駿河湾に沈む声
- 山崎行政書士事務所
- 1月18日
- 読了時間: 10分

駿河湾は、遠くから見るとただ青いだけなのに、近づくほど色が増える。青の底に、緑があり、鉛みたいな灰色があり、陽の角度が変わるたびに、そこへ薄い銀が貼りつく。水面はいつも、同じ顔をしていない。
幹夫は清水の港へ向かうバスの窓に額を寄せて、流れていく景色を追った。山の線がほどけて、街が増えて、道路の匂いが濃くなる。家のまわりの茶畑の匂いは、ここまでついてこない。代わりに、海に近い空気が、見えない砂みたいに喉へ入り込む。
背中のリュックは軽いはずなのに、肩が重い。中には、薄い封筒が一つ入っているだけだった。母の字で書かれた便箋の、コピー。祖母が黙って渡してくれたものだ。「持ってけ」とも言わなかった。ただ、台所の隅に置いてあった。幹夫が気づけば、もう選ぶしかなくなるように。
隣に座る父は、窓の外を見ている。見ているのに、何も見ていないみたいだった。父の手は膝の上で、握ったり開いたりを繰り返している。茶畑で葉を摘む指と同じ指なのに、今日は機械の部品を探すときみたいに落ち着かない。
「……人、多いな」
父がつぶやいた。言葉は出たのに、それ以上続かなかった。会話の糸口を自分で作って、すぐに切ってしまう。父はそういう人だと、幹夫はもう知っている。でも、知っていることと、慣れることは違った。
バスが港の近くで停まる。降りた瞬間、潮の匂いが思ったより強くて、幹夫は目を細めた。魚の匂い、鉄の匂い、濡れたコンクリートの匂い。全部が混ざって、海の匂いになる。遠くで、船の汽笛が低く鳴った。胸の奥にまで届く音で、幹夫は息を吸い直した。
待ち合わせは、防波堤の手前にある小さな公園だった。ベンチが二つ、潮風で色の褪せた遊具が少し。そこに、母は先に来ていた。
母は、幹夫の記憶より少しだけ痩せて見えた。髪の毛は結ばれていて、耳の後ろに、細い毛が風にほどけている。服は地味で、でも清潔で、手提げ袋を両手で抱える姿が、まるで何かを落としたくない人みたいだった。
幹夫は、足が止まった。止まったことを自分で恥ずかしく思って、歩幅を小さくして、また進んだ。「会いたい」と思う気持ちが胸の奥から上がってくるのに、同じくらいの強さで「会いたくない」が押し返す。二つの力がぶつかって、呼吸が浅くなる。
母は父を見て、すぐ目を下げた。父も母を見たが、挨拶の形を決めきれないまま、視線が泳いだ。
「……久しぶり」
母の声は、ひどく小さかった。小さすぎて、海の音に混じる。波がコンクリートに当たって砕ける音、風がフェンスを鳴らす音、その隙間に母の声が落ちていく。
——駿河湾に沈む声。幹夫は、なぜだかそう思った。沈むのは声だけじゃない。言えなかった言葉も、謝れなかった日々も、たぶん全部ここに沈んでいく。
母は幹夫の方を見た。視線が合った瞬間、幹夫は身体の奥がきゅっと縮むのを感じた。胸の奥の固まりが、ひとつ音を立ててひび割れるみたいに。
「幹夫……大きくなったね」
その言い方が、ずるい、と幹夫は思った。大きくなったね、と言われたら、頷くしかない。否定できない。時間が過ぎたことを認めるしかない。
「……うん」
返事は出た。でも、それだけだった。母が笑う。笑ったのに、その笑顔は途中で途切れる。笑顔のまま、どこか泣きそうな形になる。幹夫は、その変わり方が怖かった。自分の心も、同じふうに簡単に形を変えてしまう気がして。
父が、母から少し離れた位置に立ったまま言った。
「……話、短くな」
言い方が硬い。硬すぎて、角がある。でも、角がある言葉は、触れたとき痛い代わりに、嘘が少ない。幹夫はそれを知っている。父は、優しい言葉を探すのが下手だ。下手なのに、探しているときほど黙る。黙るほど、周りの人は勝手に意味を作る。勝手に誤解が育つ。
母は小さく頷き、手提げ袋から包みを取り出した。薄い紙に包まれたそれは、まだ温かいのか、母の手の熱が移っているだけなのか、幹夫の指先に微かな温度を残した。
「これ……桜えびのかき揚げ。揚げたてを持ってきたけど、もう冷めちゃったかも」
幹夫は包みを受け取って、匂いを吸い込んだ。油の匂いと、海の甘い匂い。茶畑の匂いとは違うのに、どこか似ている。生活の匂いだ。人が今日も生きている匂い。
「……ありがとう」
言ってしまってから、幹夫は驚いた。「ありがとう」と言える自分が、まだ残っていたことに。
母は、ほんの少し安心した顔をして、すぐに目を伏せた。伏せた目の下で、何かが揺れている。言いたいことがたくさんあるのに、言葉が細すぎて折れてしまいそうな揺れ。
三人のあいだに、海の音が広がる。波は絶え間なく、決して会話の間を埋めてくれない。むしろ、沈黙を際立たせる。沈黙を、沈黙のまま磨いてしまう。
幹夫は、防波堤の向こうを見た。沖合に、小さな漁船が見える。船はゆっくり進み、背中に白い泡を引く。泡はすぐ消える。消えるものばかりだ、と幹夫は思った。声も、言葉も、泡みたいに消える。消えたあとに残るのは、消えた事実だけだ。
母が息を吸い、やっと言った。
「……会いたかった。ずっと。だけど、会っていいのか分からなくて」
その声も、小さい。小さいけれど、今度は沈まない。幹夫の胸の奥に、ちゃんと届く。届いてしまうから、幹夫は目を逸らした。
「……なんで、出ていったの」
言った瞬間、口の中が乾く。聞きたかったのはずっと前なのに、今の質問は遅すぎる気がして、でも遅すぎる質問をしないと、永遠に先へ進めない気もした。
母はすぐ答えなかった。答えない間に、風が強く吹いて、フェンスがかすかに鳴った。その鳴り方が、母の代わりに何かを言っているように聞こえる。——ごめん。——分からない。——どうしようもなかった。
母はようやく、唇を動かした。
「……あなたのことが嫌になったわけじゃない。幹夫のことも」
幹夫は、その前置きが苦しくて、眉間に力が入った。前置きをされると、そのあとに来る言葉が重くなる。重くなると、受け取れなかったとき自分が悪いみたいになる。幹夫は、自分が悪いと言われるのが怖い。怖いくせに、どこかで「自分が悪いなら、直せる」と思ってしまう。そういう癖が、自分の胸の奥の固まりを増やしてきた。
「……でも、家にいるのが、しんどくて」
母の声が少し震えた。震えた声は、海の音に混ざっても消えない。震えは、人の中から出てくる音だからだ。
「光一さんが悪いって言いたいんじゃない。誰が悪いって話でもなくて……ただ、私は自分が自分じゃなくなる感じがして、怖かった。怖いのに、うまく言えなかった。言えないまま、逃げた」
「逃げた」母がそう言った瞬間、その言葉が幹夫の胸に刺さった。
逃げたのは母だ。でも、幹夫はずっと、母がいなくなった理由を自分の中で作ってきた。「俺が何かした」「俺が足りない」「俺が、ちゃんとできなかった」そう考えれば、世界はまだ自分の手の中にある気がした。自分が原因なら、自分が変わればいい。それは、子どもの小さな支配欲だと、今ならわかる。わかっても、癖は残る。
父が、低い声で言った。
「……今さら、そういう話すんなら、俺にも言え」
怒っているというより、痛がっている声だった。父は怒るとき、もっと乱暴に言う。今の声は乱暴じゃない。乱暴にできないほど、そこに触れるのが怖い声だ。
母は、父の方を見ずに、ただ頷いた。
「……言えばよかった。言えなかった。私の弱さ」
その言い方は、正しいようで、ずるいとも幹夫は思った。「私の弱さ」と言えば、相手は怒りにくくなる。でも、ずるいと思う自分の心もまた、ずるい。人は、相手が正しいときほど、自分が苦しくなるからだ。
幹夫は手提げ袋の紙包みをぎゅっと握った。紙の中で、かき揚げが少し崩れる感触。崩れても、香りは残る。残るものもある。全部は消えない。
「……俺、母さんのこと、嫌いになりたかった」
言ってしまった。声が、自分の耳に生々しく聞こえた。あまりに正直で、引っ込める場所がない。
母の肩が小さく揺れた。泣きそうなのか、息を整えているのか分からない揺れ。
「……ごめんね」
その「ごめんね」は、海へ落ちるみたいに小さかった。でも、沈まなかった。幹夫の胸に落ちて、そこに小さな穴を開けた。穴が開けば、固まりの中にも空気が入る。空気が入れば、いつか溶ける。
父が、少しだけ前へ出て言った。
「……幹夫。帰るか」
その言葉が、救いにも、拒絶にも聞こえた。父はここに長くいたくない。たぶん、母の声が沈みきる前に立ち去りたい。沈みきったら、拾えなくなるから。でも幹夫は思った。拾えなくなるのは、沈んだからじゃない。拾おうとしないからだ、と。
幹夫は、海の方へ一歩だけ歩いた。防波堤の端へ行き、駿河湾の水面を見下ろす。黒っぽい水が、太陽の光を反射して、目を開けていられないほど眩しい。
「……声ってさ」
幹夫は自分でもなぜそんなことを言うのか分からないまま、言った。
「……海に落ちたら、沈むのかな。消えるのかな」
母も父も黙った。黙ったまま、幹夫の背中を見ている気配だけがある。見られていると分かるのに、幹夫は振り返らなかった。今振り返ったら、目の奥が熱くなってしまう。熱くなったら、言葉が崩れる。
幹夫は続けた。
「俺、ずっと……母さんの声、聞こえないふりしてた。聞こえたら、なんか……怖いから。聞こえないほうが、もう終わったって思えるから」
言いながら、幹夫は気づく。終わったと思いたかったのは、自分のためだ。痛いことを続けたくないから。でも、終わったことにすると、終わらせた責任も自分に来る。どちらにしても痛い。痛いなら、せめて本当の痛さを引き受けたほうが、後で嘘に苦しまない。
幹夫は、ようやく振り返った。
母は泣いていなかった。泣いていない代わりに、顔の筋肉が必死で涙を押さえているのが分かった。泣かないことが正しさではないのに、泣かないほうが「許される」気がしてしまう表情だった。
父は、目が赤かった。泣いたのかどうか分からない赤さ。寝不足みたいな赤さ。父は泣かない人じゃない。ただ、泣く場所が分からない人だ。茶畑では泣けない。台所でも泣けない。だから、体のどこかに溜めている。溜めて、硬くして、動かなくする。幹夫の胸の固まりは、父から受け継いだものかもしれないと、そのとき初めて思った。
幹夫は、母に向かって言った。
「……今すぐ、許せるかは分からない」
母の唇が、かすかに震えた。
「でも……また、会ってもいい」
その言葉が出た瞬間、幹夫の中で何かがほどけていくのが分かった。ほどけるのは、嬉しさだけじゃない。怒りも、寂しさも、一緒にほどける。全部が混ざって、涙になりそうだった。
母は何度も頷いた。頷くたび、声にならない息が漏れる。漏れた息は、風にさらわれ、駿河湾の上を薄く漂って、どこかへ行く。
父が、短く息を吐き、言った。
「……次は、俺も一緒でいいか」
それは許可でも命令でもなく、ただの願いだった。父が願う声は、いつもより少し柔らかい。柔らかい声は、沈みにくい。
母は、父を見た。その視線が初めてちゃんと合って、そこで二人の間の時間が、ほんの一瞬だけ戻ったように見えた。戻らないものは戻らない。でも、戻らないと知った上で、もう一度触れることはできる。
「……うん」
母が言った「うん」は、風に混じっても消えなかった。駿河湾に沈まず、三人の間に浮かんだまま、薄い膜みたいに場を包んだ。
帰り道、父と幹夫は港の売店で小さな缶のお茶を買った。幹夫は茶畑の家に生まれたのに、こうして海のそばで飲むお茶の味が、少し違うことに気づく。香りが立つ前に、潮の匂いが入り込む。混ざると、別の味になる。悪いわけじゃない。ただ、「同じ」ではない。
父が缶を持ったまま言った。
「……お前、さっきの言い方……よかった」
褒めるのが下手な父の、精一杯の言葉だった。幹夫は笑ってしまいそうになって、でも笑うと泣きそうにもなるから、口の端だけを少し上げた。
「……よかったのかな」
「よかった。沈まなかった」
父はそれだけ言って、前を向いた。幹夫は「沈まなかった」という言葉を、何度も頭の中で転がした。
沈まなかった。声は沈むと思っていた。言葉は消えると思っていた。でも、沈まない声もある。誰かが拾う気でいれば、海の上に浮かぶみたいに、残ることがある。
帰りのバスの窓から、駿河湾が少しずつ遠ざかる。青が薄くなり、やがて見えなくなる。見えなくなっても、あそこにあることは変わらない。見えない場所にあるものを、「ない」と決めてしまうのが、たぶん一番簡単だ。でも幹夫は、今日は簡単なほうを選ばなかった。
リュックの中には、紙包みの残りとかき揚げの匂いと、母の「うん」と、父の「沈まなかった」が一緒に入っている気がした。重さは増えたのに、不思議と肩は少し軽い。
風が、窓の隙間から頬に当たった。茶畑の奥で眠っていた風とは違う、海の風だ。それでも、幹夫の中で何かを動かす力は同じだった。
幹夫は小さく息を吐いて、胸の奥でつぶやいた。
——駿河湾に沈む声があるなら、——沈ませない声も、きっとある。
その声は、誰にも聞こえないほど小さい。けれど、自分の中では、確かに消えなかった。




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