀河の笛。

 母は新茶のころ、夕方になると茶畑の端に座り、その笛を吹いた。

 音は高く澄んでいたが、どこかかすれていた。風に乗ると、音は茶畑の畝を越え、駿河湾の方へ流れていくようだった。幹夫には、その音が空へ上り、夜になれば銀河の白い流れに混じる気がした。

「どうして銀河の笛なの?」

 幼い幹夫が尋ねたことがある。

 母は笑った。

「夜になって星が出るとね、笛の音は見えない線になるの。茶畑から空へ、空から海へ、ずっとつながっていく線。銀河も、たくさんの光がつながった笛の音みたいでしょう」

 幹夫は、母のそういう言い方が好きだった。

 母が亡くなってから、銀河の笛はしまわれたままになった。

 父が仏壇の引き出しに入れたのだ。父は母の笛の話をほとんどしなかった。母の名を口にするだけで、家の空気が少し深く沈む。父はその沈み方を避けるように、茶畑の仕事の話だけをした。

 けれど五月になると、幹夫は笛のことを思い出した。

 新茶の香りがするたび、母の笛の音が胸の中でかすかに鳴る。はっきりした旋律ではない。風のように、湯気のように、思い出そうとするとすぐ形を失う音だった。

 その年の五月、学校で音楽の発表会があった。

 子どもたちは笛や鍵盤ハーモニカを持ち寄り、好きな曲を吹くことになった。幹夫は最初、何もするつもりはなかった。人前で音を出すのは苦手だった。自分の息が震え、音が外れ、それを誰かに笑われることを想像するだけで胸が固くなった。

 けれど先生が言った。

「幹夫くんのお家には、昔の笛があるんじゃない? お母さんが吹いていたって聞いたことがあるわ」

 幹夫は返事ができなかった。

 教室が一瞬、静かになった。

 健太が小さく言った。

「幹夫、笛吹けるの?」

 悪気のない声だった。

 けれど、幹夫の胸には細い針のように刺さった。

「吹けない」

 幹夫はそう答えた。

 でもその夜、家に帰ると、仏壇の前に座った。

 母の写真があった。茶畑で笑っている写真だった。白い手ぬぐいを頬の下で結び、目尻に小さなしわを寄せている。

 幹夫は引き出しを開けた。

 銀河の笛は、白い布に包まれていた。

 布をほどくと、古い竹の匂いがした。それに、かすかに新茶の香りが混じっているような気がした。そんなはずはない。笛はずっと引き出しの中にあったのだから。けれど幹夫には、母が茶畑で吹いた五月の風が、まだ竹の内側に残っているように思えた。

 笛を手に取る。

 軽かった。

 軽いのに、胸には重かった。

 幹夫はそっと吹き口に唇を当てた。

 息を入れた。

 音は出なかった。

 かすれた風だけが、竹の中をむなしく通った。

 もう一度吹いた。

 今度は、ひゅう、と細い音が出た。けれどそれは、母の笛とはまるで違っていた。弱く、震え、不安そうな音だった。

 幹夫は唇を離した。

 胸の奥が痛んだ。

 母の音を取り戻したかったのに、自分の息では届かない。笛を吹けば母に近づけるかもしれないと思ったのに、むしろ遠さだけがはっきりしてしまった。

「無理だよ」

 幹夫は小さく言った。

「僕には吹けない」

 その声を、父が聞いていた。

 戸口に立っていた父は、作業着のまま、何も言わずに笛を見ていた。

「お父さん」

 幹夫は笛を隠そうとした。

 父は静かに言った。

「母さんの笛か」

「うん」

「吹いたのか」

「音、出なかった」

 父は部屋に入り、畳の上に座った。

 しばらく、二人とも黙っていた。

 母の写真の前には、小さな湯呑みが置かれている。祖母が淹れた新茶の湯気はもう消えていたが、香りだけが残っていた。

「母さんも」

 父が低い声で言った。

「最初から上手く吹けたわけじゃない」

 幹夫は父を見た。

「知ってるの?」

「ああ。若いころ、よく変な音を出していた」

 父は少しだけ笑った。

「俺は、近所迷惑だと言ったことがある。母さんに怒られた」

 幹夫は思わず、母が怒った顔を想像した。

「何て?」

「笛は、上手くなるためだけに吹くんじゃないって」

 父は笛を見た。

「息の通り道を探すために吹くんだと言っていた」

 幹夫の胸が静かに震えた。

 息の通り道。

 母らしい言葉だった。

「お父さんは、吹いたことある?」

 父はすぐ首を振った。

「俺はだめだ」

「どうして?」

「音が出ん」

 父は少し照れたように言った。

「それに、母さんの音を思い出すからな」

 その声の奥に、幹夫は父の寂しさを感じた。

 父も、笛を避けていたのだ。

 忘れたからではない。思い出しすぎるから。

 幹夫は笛を布に戻した。

「発表会で吹くのは、やめる」

 父は何も言わなかった。

 ただ、母の写真を見た。

 その夜、幹夫は眠れなかった。

 窓の外では、五月の風が茶畑を渡っていた。新茶の香りが部屋に入ってくる。青く、甘く、少し苦い。笛は枕元に置いてあった。布に包まれているのに、そこから母の沈黙が聞こえるような気がした。

 幹夫は起き上がった。

 笛を持って、そっと家を出た。

 外は星のよく見える夜だった。

 駿河湾の方から湿った風が上がってくる。山の上には銀河が淡く流れ、茶畑の露が星を映していた。幹夫は丘の上の茶畑へ向かった。そこは母がよく笛を吹いていた場所だった。

 畝の端にある平たい石に座る。

 遠くには駿河湾が黒く沈み、ところどころ漁船の灯が揺れていた。空には銀河。地上には茶畑。間には新茶の香り。

 幹夫は笛を出した。

 銀河の笛。

 母の指が触れた竹。

 幹夫は吹き口に唇を当てた。

 息を入れた。

 また、かすれた音がした。

 ひゅう、と細く、頼りない音。

 幹夫は唇を噛んだ。

「違う」

 もう一度吹いた。

 音は震えた。

「違う」

 何度吹いても、母の音にはならなかった。

 胸の奥にたまっていたものが、急にこみ上げた。

「どうして」

 幹夫は夜の茶畑に向かって言った。

「どうしてお母さんみたいに吹けないの」

 返事はなかった。

 ただ、風が吹いた。

 茶の葉がさわさわと鳴った。

 その音の中に、笛の音のようなものが混じった気がした。

 幹夫は顔を上げた。

 畝の向こうに、人影があった。

 白い手ぬぐいをかぶった茶摘みの姿ではなかった。長い青い衣を着た、年齢の分からない人だった。手には一本の笛を持っている。その笛は竹ではなく、銀河の光を固めたように淡く白かった。

「誰?」

 幹夫が尋ねると、その人は微笑んだ。

「笛の番人」

「銀河の?」

「そうとも言えるし、風のとも言える」

 声は、遠くの波と茶畑の風が重なったように静かだった。

「君が呼んだ」

「僕が?」

「笛は、上手く吹けないときほど遠くへ届くことがある」

 幹夫は笛を握った。

「そんなわけない。こんな音じゃ、お母さんに届かない」

 番人は幹夫の隣に座った。

「君は、お母さんの音を出そうとしているね」

「だって、お母さんの笛だから」

「でも、君の息はお母さんの息ではない」

 その言葉に、幹夫の胸が痛んだ。

「分かってる」

 幹夫はうつむいた。

「だから悲しい」

「悲しいのは、悪いことではない」

 番人は言った。

「笛は、空っぽの管だ。中に何も詰まっていない。だから息が通る。人の胸も、何かを失って空いたところがあるから、そこを通って音になることがある」

 幹夫は胸に手を当てた。

 母がいなくなってできた空洞。

 ずっと、それを嫌だと思っていた。穴のようで、風が吹き込むと痛くて、どう埋めればいいのか分からなかった。

「この寂しいところが、音になるの?」

「すぐにはならない」

 番人は静かに答えた。

「最初は風が抜けるだけだ。かすれ、震え、うまく鳴らない。でも、その風を責めずに聞いていると、やがて君だけの音が見つかる」

「僕だけの音……」

「お母さんの音ではない。けれど、お母さんから受け取ったものを含んだ、君の音だ」

 幹夫は笛を見た。

 母の笛。

 けれど、これから自分の息も通る笛。

「怖い」

 幹夫は言った。

「僕の音にしたら、お母さんの音が消えそうで」

 番人は首を振った。

「新茶を見なさい」

 幹夫は茶畑を見た。

 若葉は夜露を抱き、星明かりを映している。

「若葉は摘まれる。蒸され、揉まれ、乾かされる。畑にあった姿はなくなる」

「うん」

「でも、消えたのではない。香りになる。むしろ姿を変えたから、遠くへ届く」

 番人は笛を持ち上げた。

「受け継ぐとは、昔の形をそのまま閉じ込めることではない。香りにすることだ。音にすることだ。君の息を通すことだ」

 幹夫の目に涙が浮かんだ。

 母の音をそのまま取り戻したかった。

 けれど、それはできない。

 できないことを認めるのは痛い。

 でも、そこから別の音が始まるのかもしれない。

 番人は銀河の笛を唇に当てた。

 音が鳴った。

 細く、高く、けれど温かい音だった。駿河湾の波が遠くで応え、茶畑の葉が揺れ、空の銀河がほんの少し明るくなった気がした。

 その音は、母の笛の音に似ていた。

 でも同じではなかった。

 もっと遠く、もっと古く、そしてどこか新しかった。

「吹いてごらん」

 番人が言った。

 幹夫は母の笛を手に取った。

 今度は、母の音を真似しようとしなかった。

 自分の胸に空いているところを感じた。母に言えなかった言葉。父にうまく話せないもどかしさ。新茶の香りを嗅ぐたび胸が痛む理由。その全部を、無理に押し込めず、ただ息にした。

 笛に息を入れた。

 音は、やはり少し震えた。

 けれど、さっきとは違った。

 かすれてはいたが、そこに小さな光があった。

 茶畑の露に映る星のような、消えそうで消えない音。

 幹夫は驚いた。

「鳴った」

「鳴ったね」

「でも、まだ下手」

「下手な音は、悪い音ではない」

 番人は微笑んだ。

「震える音には、震えた心が入っている」

 幹夫はもう一度吹いた。

 今度は少し長く音が続いた。

 風がその音を運んだ。茶畑の畝を越え、駿河湾の方へ流れていく。遠くの海の黒い水面が、見えない波で応えたように思えた。

 そして、幹夫は聞いた。

 自分の笛の音の奥に、母の笛の音がほんの少し重なっているのを。

 それは外から聞こえたのか、胸の中で聞こえたのか分からない。

 けれど確かにあった。

 母の音は消えていなかった。

 自分の音に重なって、少しだけ戻ってきた。

 幹夫は泣きながら笛を吹いた。

 音は途切れ途切れだった。

 けれど夜の茶畑は、笑わなかった。銀河も笑わなかった。駿河湾も、遠くで静かに波を寄せていた。

 やがて番人の姿が薄くなりはじめた。

「もう行くの?」

 幹夫が尋ねると、番人は頷いた。

「夜の笛は、朝になると風に戻る」

「また会える?」

「新茶の香りがして、君が本当に息を通そうとするとき、私はいる」

「どこに?」

「笛の空洞に。銀河の白い流れに。駿河湾から上がる風に。君の震える息に」

 番人はそう言って、銀河の笛を一度だけ鳴らした。

 その音は空へ上り、銀河の中へ溶けた。

 番人の姿も、星明かりにほどけて消えた。

 幹夫はしばらく、茶畑の端に座っていた。

 手には母の笛がある。

 もう、ただ母のものではなかった。

 母から幹夫へ、幹夫から風へ、風から銀河へ続くものになっていた。

 坂道から足音が聞こえた。

 父だった。

 作業着の上に古い上着を羽織り、少し息を切らしている。幹夫を見つけると、ほっとした顔になり、それから困ったように言った。

「こんな夜中に、何をしている」

 幹夫は笛を持ち上げた。

「吹いてた」

「母さんの笛をか」

「うん」

 父は黙った。

 幹夫は少し緊張した。

「聞こえた?」

「少し」

「変な音だった?」

 父はすぐには答えなかった。

 茶畑の上に夜風が渡った。

「母さんとは違う音だった」

 父は言った。

 幹夫の胸が一瞬、痛んだ。

 けれど父は続けた。

「でも、悪くなかった」

「本当?」

「ああ」

 父は少し照れたように目をそらした。

「泣いているような音だったが、泣いているだけじゃなかった」

 幹夫は笛を見た。

「僕の音なんだって」

「誰が言った」

 幹夫は畝の向こうを見た。

「銀河の笛の番人」

 父は眉を寄せた。

 けれど笑わなかった。

「そうか」

 その「そうか」は、幹夫の見ている世界をすぐには分からないけれど、否定もしない声だった。

 父は隣に腰を下ろした。

「母さんの笛は、俺には吹けなかった」

「お父さんも試したの?」

「ああ。昔、一度だけ」

「音、出た?」

「出なかった」

 父は苦く笑った。

「母さんに笑われた。力を入れすぎだと言われた」

 幹夫は少し笑った。

「お父さんらしい」

「そうだな」

 父も少し笑った。

 その小さな笑いが、夜の茶畑にやわらかく落ちた。

「幹夫」

 父は低い声で言った。

「発表会で吹くのか」

 幹夫は笛を握った。

「怖い」

「そうか」

「音が震えると思う」

「震えてもいいんじゃないか」

 幹夫は父を見た。

 父は茶畑を見ていた。

「母さんも、言っていた。笛は息の通り道を探すものだと」

 幹夫の胸が温かくなった。

「お父さん、覚えてたんだね」

「忘れたと思っていた」

 父は言った。

「でも、お前の音を聞いたら思い出した」

 幹夫は何も言えなかった。

 自分の下手な、震える音が、父の中にしまわれていた母の言葉を開いたのだ。

 それだけで、吹いてよかったと思った。

 翌朝、祖母が新茶を淹れてくれた。

 仏壇の前にも、小さな湯呑みが置かれた。その隣に、母の銀河の笛をそっと置いた。

 湯気が白く立ち、笛の竹の表面を少しだけ曇らせた。

 幹夫は湯呑みを両手で包み、一口飲んだ。

 最初に、若い苦みがあった。

 昨夜、笛が鳴らなかったときの苦み。母の音に届かないと知った苦み。発表会を思う怖さの苦み。

 けれどそのあと、甘みが戻ってきた。

 自分の音が生まれたときの甘み。父が「悪くなかった」と言ってくれた甘み。母の音が、自分の音の奥で少しだけ戻ってきた甘み。

「どんな味だい」

 祖母が尋ねた。

 幹夫は笛を見た。

「音が香りになった味」

 祖母は目を細めた。

「いい夜を過ごしたんだね」

 父は何も言わなかった。

 けれど湯呑みを口に運ぶ前に、母の笛を一度だけ見た。

 音楽の発表会の日、幹夫は銀河の笛を持って学校へ行った。

 手は震えていた。

 健太が言った。

「本当に吹くんだ」

 幹夫は小さく頷いた。

「うん」

「難しい?」

「難しい」

「音、出る?」

「少し」

 幹夫が正直に言うと、健太は笑わなかった。

「じゃあ、がんばれよ」

 それだけ言った。

 発表の順番が来た。

 幹夫は教室の前に立った。窓の外には五月の空があり、その向こうに見えない駿河湾と茶畑がある。胸はどきどきしていた。手も唇も震えていた。

 けれど、幹夫は思った。

 震える音には、震えた心が入っている。

 笛を唇に当てる。

 息を入れる。

 最初の音は、少しかすれた。

 教室の中が静かになった。

 幹夫は逃げなかった。

 もう一度、息を通した。

 音が伸びた。

 高く、細く、少し震えた音。

 それは母の音ではなかった。

 でも、母からもらったものを含んだ幹夫の音だった。

 曲と呼ぶには短かった。旋律も少し揺れた。けれど幹夫は、茶畑の夜を思い出しながら吹いた。新茶の香り。駿河湾の風。銀河の白い流れ。父の沈黙。母の「寂しいところがあるから、やさしい音も出るのよ」という声。

 最後の音が消えたとき、教室はしばらく静かだった。

 その静けさは、怖い静けさではなかった。

 先生が小さく拍手した。

 それから、みんなも拍手した。

 健太が言った。

「なんか、夜みたいな音だった」

 幹夫は顔が熱くなった。

「変?」

「いや」

 健太は少し考えた。

「海の方まで聞こえそうだった」

 幹夫は、少しだけ笑った。

 その夕方、幹夫は茶畑へ行った。

 畝は西日に照らされ、新茶の若葉が静かに揺れていた。空にはまだ銀河は見えない。けれど夜になれば現れるはずだった。

 幹夫は笛を取り出した。

 吹かずに、ただ胸に当てた。

「お母さん」

 小さく呼んだ。

 返事はなかった。

 けれど駿河湾の方から風が吹き、茶の葉がさわさわと鳴った。

 幹夫は、その音を聞いて思った。

 笛は、音を出す道具である前に、息が通る場所なのだ。

 心も、きっと同じだ。

 寂しい空洞を全部埋めてしまわなくてもいい。そこを風が通るとき、痛むこともある。かすれることもある。けれど、いつかその空洞が、誰かへ届く音になることがある。

 駿河の新茶と銀河の笛。

 山で育った若葉の香りと、空を流れる遠い光。

 そのあいだを、幹夫の小さな息が通っていく。

 頼りなく、震えながら。

 けれど確かに、幹夫だけの音として。


 
 
 

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