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黒潮の既読

国は、海より先に会議室で死ぬ。死ぬと言っても、血は流れない。血が流れない死ほど厄介なものはない。血が流れなければ、匂いがしない。匂いのしない死は、いつの間にか「そういうものだ」と呼ばれてしまう。

その朝、私は湾岸の高層ビルの三十六階で、ガラス越しの海を眺めていた。海は遠い。遠い海ほど、仕事の言葉に負けやすい。仕事の言葉は軽い。軽い言葉ほど残酷だ。「調整」「リスク」「前例」「世間体」便利な言葉ほど不潔だ。便利な言葉は、責任の匂いを消してしまう。

机の上に、契約書が置かれていた。紙は白い。白は潔白ではない。白は、汚れが目立つことを最初から知っている者の色だ。白い紙の上の黒い文字は、いつでも“正しい顔”をする。正しい顔ほど残酷なものはない。正しい顔は、誰かの夢と、誰かの生活と、誰かの若さを、手続きに変えてしまうからだ。

今日、私はひとつの「撤退」を決めることになっていた。海外の小さな港で、新しい物流の仕組みを作ろうとした。若い社員が持ち込んだ案だった。目が澄んでいた。澄んだ目は危険だ。澄んだ目は、未来を“当然のもの”だと信じる。未来を信じることは美しい。美しい信仰ほど危険だ。信仰は、いつか裏切られるからだ。

上司は言った。「今は守りだ。攻めるのは、もっと状況が見えてから」見えてから。見えてから、という語は甘い。甘い語は腐る。腐った「見えてから」の上で、何本の船が錆びて沈むのか。沈む船は音がしない。音のしない沈没ほど、後で誰も責任を取らない。

私はペンを握った。ペンは刃に似る。刃に似たものほど軽々しく握ってはいけない。押印欄の上で、手が止まった。

そのとき、スマートフォンが震えた。画面が白く光り、通知が並ぶ。白は潔白ではない。白は罪を映す鏡だ。若い社員からのメッセージだった。

「今日、決まりますか。もし撤退なら、僕、もう何を信じて働けばいいか分かりません」

“既読”の表示が、私の指の下で点いた。既読は軽い。軽い印ほど残酷だ。既読は、読んだという責任だけを先に作り、返す心を遅らせる。遅れた心は置き去りにされる。

私は返事を打てなかった。言葉は軽い。軽い言葉ほど、相手を殺す。「頑張れ」「また次がある」「仕方ない」どれも便利だ。便利な言葉ほど不潔だ。便利な言葉は、相手の喉の乾きを見ないふりにする。

私は窓に近づき、遠い海を見た。コンテナ船が小さく動いている。小さな動きほど胸に刺さる。小さな動きは、まだ生きている証拠だからだ。それでも、海はガラスの向こうだ。ガラスは透明だ。透明は清潔のふりをする。透明な壁ほど危険だ。透明は、隔たりを隔たりとして感じさせない。

昼休み、私は逃げるように外へ出た。海の匂いを吸いたかった。紙の匂いを剥ぎたかった。竹芝の桟橋へ歩くと、潮と油と金属の匂いが混じってきた。混じる匂いは現実の匂いだ。現実はいつでも臭い。臭い現実だけが、甘い会議の言葉を叱る。

桟橋の端で、私は立ち止まった。風が強い。強い風は正しい。正しい風が、余計な美化を拒む。海面は鈍い青で揺れ、鈍さは無関心に似ていた。無関心は残酷で、残酷だから正しい。

背中に視線を感じた。振り返ると、ひとりの男がいた。

服は古い。だが古さが衣装に見えない。衣装に見えない古さほど怖い。古さは、こちらの未来を先に知っているように見えるからだ。男の目は澄んでいなかった。澄んだ目は正義の目だ。濁った目は、決断が肉を通るときの目だ。その濁りが、妙に若かった。若い濁りほど危険だ。若い濁りは、死を知りながら生きようとする。

男は私の胸ポケットのスマートフォンを見て言った。

「それは、剣か。銃か。……それとも、紙か」

私は笑えなかった。笑いは薄い。薄い笑いは、こちらの怖さを軽くする。軽くなった怖さほど、あとで重くなる。

「連絡…です。仕事も、全部」

男は短く頷いた。頷きは楽だ。だが彼の頷きは楽ではなく、船の舵を切る頷きだった。

「ほんなら、国は速くなったがやな」

その一言に、私は胸の奥が冷えた。方言は湿り気を持つ。湿り気は、言葉を現実に近づける。現実に近い言葉ほど、痛い。

「あなたは……」

男はあっさり言った。

「坂本龍馬じゃ」

名は、教科書の紙の匂いではなかった。潮と油と、若い汗の匂いを伴って胸へ落ちた。私は思った。歴史の名は死んでいるはずなのに、この名だけは息をしている。息は温かい。温かい息は、生の執着だ。執着は醜い。醜い執着ほど尊い。

「もし、あなたが今の日本を見たら……どう評価しますか」

問いは刃だ。刃は刺さる場所を選ばない。龍馬は、海を見たまま答えた。

「ええ国じゃ」

私は救われそうになって、嫌だった。救いは甘い。甘い救いは腐る。腐った救いの上で、人は簡単に同じ机へ戻れる。

龍馬は続けた。

「争わんで済む。腹も満ちる。夜も明るい。わしらが欲しかった“治まり”は、確かにここにある」

それから、こちらを向いた。目が濁っていた。濁りは迷いでも恐れでもない。濁りは、見てしまったものの色だ。

「けんど、息が薄い」

息。その一語が、喉の奥を締めた。締まる喉は感情移入だ。若い社員のメッセージの最後の一行が、胸に戻ってきた。

龍馬は言った。

「国が息をするときは、海が先に息をする。海を見ん国は、紙を見て安心する。安心に似たものほど危険じゃ。安心は、匂いを消すき」

匂い。私は、会議室の無臭を思い出した。「リスク」「前例」「世間体」——どれも無臭だ。無臭だから、責任が薄まる。薄まった責任ほど残酷だ。

「でも、今は…危ないことをしたら叩かれます。失敗したら、終わりです」

私が言うと、龍馬は笑わなかった。笑わない顔ほど怖い。怖い顔が、ふいに優しさに似たものを帯びた。優しさは油断を生む。だがこの優しさは油断ではなかった。現実を知っている者の疲れだった。

「終わりじゃない。終わりに“する”んじゃ」

彼は言った。

「失敗が終わりになるのは、世間が厳しいからでも、国が冷たいからでもない。おまんらが、失敗した者の匂いを嗅がんきじゃ。匂いを嗅がん者は、責任を引き受けきらん。責任を引き受けん者は、誰かを“終わり”にして、自分を助ける」

自分を助ける。その言葉が、胸を刺した。私は今日、撤退の判を押すことで、誰かの未来を終わりにし、自分の机を守ろうとしていた。守るという言葉は甘い。甘い守りは腐る。腐った守りの上で、人は平気で他人の人生を切る。

龍馬は私のスマートフォンを指さした。

「その“既読”いう印は、便利やろう。けんど便利は、心を遅らせる。遅れた心は、いつか自分を刺す」

私は息を吸った。潮の匂いが痛い。痛い匂いは真実だ。真実は甘くない。甘くないから腐らない。

「あなたなら、どうしますか」

龍馬は少しだけ、空を見上げた。空は薄い灰色だった。灰色は曖昧の色だ。曖昧は優しい。優しさは油断を生む。油断は、あとで胸を切る。

「わしは商いの側の人間じゃ。剣を振るうより、船を動かす方が好きじゃった。船を動かすいうことは、必ず責任を背負ういうことじゃ。沈んだら、海は言い訳を聞かん」

そして、ひと言だけ言った。

「決めよ」

短い言葉ほど真実だ。真実は甘くない。私はその「決めよ」が、撤退か継続かを言っているのではないと分かった。“自分が誰の匂いを引き受けるのか”を決めよ、という命令だった。命令は耳より先に骨へ入る。骨へ入った命令は、考える前に手を動かす。

龍馬は続けた。

「国を変えるいうのは、でっかいことを言うがやない。おまんが今日、誰の息を薄めんか、いうことじゃ」

風が吹いた。潮が強くなり、桟橋の鉄が冷えた。冷たさは正しい。正しい冷たさが、私の甘い逃げを叱る。次に瞬きをしたとき、龍馬はいなかった。残ったのは、海の匂いと、油の匂いと、遠い船の低い音だけだった。

ビルへ戻るエレベーターの中で、私はスマートフォンを取り出した。若い社員のメッセージに、返事を書いた。正しい言葉を探さなかった。正しい言葉は清潔すぎる。清潔な言葉ほど残酷だ。代わりに、恥を差し出した。

「決まってない。俺は怖い。失敗したら叩かれるのも、撤退したら君が折れるのも。でも、君の案の“息”を薄めたくない。今日、俺が責任を持つ形を探す。会議に来て」

送信すると、既読がついた。既読は軽い。軽い印ほど残酷だ。だが今日は、軽い印の後ろに、重い匂いを置いたつもりだった。置いたつもり、という言い方が弱い。弱さは恥に似る。恥がある限り、私はまだ人間だ。

会議室で、私は撤退の判を押さなかった。代わりに、条件を変え、段階を切り、責任の持ち方を言葉にした。言葉にした瞬間、言葉は刃になる。刃になった言葉は、私自身をも切る。切られる痛みは真実だ。真実は甘くない。甘くないから腐らない。

上司は眉をひそめた。ひそめた眉は、現実がそこにいる証拠だ。私は逃げなかった。逃げないことが勇気だとは言わない。勇気という言葉は美しい。美しい言葉ほど危険だ。ただ、匂いから逃げなかっただけだ。

夜、ビルの外へ出ると、海の方角に小さな闇が見えた。闇は怖い。怖い闇ほど正しい。私はその闇に向かって歩くのではなく、闇を背にして歩いた。背にすることは逃げに似る。逃げは卑怯だが、卑怯でなければ守れないものもある。

守るのは、国ではない。今日の、誰かの息だ。誰かの目の澄み方だ。そして、私自身が無臭の仕事の中で、完全に死なないための匂いだ。

坂本龍馬が今の日本を評価するとしたら、こう言うだろう。「ええ国じゃ」そして同時に、こう叱るだろう。「息を薄めるな」

海は今日も、無関心に青い。無関心は残酷で、残酷だから正しい。その正しさの前で、私は明日も決める。大きな理想ではなく、たった一人分の匂いを、紙に負けさせないために。

 
 
 

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