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茶畑の手紙、開封できない

 私は手紙が怖い。 手紙、と書くと少し文学めいて聞こえるが、要するに封筒である。のりでぴたりと閉じられた、あの四角い紙の袋。中身が何であれ、封筒というものは、こちらの生活を勝手に「次の段階」へ押しやる。私は段階が嫌いだ。段階というものは、いつも私の足を踏む。

 その日、私――幹夫は、玄関の郵便受けに挟まっていた一通を見た瞬間、心臓が妙に早くなった。 白い。妙に白い。 しかも、表にきちんとした字で私の名前が書いてある。さらにいけないことに、角に「親展」と印刷されている。親展という言葉ほど人を追いつめる言葉もない。親展。お前だけ読め。お前だけ責任を持て。お前だけ決めろ。そう言っている。

 私は封筒を指先でつまみ、台所のテーブルに置いた。置いただけで、爆弾を置いたような気分になった。私は大げさな男である。大げささで人生をふくらませ、ふくらんだ人生に潰される。自作自演の劇場である。

 封筒の差出人は、会社の名前だった。 あの面接の会社だ。 数日前、白いシャツの袖口を気にしながら、私はそこで「やる気はあります」と言った。やる気というものは、私の口の中ではいつも乾いている。乾いたやる気を、私は大きな声で噛んで見せる。噛んで見せるだけで飲み込めない。飲み込めないから、のどに引っかかって咳が出る。私の面接はだいたいその咳で終わる。

 採用か、不採用か。 人は「どっちでも同じじゃないか」と言うだろう。いや、違う。私にとっては違う。採用なら、私は働かねばならない。不採用なら、私はまた「やっぱりね」と言える。私は「やっぱりね」が大好きだ。やっぱりね、と言うと、私は最初から分かっていた人間みたいに見える。分かっていた人間は傷つかない。私は傷つきたくないから、分かっていたふりをする。

 ところが、ここが私のいけないところだが、私は採用も怖かった。 採用が怖い、というのは変な話である。普通は採用されたい。私も採用されたい。採用されたいのに、採用されたら困る。困る理由はいくらでも並べられる。責任、早起き、上司、飲み会、月曜日。そういうものが怖い――と私は言い訳をする。だが本当の怖さは、もっと浅い。採用されたら、私は「幸せになりかける」。幸せになりかけると、私は必ず自分で自分を裏切る。裏切ると、幸せになりかけたぶんだけ自己嫌悪が増える。だから私は、幸せになりかけること自体を避ける。私は、幸福を避けるための才能だけは一人前である。

 私は封筒を開けられなかった。 カッターを出せばいいのに、出さない。 はさみを使えばいいのに、使わない。 指でちぎればいいのに、ちぎれない。 私は結局、封筒を持ったまま、家を出た。

 出るとき私は、自分に言い訳をした。 「家で開けると、空気が重くなるから」 嘘である。家の空気は、もともと重い。封筒一通で重くなるような家なら、私はとっくに潰れている。私は潰れていない。潰れていないふりをしているだけだ。

 駅へ向かう道で、私はコンビニに寄った。 そして私は、よりによってペットボトルのお茶を買った。静岡の街でお茶を買うというのは、どういう神経なのだろう。静岡でお茶を買う人間は、だいたいよそ者か、私のような怠け者だ。私はよそ者ではない。怠け者である。

 お茶のラベルには、青い山と緑の畑が描かれていた。 私はそのラベルを見て、ふと思った。 ――だったら、本物の茶畑へ行って、そこで開けてみよう。 茶畑の前でなら、封筒も少しは自然に見えるかもしれない。 私はすぐ、そういう変な思いつきに飛びつく。飛びついて、立派な理由に仕立てる。私の人生はいつも、思いつきの着せ替え人形である。

 私はバスに乗った。 静岡市の街を抜け、山のほうへ向かうバス。窓の外で家の屋根が低くなり、道路が細くなり、空が急に大きくなる。そういう変化が、私は好きだ。変化が好きなのではない。変化の途中なら「まだ決めなくていい」気がするからだ。私は途中に住みたい。

 バスは葵区のほうへ上がっていった。足久保のあたり、茶畑が広がる坂道。 緑が、整っている。 茶畑の緑は、木の緑とは違う。木の緑は勝手に伸びるが、茶畑の緑は切り揃えられている。人が手で揃えた緑だ。揃えた緑は、優しいのに、どこか厳しい。私はその厳しさに弱い。厳しさは、私に「さぼるな」と言ってくるからだ。

 バスを降りると、空気が少し冷たかった。 茶の匂いがした。青い匂い。苦い匂い。どこか金属みたいに澄んだ匂い。 私はポケットの封筒に触れた。封筒は、さっきより重い。重いのに、紙なのだ。紙なのに、私の一日を持っていく。

 私は農道を歩いた。 左右に茶畑が並び、畝が波のように続いている。 小さな作業車が通り、刈り込みの機械の音が遠くで「ぶう」と鳴る。 畑の端のほうで、おばさんたちが作業していた。手袋をして、帽子をかぶり、黙々と茶の葉を摘んでいる。摘むというより、選んでいる。若い芽だけを選ぶ手つきだ。若い芽を選ぶ手つきは、生活の手つきである。私は生活の手つきが下手だ。下手だから、生活の場へ行くと居心地が悪い。

 私は畑の見晴らしのいいところで立ち止まった。 足元に、石の縁石があって、ちょうど腰を下ろせる。私はそこに座り、封筒を膝の上に置いた。 さて、開けよう。ここで開ければ、私は立派な男だ。茶畑の中で手紙を開ける男。なんだそれ。映画のワンシーンみたいだ。私はそういうのが嫌いなのに、すぐ「映画の主人公のふり」をしたがる。

 私は封筒の端を指でつまみ、のり付けのところを少し剥がそうとした。剥がれない。 私は鍵を取り出し、角で引っかけようとした。紙が毛羽立つだけで、開かない。 私は歯で噛もうとした。のりの味がした。最悪である。 私は封筒を見つめた。封筒は何も言わない。封筒はただ閉じている。閉じているだけで、こんなに偉そうだ。

 そのとき、後ろから声がした。

「坊や、それ、開けないの?」

 振り向くと、作業帰りらしいおばあさんが立っていた。 小柄で、日焼けして、手が太い。太い手は、ただ太いのではない。働いた太さだ。 私は働いた手が怖い。働いた手は、私の言い訳を触ってしまうからだ。

「いえ……ええと……」

 私は返事ができなかった。 返事をすると、封筒の中身が現実になる気がした。 私は現実が怖い。だから言葉も現実にならない言葉を選ぶ。つまり、濁す。

「手紙なら、開けにゃあ」

 おばあさんは、笑いもしないで言った。 開けにゃあ。 その静岡の言い方が、妙にまっすぐで、胸に刺さった。

「開けると、決まっちゃうんで」

 私は、思わず言ってしまった。 言ってしまった瞬間、恥ずかしかった。 決まっちゃう、などと。何を子どもみたいなことを。 だが、私にとっては本当にそうなのだ。封筒は、未来を決める判子みたいに見える。

 おばあさんは、茶畑のほうを見た。 そして、畑の一番上の、きれいに揃った新芽を指さした。

「葉っぱもさ、開くよ。開かんと、お茶にならん」

 私は返す言葉がなかった。 葉っぱは開く。開いて摘まれて、揉まれて、乾かされて、誰かの喉を通る。 私の手紙は開かない。開かないまま、私の喉の奥に引っかかる。 私は、葉っぱに負けたくなかった。こんなところで葉っぱに負けたら、私は本当に終わりだと思った。終わり、という言葉がまた大げさである。だが私は、日常の小さなことをすぐ終わりにする。終わりにすると、少しドラマになるからだ。私はドラマに逃げる。

 おばあさんは、私の膝の上の封筒を、太い指でひょいと取った。 取った、という表現は大げさだが、私にはそう感じられた。私の未来を、他人が簡単に持ち上げたように見えた。

「これ、どれ」

 おばあさんは、自分の爪で封筒の端をすっとなぞった。 たったそれだけで、封筒は、私があれほど苦労したのに、するりと口を開いた。 私は呆然とした。 私の恐怖は、爪一本で剥がれる程度ののりだった。

 おばあさんは中から紙を引き出して、ちらりと見た。 そして、あっさり言った。

「落ちたね」

 落ちたね。 落ちた。 私は、その二音で、体が少しだけ軽くなるのを感じた。軽くなるのは、救われたからではない。決まったからだ。決まると、少なくとも揺れは止まる。揺れが止まると、気持ち悪さが減る。私は揺れに酔っていたのだ。

 おばあさんは紙を私に渡した。 私は、紙を受け取る手が震えるのを、なんとか隠した。隠す必要などないのに隠す。こういう「隠す」が、私の人生のすべてだ。

 紙には、丁寧な文が並んでいた。 選考の結果、誠に残念ながら、今回は……。 そういう、あの型にはまった文章。 私は読みながら、思った。――これが死刑宣告だと想像していたのに、文章は礼儀正しい。礼儀正しい不採用は、私の自意識を余計に傷つける。罵ってくれればよかったのに。罵られれば、私は被害者になれる。礼儀正しい拒絶は、ただ「あなたは足りません」と言うだけだ。逃げ場がない。

 ところが私の胸の中には、別の声が湧いた。 ――よかった。 よかった、である。 私は不採用を「よかった」と思ったのだ。 私は、そこで自分が本当に嫌になった。 不採用でよかった、というのは何だ。私は働きたいと言ったのではないか。やる気があると言ったのではないか。全部、嘘だったのか。嘘だったのだろう。私は嘘で生きている。

 私は笑ってしまった。 笑うと、泣くより卑怯である。 だが私は泣くほど正直でもない。だから笑う。

「……そりゃそうですよね」

 私は誰にともなく言った。 おばあさんは、私の顔をじっと見て、それから肩をすくめた。

「まあ、落ちることもあるさ。お茶だって、摘み遅れると固くなる。次また柔らかい芽を探せばいい」

 次。 次という言葉は、私には遠い。 次がある人間は、だいたい今をちゃんとやっている。 私は今をちゃんとやっていないのに、次を欲しがる。 欲しがるだけで、動かない。 動かないくせに「次」を言われると、なぜだか少し救われる。救われると、私はまた怠ける。救われ方が下手だ。

 おばあさんは、腰のポケットから小さな水筒を出した。 ふたを開けると、湯気は出ない。冷たいお茶だ。 おばあさんは紙コップを一つ出し、私にも注いだ。

「飲みな。落ちたら苦い茶だ」

 苦い茶だ。 私はその言葉が可笑しくて、また笑ってしまった。 苦い茶。落ちた茶。そうやって笑える人間が、本当は強いのだろう。私は笑い方だけは一丁前だが、笑ったあとに必ず自分を殴りたくなる。その弱さが、私の本体だ。

 お茶は、ほんとうに苦かった。 苦いのに、飲んだあと、喉の奥に甘さが残った。 甘さが残るのが、少し悔しかった。 世の中は、苦いだけで終わらせてくれない。苦いだけなら、私は被害者のまま眠れるのに。

「おばあさん」

 私は言った。 おばあさんは「なに」と言った。

「なんで、こんなに平気なんですか」

 私は聞いてしまった。 平気、というのはおばあさんのことではない。私のことだ。 私は不採用の紙を持って、ここに座って、茶を飲んでいる。 世界が終わるはずだったのに、茶畑は緑で、風は吹いて、葉っぱは開いている。 それが腹立たしいほど平気なのだ。

 おばあさんは、茶畑の列を見ながら言った。

「平気じゃないよ。だが、やることがあるだけだよ。畑は待たんからね」

 畑は待たない。 改札が待たないのと同じだ。 波が待たないのと同じだ。 私は「待って」を言うのが得意だが、世界は待たない。 待たない世界の中で、私はいつも途中に座り込む。

 私は不採用の紙を折りたたんだ。 折りたたむと、紙は急に小さくなる。小さくなると、怖さも少し小さくなる。 怖さが小さくなると、今度は自分の情けなさが大きく見える。私はいつも、縮めても別のものが膨らむ。

 おばあさんは立ち上がり、畑の方へ戻る支度をした。

「坊や、帰りは気をつけな。坂で転ぶと、今度は膝が落ちる」

 膝が落ちる。 私はその言い方に、なぜだか救われた。 人生の話ではなく、膝の話をしてくれる人がいると、私は少しだけ現実に戻れる。

「……ありがとうございました」

 私は言った。 言った瞬間、また「ありがとう」が出てきた。 ありがとうは、私の中でいつも危険だ。ありがとうは、私に「ちゃんとしろ」と言ってくるからだ。

 おばあさんは手をひらひら振って去っていった。 去り際の背中が、たいへん小さく、たいへん強かった。

 私はその場にもう少し座っていた。 茶畑の緑は、揃っているのに、風が吹くと微妙に波立つ。 揃っているものが揺れるのを見ると、私は少し安心する。 揃いっぱなしだと、私は責められている気がする。 揺れてくれると、「お前も揺れていい」と言われている気がする。 私はそういう勝手な解釈で、生き延びている。

 封筒は、もう開いてしまった。 開いてしまったのに、私はまだ「開封できない」と思っていた。 つまり、紙は開いたが、私は開いていない。 不採用という現実を、私はまだ胸の中へ入れていない。入れたら、また次の段階へ行かなければならない。私は段階が嫌いだ。段階が怖い。私はいつまでも「途中」の幹夫でいたい。

 帰りのバス停へ向かう道で、私はポケットの紙に触れた。 紙は薄いのに、まだ重い。 重いまま、私は歩いた。歩けるだけで、今日はましだ。 まし、という言葉が、最近の私のいちばん偉い言葉である。

 バスが来て、私は乗った。 窓の外で茶畑が遠ざかっていく。 緑が小さくなる。小さくなると、私の言い訳がまた息をし始める。 私はその息の音を聞きながら、封筒の切り口を指でなぞった。

 ――葉っぱは開く。 ――封筒は開いた。 ――私は、まだ開かない。

 私はそう思って、少しだけ笑った。 笑ってしまうあたり、私はやっぱり救われるのが下手なのだろう。 けれども、下手でもいい。 下手なまま、帰りのバスに乗れている。 静岡の街へ戻っていく。

 そして私は、その夜、机の引き出しに不採用の紙をしまった。 しまうとき、私はまた「親展」という字を思い出して、少しだけ肩がすくんだ。 親展。お前だけ決めろ。 私は決めない。決められない。 決められないまま、明日もお茶を飲む。 それが、私のいちばん静岡らしい生き方かもしれない。

 
 
 

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