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君を守るために、時刻表を殺した

※作中の列車番号・時刻は架空です。

一 十八番線の死者

東京駅十八番線のホームには、夜が降りても昼の白さが残っていた。

蛍光灯に磨かれた床、ホームドアの銀色、車体の腹を滑る青い帯。東海道新幹線は、どこまでも清潔だった。人間の汗も、怒りも、秘密も、発車ベルが鳴ればすべて置き去りにされるように見えた。

警視庁捜査一課の佐伯遼は、その清潔さが昔から嫌いだった。

列車は時刻通りに来る。時刻通りに開く。時刻通りに人を運ぶ。けれど人間の心だけは、どうやっても時刻表に載らない。

最初の遺体は、名古屋駅に到着した「こだま七二一号」の多目的室で見つかった。

被害者は葉山宗一郎、六十三歳。都内の小さな福祉法人の理事長で、京都の児童養護施設で長く施設長を務めていた男だった。胸に細い注射痕がひとつ。抵抗の痕はない。苦しんだ顔でもなかった。眠りの底で、突然呼吸を奪われたような死に顔だった。

遺体の胸ポケットには、折り畳まれた一枚の紙片が差し込まれていた。

東海道新幹線の時刻表の切り抜き。

東京発、品川発、新横浜発、小田原、熱海、三島、静岡、浜松、名古屋、京都、新大阪。

整然と並ぶ数字のうち、名古屋到着の欄だけが赤いインクで塗り潰されていた。

その下に、万年筆の美しい字で一文。

――君を守るために、時刻表を殺した。

佐伯は紙片を鑑識袋越しに眺めながら、胃の奥が冷えていくのを感じた。

挑発だ。

しかも、ただの自己顕示ではない。犯人は「時刻表」という秩序を愛している。愛しているものを殺すと言っている。そういう人間は、たいてい他人も同じように扱う。

愛しているから壊す。

守るために奪う。

佐伯は、その言い方を知っていた。

父がよく使った言葉だった。

「おまえたちを守るためだ」

そう言って父は、妹の凪の携帯を取り上げ、友人からの手紙を破り、進学先まで決めた。佐伯は当時、父の側に立った。家族を守るとはそういうことだと、本気で信じていた。

凪が家を飛び出した夜も、佐伯は父に告げ口をした。

「凪、駅に行った」

その三十分後、凪は雨の国道で車にはねられた。

守るという言葉は、それ以来、佐伯の中で刃物のような音を立てる。

第二の紙片は、翌日の午前、捜査本部に届いた。

白い封筒。差出人なし。中にはまた時刻表の切り抜きと、短い文章。

――私は九時四十二分、富士山の影を抜けた。――君たちは死者の時間しか読めない。――生きている者の時間を読んでみろ。

同封されていたのは、ある女性の乗車記録だった。

白石澪、三十一歳。

職業は装幀家。東京と京都を往復し、鉄道会社の広告や駅構内ポスターのデザインにも関わっている。記録によれば、葉山宗一郎が殺害された推定時刻、白石澪は東京発京都行きの「のぞみ三一六号」に乗車していた。

同行者として申告されていた名前は、雨宮怜司。

白石澪の保護者代わりであり、仕事上のマネージャーでもある男だった。

佐伯が最初に雨宮怜司を見たのは、品川の高層ビルにある小さな事務所だった。

雨宮は、黒い薄手のコートを椅子の背に掛け、まるで訪問者のためにあらかじめ用意された絵のように座っていた。四十歳前後。細い指。柔らかな声。目だけが、妙に温度を持たなかった。

「葉山さんとは、古い知り合いです」

雨宮は言った。

「澪が子どもの頃、世話になった施設の方でした」

「事件当日、あなたはどこに?」

「澪と一緒に新幹線に乗っていました。東京から京都まで」

雨宮はためらいなく答えた。

「澪さんは、一人では長距離移動ができないので」

佐伯はペンを止めた。

「できない?」

「過去の事故で、発作が出るんです。ホーム、トンネル、車内の閉塞感。そういうものが彼女を壊す。だから私が付き添っています」

雨宮は「壊す」という言葉を、まるで花瓶の扱いでも語るように発音した。

そのとき奥の部屋から、白石澪が現れた。

淡い灰色のワンピース。肩までの黒髪。顔色は薄く、目の下に眠れない人間特有の青い影があった。美しいというより、静かに透き通っていた。触れれば指紋が残ってしまいそうな人だった。

「事件当日、雨宮さんはあなたと一緒にいましたか」

佐伯が尋ねると、澪は一度だけ雨宮を見た。

ほんの一瞬だった。

しかしその視線には、許可を求める子どものような怯えがあった。

「はい」

澪は答えた。

「怜司さんは、ずっと私のそばにいました」

雨宮は微笑んだ。

その笑みを見た瞬間、佐伯の背中に、古い家の廊下の冷たさがよみがえった。

父もよく、ああいうふうに笑った。

相手が自分の言葉通りに動いたときだけ、優しい顔をした。

二 共犯者の影

第二の殺人は、京都駅に直結するホテルの一室で起きた。

被害者は七瀬美佐、四十二歳。フリーライター。社会福祉施設の不正や虐待問題を追っていた。死因は第一の事件と同じ薬物中毒。机の上にはノートパソコンが開かれたままになっており、画面には未完成の記事タイトルが残っていた。

「白石澪という名の沈黙」

データの大半は削除されていた。

部屋の床には、また時刻表の切り抜きが落ちていた。今度は京都発東京行きの欄。新横浜到着時刻が赤で塗られている。

添えられた言葉はこうだった。

――彼女に近づく者は、遅延である。――遅延は排除されなければならない。

殺害推定時刻、雨宮怜司には再びアリバイがあった。

白石澪とともに、新大阪発東京行きの列車に乗っていたという。

乗車記録はあった。白石澪の予約、白石澪の改札通過、白石澪の座席利用。車内販売の決済履歴も、彼女の端末から残っていた。隣席は「同行者」として押さえられていた。

だが、その同行者が実際に座っていたかどうかを示す記録はなかった。

佐伯は、そこに最初の違和感を覚えた。

「雨宮本人を見た乗務員はいないんですか」

若い刑事の杉野が資料をめくる。

「グリーン車ではありませんし、乗務員の記憶も曖昧です。白石澪については覚えているそうです。顔色が悪く、ずっと窓側で俯いていたと。隣には黒いコートが掛かっていたらしいですが、人がいたかは断言できない」

黒いコート。

雨宮の事務所で見たものと似ている。

佐伯は写真を並べた。

葉山宗一郎。七瀬美佐。

二人は一見、何の関係もない。福祉法人の理事長とフリーライター。年齢も職業も違う。だが二人の古い経歴を辿ると、京都の児童養護施設「ひかりの舎」で交差した。

白石澪が十三歳から十八歳まで暮らしていた施設だった。

さらに、七瀬の取材メモには、三人目の名前があった。

港崎隆。

元臨床心理士。かつて「ひかりの舎」で子どもたちのカウンセリングを担当していた男。

佐伯が港崎の自宅を訪ねたとき、老人はすでに怯えていた。

浜松の古い住宅街。庭の柿の木は葉を落とし、午後の日差しが薄く畳に広がっていた。

「雨宮に会いましたか」

港崎は、挨拶もそこそこに訊いた。

「ええ」

「では、あの男の言うことを信用してはいけない」

佐伯は録音機を置いた。

「白石澪さんの過去について、何を知っていますか」

港崎は長い沈黙のあと、震える手で茶を飲んだ。

「彼女は、壊れてなどいなかった」

その言葉は、静かだったが重かった。

「どういう意味です」

「彼女は新幹線を怖がっていなかった。少なくとも、施設にいた頃は。修学旅行でも、通院でも、一人で乗れた。発作が始まったのは、雨宮が彼女のそばに戻ってからです」

「戻ってから?」

「雨宮怜司も、あの施設にいた子です。澪より六つ年上で、賢く、面倒見がよく、大人たちから信頼されていた。だが私は、彼が怖かった」

港崎は窓の外を見た。

柿の枝が風に震えている。

「彼は、澪を助けているように見えた。けれど実際には、澪が誰かと親しくなるたび、その相手を遠ざけた。澪が何かを選ぼうとすると、必ず彼が先回りして、より安全な選択肢を用意した。進学先、就職先、住む場所、仕事、移動手段。すべてです」

佐伯の胸が詰まった。

父の机の引き出しを思い出した。

凪の友人から届いた手紙が、開封され、読まれ、捨てられていた。父は言った。悪い友達から守っているだけだ、と。

港崎は続けた。

「十五年前、施設で火事がありました。亡くなったのは名取すみれという少女です。澪の親友でした。澪はずっと、自分がストーブを消し忘れたせいだと思い込んでいる。雨宮がそう教えたからです」

「事実は?」

「違います。少なくとも、澪の過失ではない。すみれは、澪を連れて施設を出ようとしていた。東京の親戚を頼るつもりだった。雨宮は、それを知っていた」

港崎は、声を落とした。

「彼は澪を失うことを恐れたんです。澪が自分以外の誰かを選ぶことを」

そのとき、港崎の固定電話が鳴った。

老人はびくりと肩を震わせた。

佐伯が受話器を取ろうとしたが、港崎は首を振った。

電話は留守番電話に切り替わった。

機械音のあと、柔らかな男の声が流れた。

「先生、約束の時間です」

雨宮怜司の声だった。

「浜松発十七時四十八分。遅れないでください。遅れる人は、澪を傷つけます」

港崎の顔から血の気が引いた。

佐伯は即座に警備を要請した。

だが、その日の夕方、港崎隆は浜松駅近くの駐車場で死んだ。

胸にはまた、細い注射痕。

握らされた紙片には、赤いインクでこう書かれていた。

――彼女の過去は、彼女には重すぎる。――だから私が持っている。

三 守るという檻

三件目のあと、世論は白石澪を疑い始めた。

被害者は全員、彼女の過去に関係している。殺害時刻の前後には、必ず彼女の乗車記録がある。雨宮怜司は彼女を守る男として表に立ち、彼女はその言葉を補強するように沈黙した。

読者であれば、誰もが思っただろう。

白石澪は本当に被害者なのか。

それとも、雨宮と共に過去を消そうとしているのか。

佐伯自身も、一度はそう考えた。

白石澪は弱々しく見える。だが弱さは、罪の免罪符ではない。彼女が雨宮に命じている可能性もある。自分の過去を知る者を消すために、雨宮を動かしている可能性も。

その疑いを胸に、佐伯は澪を単独で呼び出した。

場所は、品川駅の新幹線改札の外にある喫茶店だった。ガラス越しにホームへ向かう人々が流れていく。スーツケースの車輪の音、案内放送、切符を手にした子どもの笑い声。

澪は、熱い紅茶に一度も口をつけなかった。

「雨宮さんは、あなたを守っているんですか」

佐伯は尋ねた。

澪は黙っていた。

「それとも、あなたが雨宮さんを守っているんですか」

澪の指先が震えた。

カップの縁に当たり、かすかな音が鳴る。

「……わかりません」

やっと出た声は、紙のように薄かった。

「わからない?」

「怜司さんは、いつも正しいことを言います。私が何を忘れているか、何を怖がっているか、誰に会ってはいけないか、全部知っている。私より私のことを知っているんです」

佐伯は静かに言った。

「それは、理解ではありません」

澪が顔を上げた。

「あなたの代わりに、あなたの人生を読んでいるだけです」

その瞬間、澪の目に怒りのようなものが浮かんだ。だがすぐに消えた。怒り方さえ忘れた人間の目だった。

「刑事さんにはわかりません」

「わかるとは言いません」

佐伯は答えた。

「ただ、知っています。守るという言葉で、人は簡単に檻を作れる」

澪は、改札の方を見た。

白い車体がホームに滑り込んでくる。到着の音は、遠い海鳴りに似ていた。

「私は、すみれを殺したんです」

澪は言った。

「火事の日、私がストーブを消し忘れた。怜司さんがそう言いました。怜司さんだけが、私を責めなかった。『君は悪くない、僕だけは知っている』って。だから、私は……」

声が途切れた。

佐伯は、胸の奥で何かが折れる音を聞いた気がした。

「白石さん」

「でも、葉山先生も、七瀬さんも、港崎先生も、私に会おうとしていました。何かを言おうとしていた。怜司さんは、会わない方がいいと言いました。私のためだって」

「あなたは、雨宮さんが三人を殺したと思いますか」

澪は答えなかった。

ただ、バッグの中から小さな手帳を取り出した。

黒い革の手帳。中には、細かな字で予定が書かれていた。

何月何日、何時何分、起床。薬。朝食。出発。品川改札。十六号車。窓側。京都着。休憩。面談。食事。服薬。就寝。

すべてが十五分単位で管理されていた。

余白には、雨宮の筆跡で注意書きがある。

「澪は急な変更に弱い」「知らない人と会話しない」「一人で改札を通らない」「過去を思い出す話題は禁止」「怜司の指示を待つ」

それは日記ではなかった。

時刻表だった。

列車のためのものではなく、一人の人間を運行するための時刻表。

佐伯は、その手帳を見た瞬間、事件の中心にあるものを理解した。

犯人は、東海道新幹線の時刻表を使っているのではない。

白石澪という一人の人間の時刻表を使っている。

彼女がいつ起き、いつ改札を通り、どの席に座り、いつ薬を飲み、いつ眠るか。

そのすべてを支配しているからこそ、雨宮怜司は「完璧なアリバイ」を作れるのだ。

自分の移動記録ではない。

澪の移動記録を、自分の存在証明にしている。

澪が動けば、雨宮もそこにいると周囲は思う。なぜなら雨宮は、澪が一人では何もできないと全員に信じ込ませてきたからだ。

彼は、彼女の弱さを守ったのではない。

彼女を弱く見せることで、自分の影を彼女に縫い付けた。

四 時刻表の空席

捜査本部で佐伯は、三つの事件の乗車記録を壁に貼った。

赤い線が東京から京都へ走る。青い線が新大阪から品川へ戻る。緑の線が名古屋を経由する。

すべて、白石澪の移動だった。

雨宮怜司の移動を直接示すものは、どこにもない。

だが関係者は皆、こう証言した。

「雨宮さんは白石さんに付き添っていたはずです」「白石さんは一人では乗れないと聞いています」「同行者席が予約されていました」「黒いコートが隣にありました」「白石さん本人が、雨宮さんはそばにいたと言っていました」

はず。

聞いています。

コートがあった。

本人が言った。

それは証拠ではなく、雨宮が長い時間をかけて作り上げた物語だった。

完璧なアリバイなど存在しなかった。

完璧に見えるほど、周囲が雨宮の物語に従っていただけだ。

佐伯は澪の手帳をもう一度開いた。

事件当日の予定欄に、小さな違和感があった。

三件すべて、殺害推定時刻の少し前に、澪には必ず「窓を見る」と書かれている。

十四時二十二分、富士山側を見る。十七時十一分、トンネルに入ったら目を閉じる。十九時三分、浜名湖通過、深呼吸。

意味のない指示に見える。

だがそれは、雨宮が澪に電話をかける時刻だった。

澪の端末には、短い通話履歴が残っていた。すべて非通知。十秒から十五秒。

雨宮はその短い電話で、澪の現在地を確認していたのだ。

「今、どこを見ている?」「富士山は見える?」「トンネルに入った?」「浜名湖の水は黒い?」

澪が答える。

その答えによって、雨宮は自分の殺人計画の針を合わせる。

彼にとって澪は、愛する人間ではなかった。

移動する時計だった。

佐伯は雨宮の事務所を捜索した。

鍵のかかった棚の奥から、古い紙束が見つかった。白石澪の十年以上にわたる予定表。乗車券の控え。宿泊記録。交友関係のメモ。削除されたメールの印刷。澪に届くはずだった手紙。

その中に、名取すみれが十五年前に書いた手紙があった。

澪へ。

一緒に出よう。あなたは悪くない。怜司さんの言うことを全部聞かなくていい。東京に親戚がいる。新幹線に乗ればすぐだよ。私、切符を買った。怖くても、二人なら行ける。

手紙の端は焦げていた。

雨宮はそれをずっと持っていた。

捨てずに、隠し続けていた。

証拠としてではない。

勝利の記念品として。

佐伯は怒りで視界が白くなった。

凪の机から見つけた、開封済みの手紙を思い出した。あのとき自分は、父を責めなかった。むしろ、凪が悪いと思った。家族を心配させるからだ、と。

守る側に立つ人間は、自分の暴力に気づきにくい。

佐伯は、その事実が何より怖かった。

雨宮怜司は、澪を愛しているつもりでいた。

たぶん、それは本当だった。

だが愛しているという感情は、人を救う保証にはならない。愛は、刃物を握った手にも宿る。むしろ、愛という名を与えられた刃物ほど、深く刺さる。

五 犯人の論理

雨宮怜司は逮捕状が出る前に、最後の封筒を送ってきた。

中には、一枚の切符のコピー。

白石澪、東京発新大阪行き。

発車時刻は二十時三分。

同封の紙片には、こうあった。

――最後の遅延を排除する。――彼女は今夜、私とともに西へ向かう。――君が彼女を奪うなら、君も時刻表から消える。

「最後の遅延」とは、おそらく佐伯自身のことだった。

雨宮は佐伯を殺すつもりだ。

そしてまた、白石澪の移動記録を使う。

澪が二十時三分の列車に乗る。隣席には雨宮のコートがある。澪は、雨宮がそばにいたと言う。周囲もそう思う。雨宮はその間に、別の場所で佐伯を殺す。

同じ構造の、最後の反復。

佐伯は澪に会いに行った。

彼女は事務所ではなく、都内の小さなホテルに保護されていた。警察官が廊下に立ち、部屋には最低限の家具しかない。窓の外には、夕暮れの東京が広がっていた。

澪はベッドの端に座り、例の黒い手帳を膝に置いていた。

「雨宮は、あなたをまた列車に乗せるつもりです」

佐伯は言った。

澪は頷いた。

「予定に書いてあります」

「従う必要はありません」

澪は小さく笑った。

それは笑いというより、息が漏れただけだった。

「従わなかったら、何が起きるのかわからないんです。ずっと、そうでした。予定から外れると、怜司さんが悲しむ。怒るより、悲しむんです。『君はまた自分を壊すんだね』って。『僕がいないと君は死ぬのに』って」

佐伯は黙って聞いた。

「だから私は、壊れないように、怜司さんの言う通りにしてきました。でも本当は……」

澪は手帳を開いた。

そのページには、今夜の予定が書かれている。

十九時二十分、ホテル出発。十九時四十五分、東京駅着。二十時三分、乗車。二十時十九分、品川通過後、薬。二十時四十一分、新横浜通過、目を閉じる。二十一時五分、怜司に報告。

澪は、ペンでそのページに線を引いた。

一本、二本、三本。

紙が破れるほど強く。

「本当は、もう嫌です」

その声は震えていた。

だが、初めて澪自身の声だった。

佐伯は慎重に言った。

「あなたが雨宮を止められるかもしれません」

「私が?」

「彼の論理は、あなたが彼を必要としているという前提でできています。あなたが一人では動けない。あなたは過去を知ると壊れる。だから彼が守らなければならない。その前提が崩れたら、彼の世界も崩れる」

澪は長く沈黙した。

やがて、窓の外を見た。

「刑事さん」

「はい」

「私は、すみれに会えますか」

佐伯は一瞬、答えに詰まった。

澪は首を振った。

「違う。お墓じゃなくて。すみれが行こうとした場所に、私は行けますか」

佐伯はその意味を理解した。

十五年前、すみれが澪と乗ろうとした新幹線。

雨宮のいない切符。

雨宮の知らない席。

雨宮の時刻表に載っていない移動。

「行けます」

佐伯は言った。

「ただし、あなた自身の意思で」

澪は黒い手帳を閉じた。

その音は、小さな扉が閉まる音に似ていた。

六 ひとりで乗る

東京駅のホームに、夜風はなかった。

代わりに、列車が入線するたび、機械の吐息のような空気が人々の足元を撫でていく。案内表示板には、発車時刻と列車名が青白く並んでいた。

二十時三分発、新大阪行き。

雨宮怜司は、十六号車付近に立っていた。

黒いコート。細い指。穏やかな顔。

彼は焦っていなかった。

白石澪は必ず来ると信じている顔だった。

彼にとって、澪が予定から外れることはあり得ない。朝が来るように、列車が時刻通りに来るように、澪は彼の書いた時間の中を歩く。そう信じて疑わない。

佐伯は柱の影から、その姿を見ていた。

雨宮の視線は何度も改札方向へ向かう。

二十時一分。

二十時二分。

白石澪は現れない。

発車ベルが鳴った。

雨宮の表情に、初めて小さなひびが入った。

彼はスマートフォンを取り出し、電話をかけた。

繋がらない。

もう一度。

繋がらない。

ドアが閉まる。

白い列車が、光の線になってホームを離れていく。

雨宮は動かなかった。

その背後で、静かな声がした。

「怜司さん」

雨宮が振り向いた。

白石澪が立っていた。

だが彼女は、東京駅に来たのではなかった。

すでに、新幹線に乗ってきたのだ。

夕方、澪は雨宮の予定にはない切符を自分で買った。東京からではなく、品川からでもなく、京都へ向かう列車でもない。彼女はまず小さな駅まで在来線で向かい、そこから「こだま」に乗った。各駅に停まりながら、ゆっくりと東へ戻る列車だった。

怖かっただろう。

トンネルの暗闇も、車内の沈黙も、知らない人の咳も、すべてが雨宮の声を呼び戻したはずだ。

君には無理だ。君は壊れる。僕がいなければ君は死ぬ。

それでも澪は乗った。

ひとりで改札を通り、ひとりで席を選び、ひとりで窓の外を見た。

そして、死ななかった。

壊れなかった。

雨宮の知らない時刻を、生きてここに来た。

「澪」

雨宮の声は優しかった。

だがその優しさは、刃の上に塗られた蜜のようだった。

「どこにいたんだ。心配したよ。そんなことをしたら、君は――」

「私は壊れませんでした」

澪は言った。

雨宮の口が止まった。

「十六時二十七分の列車に乗りました。あなたの知らない切符で。あなたの知らない席に座りました。トンネルにも入りました。富士山は雲で見えなかった。浜名湖の水は、暗くなる前で少し金色でした」

澪は一歩、雨宮に近づいた。

「怖かったです。でも、私は死にませんでした」

雨宮の瞳が揺れた。

「それは、たまたまだ。君はわかっていない。君の心は脆い。過去を知れば――」

「過去を知りたい」

澪の声が、ホームの音の中でまっすぐ立った。

「すみれが何を言おうとしたのか。葉山先生が何を隠したのか。七瀬さんが何を書こうとしたのか。港崎先生が何を伝えようとしたのか。全部、私が知りたい」

「知れば傷つく」

「傷つく権利も、私のものです」

雨宮の顔から、血の気が引いた。

佐伯は、その瞬間を見た。

犯人が追い詰められた瞬間ではない。

一人の支配者が、自分の作った神話を失った瞬間だった。

「私は君を守った」

雨宮は言った。

声が震えていた。

「みんな君を利用しようとした。すみれも、葉山も、七瀬も、港崎も。刑事だってそうだ。君を事件の中に引きずり戻す。僕だけが、君を理解している。僕だけが――」

「違います」

澪は首を振った。

「あなたが守っていたのは、私じゃない」

雨宮の目が見開かれた。

「あなたが守っていたのは、私があなたを必要としているという物語です」

ホームに、遠く別の列車の入線音が響いた。

澪は続けた。

「あなたは私を理解していたんじゃない。私を予定にしていただけ。私がいつ泣くか、いつ薬を飲むか、誰と会わないか、どの席に座るか。それを全部知っていることを、愛だと思っていた」

「澪、やめなさい」

雨宮の声が低くなった。

その声には命令が混じっていた。

けれど澪は、もう目を逸らさなかった。

「私は、あなたの時刻表ではありません」

その一文が、雨宮怜司の中にあったすべての線路を断ち切った。

彼は一歩後退した。

指先が震え、スマートフォンが床に落ちた。画面には、澪の予定表アプリが開いたままだった。二十時三分、乗車。二十時十九分、服薬。二十一時五分、報告。

過ぎ去った予定。

実行されなかった支配。

佐伯は静かに近づいた。

雨宮は抵抗しなかった。

ただ、澪を見ていた。

まるで列車が時刻表に載っていない方向へ走り出したのを、理解できない駅員のように。

手錠の音は、発車ベルよりも小さかった。

七 殺されたもの

雨宮怜司の事務所から見つかった資料によって、十五年前の火災の真相は明らかになった。

名取すみれは、澪を連れて施設を出ようとしていた。雨宮はそれを止めようとした。口論になり、物置のストーブが倒れた。すみれは澪を逃がし、煙に巻かれて死んだ。

雨宮は澪に嘘をついた。

君のせいだ。でも僕だけは君を責めない。だから僕のそばにいなさい。

それは慰めではなかった。

罪悪感を使った鎖だった。

葉山宗一郎は、施設の評判を守るために火災の詳細を伏せた。七瀬美佐は、その隠蔽と雨宮の支配を記事にしようとしていた。港崎隆は、澪に「あなたは壊れていない」と伝えようとしていた。

三人は、澪の過去を暴くために殺されたのではない。

澪に過去を返そうとして殺されたのだ。

雨宮は裁判で、最後まで同じことを繰り返した。

「私は彼女を守った」

その言葉を聞くたび、佐伯は父の声を思い出した。

だが、以前ほど胸は痛まなかった。

ある日、佐伯は京都駅のホームで白石澪に会った。

澪は小さな鞄を持っていた。黒い手帳は持っていなかった。代わりに、薄い水色のノートを胸に抱えていた。

「予定表ですか」

佐伯が尋ねると、澪は少し笑った。

「いいえ。行きたい場所のリストです」

「今日はどちらへ?」

「まだ決めていません」

そう言って、澪は案内表示板を見上げた。

列車名と時刻が、整然と並んでいる。

かつて彼女を縛った数字。

けれど今、それはただの選択肢だった。

「時刻表って」

澪は言った。

「人を閉じ込めるものだと思っていました。でも、本当は違うんですね。どこへ行けるかを教えてくれるものなんですね」

佐伯は頷いた。

発車ベルが鳴る。

白い車体のドアが開き、人々が乗り込んでいく。

澪は一歩を踏み出した。

誰の許可も求めずに。

誰の影も隣に置かずに。

佐伯はその背中を見送りながら、妹の凪に心の中で謝った。

守るとは、相手の時間を奪うことではない。

相手が自分の時間を選ぶのを、たとえ怖くても見届けることだ。

列車は定刻に発車した。

だが澪の人生は、もう時刻表通りではなかった。

それでよかった。

人は列車ではない。

愛はダイヤではない。

そして、誰かを本当に守るために殺さなければならないものがあるとすれば、それは時刻表ではなく、相手を自分の所有物だと思い込む心の方だった。

 
 
 

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