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乗客全員が同じ夢を見た

一 雨の七号車

東海道新幹線は、雨の日ほど静かに見える。

窓の外では、街の灯りが水に溶け、線路脇の看板も、工場の煙突も、遠いマンションの窓明かりも、すべてが一本の長い絵の具になって流れていく。時速二百八十キロで走る車内には、しかし奇妙なほど日常がある。コンビニの袋を膝に置いた会社員。眠る赤ん坊を抱いた母親。ノートパソコンの光に顔を照らされる男。車内販売で買ったコーヒーの紙カップを両手で包む老女。

その夜、のぞみ三〇八号、七号車もそうだった。

東京行き。新大阪を出たときから雨は強く、京都を過ぎるころには窓が黒い鏡になっていた。車内の天井灯がそこへ映り、乗客たちの顔が、現実より少し白く、少し疲れて見えた。

七号車十一番E席に座っていた倉田俊明は、名古屋を過ぎてから急に咳き込みはじめた。

最初は、誰もそれを事件だと思わなかった。喉に何かが引っかかったのだろう。風邪かもしれない。水を飲めば治まる。乗客たちは、それぞれの小さな世界から顔を上げ、そしてまた戻ろうとした。

だが倉田の咳は、すぐに音を変えた。

乾いた咳ではない。喉の奥で何かが泡立つような、聞いている者の胸の内側まで濡らすような音だった。

隣席の若い男が「大丈夫ですか」と声をかけた。倉田は答えなかった。紙カップを握っていた右手が痙攣し、カップが床に落ちた。薄いコーヒーが通路に広がり、そこへ車内灯が映って、黒い水たまりのようになった。

「誰か、車掌さんを!」

叫び声が上がった。

その瞬間、七号車の前方デッキへ続く自動ドアが開いた。

複数の乗客が、そこに男を見た。

黒いコートの男。

背が高く、肩幅が広い。膝まである黒いコートを着て、濡れたような黒髪を額に垂らしている。顔は影になって見えない。片手に古い革の鞄を提げている。立っていたのは一秒か、二秒か。男は通路の混乱を見つめるように少し首を傾け、それからデッキの向こうへ消えた。

倉田俊明は、品川到着の七分前に死亡した。

死因は、毒物による急性心不全。検視の結果、コーヒーに混入された毒が疑われた。

警視庁捜査一課の槙野航平が東京駅に着いたとき、ホームにはまだ雨の匂いが残っていた。屋根の下なのに、濡れた傘、靴底、外気を連れてきた列車の銀色の車体が、夜の雨をそこに置き忘れていた。

七号車の乗客たちは、臨時の事情聴取のために駅構内の会議室へ集められていた。

誰もが怯えていた。誰もが疲れていた。そして、誰もが同じことを言った。

「黒いコートの男を見ました」

槙野は、最初はその言葉を疑わなかった。

事件現場の近くで不審人物が目撃される。珍しいことではない。犯人は混乱の中で逃げたのかもしれない。防犯カメラにも、デッキ付近に黒い影が映っていた。映像は粗く、雨の日の窓の反射も重なり、顔までは判別できなかったが、確かに人影のように見えた。

だが、十人目の証言を聞いたとき、槙野の胸に小さな棘が刺さった。

「背はどのくらいでしたか」

「百八十センチくらいです」

「顔は?」

「はっきり見ていません。でも、青白い感じでした」

「髪は?」

「濡れていました。雨の匂いがするみたいな……」

槙野はペンを止めた。

雨の匂いがするみたいな。

同じ言葉を、すでに三人が使っていた。

十一人目の証言もそうだった。

「黒いコートで、背が高くて、濡れた髪で、雨の匂いがするような男でした」

十二人目も。

「革の鞄を持っていました。古い感じの」

十三人目も。

「顔は見えませんでした。でも、すごく冷たい目をしていた気がします」

槙野は、証言調書の紙をめくった。そこには、人の記憶というより、誰かが配った一枚の絵をなぞったような言葉が並んでいた。

背が高い。黒いコート。濡れた髪。古い革の鞄。雨の匂い。冷たい目。

人は、同じものを見ても違う言い方をする。

「あの人、痩せていました」「いや、がっしりしていたと思います」「鞄なんて持っていましたか?」「顔は見ました。でも髪は覚えていません」

普通なら、記憶は少しずつ食い違う。食い違うからこそ、生きている証言になる。

だが、この夜の七号車の証言は、あまりにも整っていた。

まるで乗客全員が、同じ夢を見たかのように。

二 似すぎた証言

三日後、第二の事件が起きた。

名古屋駅十六番線。下りのひかり号から降りた前島涼子という女性が、ホームの端で倒れた。かつて報道番組のディレクターだった彼女は、東京から京都へ向かう途中だった。倒れる直前、彼女はホームの売店でペットボトルの水を買っている。

毒物は、その水ではなく、彼女が口にしていた小さなキャンディから検出された。

目撃証言は、また同じだった。

「黒いコートの男がいました」

「背が高くて、濡れた髪で」

「古い革の鞄を持っていて」

「雨の匂いがするような」

その日は晴れていた。

名古屋の空は高く乾いていて、雨の気配などなかった。それでも、証人の一人は言った。

「雨の匂いがしたんです。変ですけど、そう感じました」

槙野はその言葉を聞いたとき、机の下で拳を握った。

証人は嘘をついているようには見えなかった。怯え、混乱し、何かを思い出そうとして眉間に皺を寄せ、時に自分の言葉に驚くように黙り込む。彼らは善良な人々だった。事件に巻き込まれ、誰かの死を目の前で見て、どうにか警察の役に立とうとしている。

だからこそ、槙野は苦しかった。

嘘なら、まだよかった。嘘には悪意がある。悪意には輪郭がある。剥がせば下に何かが出てくる。

だが、善意の記憶は違う。

人は本気で間違う。誰かを助けたいと願いながら、存在しないものを見たと信じることがある。その事実は、槙野にとって毒より冷たかった。

「また黒いコートの男ですか」

相棒の宮部が、捜査本部のホワイトボードを見ながら言った。まだ三十代前半の若い刑事で、眉が濃く、何事にも真っ直ぐぶつかる性格だった。

「今度は防犯カメラにも映ってます。ほら、ここ」

宮部が映像を止める。

名古屋駅ホームの柱の陰。人波の向こうに、確かに黒い縦長の影がある。コートの裾のようなものが揺れたようにも見える。

「顔は?」

「不鮮明です」

「足元は?」

「人で隠れてます」

「改札記録は?」

「該当者なし。新幹線の指定席にも、似た服装の乗客はいません。自由席も確認中ですが、今のところ決定的な人物は出ていません」

槙野は映像を見つめた。

黒い影は、いるように見える。見れば見るほど、人に見えてくる。

だが、その黒は奇妙だった。

人の黒ではない。温度がない。重さがない。まるで、そこに置かれた影だけが、人間のふりをしているようだった。

「似すぎてる」

槙野は呟いた。

「え?」

「証言が、似すぎてる」

宮部は首を傾げた。

「でも、別々の人が同じことを言ってるんですよ。普通は信憑性が上がるんじゃないですか」

「普通はな」

槙野はホワイトボードの前に立った。

第一の事件。のぞみ三〇八号、七号車。倉田俊明、五十八歳。元検察事務官。

第二の事件。名古屋駅十六番線。前島涼子、五十二歳。元テレビ局報道ディレクター。

二人には、ある古い事件での接点があった。

十五年前、静岡で起きた資産家殺害事件。被告人は久瀬真理子という女性だった。状況証拠は弱かったが、複数の目撃証言が彼女を有罪へ押し上げた。倉田は当時、検察側の調書作成に関わっていた。前島は事件を追う特集番組を作り、世論を大きく動かした。

久瀬真理子は服役中に病死している。だが数年前、別件で逮捕された男が、あの事件への関与をほのめかした。再審請求の準備が始まっていた。

「十五年前も、証言か」

槙野は言った。

「ええ。複数の人間が、久瀬真理子を見たと証言していました」

宮部が資料をめくる。

「『青いスカーフの女』。当時の証言では、全員がそう言っています」

槙野は、胸の奥で何かが沈むのを感じた。

青いスカーフの女。黒いコートの男。

色のついた幻が、時間を越えて誰かを殺している。

三 記憶の匂い

第三の事件は、京都から東京へ向かうのぞみ号のグリーン車で起きた。

被害者は磯貝宗一郎。十五年前の事件で、決定的な目撃証言をした男だった。

彼は静岡駅を過ぎた直後、座席で眠るように死亡した。口元には、車内で配られた試供品のミント菓子が残っていた。毒物はそこから検出された。

そしてまた、黒いコートの男が現れた。

「デッキに立っていました」

「背が高かった」

「濡れた髪で」

「古い革の鞄を持って」

「雨の匂いがしました」

槙野は、聴取室で証言者の手元を見ていた。

五十代の会社員の男だった。彼は両手で紙コップを握り、爪の先を白くしている。

「本当に見たんです」

男は言った。

「刑事さん、信じてください。私は嘘なんかついていません」

その言葉に、槙野はすぐ答えられなかった。

嘘をついていない。それは、おそらく本当だった。

だから槙野は苦しい。

「あなたが嘘をついているとは思っていません」

彼はゆっくりと言った。

「ただ、人の記憶は、嘘をつかなくても間違うことがあります」

男の顔が歪んだ。

「じゃあ、私が見たものは何なんですか」

槙野は答えられなかった。

その夜、槙野は三つの事件の映像を何度も見直した。

列車のデッキ。駅のホーム。グリーン車の通路。

黒い影は、いつも現場の近くにいた。だが、どの映像でも奇妙に曖昧だった。顔がない。足元がない。人とすれ違っているようで、誰ともぶつからない。黒い影の位置にいるはずの人間が、別角度のカメラには映っていない。

槙野は映像を止めた。

グリーン車のデッキ。黒い影が、ドアのガラスに浮かんでいる。

その背後に、広告用の小さな液晶画面があった。

画面には、冬物の紳士服の広告が流れていた。雨の街角に立つ、黒いコートの男。濡れた髪。古い革の鞄。顔は影。そして画面の下には、白い文字が出ていた。

――雨の匂いを纏う。

槙野の呼吸が止まった。

彼は第一の事件の車内映像を巻き戻した。七号車の客室内モニター。倉田が倒れる数分前、同じ広告が流れている。

第二の事件の名古屋駅映像を確認する。ホームの柱のそばにあるデジタルサイネージ。そこにも同じ広告。

槙野は、さらに音声記録を取り寄せた。

第一の事件の直前、車内アナウンスが入っていた。

「お客様にお知らせいたします。黒いコートのお忘れ物が――」

録音は途中で別の案内に重なって途切れていた。だが、言葉は残っていた。

黒いコート。

第三の事件の乗客証言には、奇妙な一致があった。

「近くの席の人が、黒いコートの男のニュースを見ていた」「誰かが電話で、『また黒いコートの男か』と言っていた」「車内ニュースで、前の事件の映像が流れていた」

広告。アナウンス。車内の会話。ニュース映像。

それぞれは小さな刺激だった。誰も意識していない。誰も、それを見たから記憶が作られたとは思わない。

だが、事件という強烈な恐怖が落ちた瞬間、それらの断片は人の頭の中で結びつく。

黒いコート。濡れた髪。革の鞄。雨の匂い。不審者。犯人。

人間の記憶は、空白を嫌う。見えなかった部分を、見たことにして補う。聞いた言葉を、目で見た映像に変える。曖昧な影に、広告の男の顔を貼りつける。

乗客たちは、黒いコートの男を見たのではない。

黒いコートの男を、作り上げていた。

槙野は椅子に深く座り込んだ。

事件のたびに現れた男は、存在しない。存在しないから、捕まらない。存在しないから、どの改札記録にも残らない。存在しないから、すべての乗客が同じように証言できる。

犯人は、人間の記憶の中に逃げ込んでいた。

四 黒を着せる男

黒いコートの広告を制作した会社は、東京の小さな広告代理店だった。

社名は、クロスウィンドウ・メディア。

その会社は、東海道新幹線の車内広告、駅構内のデジタルサイネージ、ニュース配信用の短い映像枠をいくつか請け負っていた。広告の流れる時間を調整し、素材を差し替え、試供品キャンペーンの手配も行う。

担当者の名前は、久瀬悠真。

槙野は、その名前を見た瞬間、十五年前の資料を思い出した。

久瀬真理子の息子。

当時、悠真は十三歳だった。母が逮捕され、家には報道陣が押しかけ、学校では人殺しの子と呼ばれた。父は裁判の途中で自殺し、母は獄中で病死した。

事件記録には、少年だった彼のことはほとんど書かれていない。だが、空白だからといって、そこに痛みがなかったわけではない。

槙野と宮部は、クロスウィンドウ・メディアを訪ねた。

久瀬悠真は、細身の男だった。三十代後半。薄いグレーのジャケットを着て、黒縁の眼鏡をかけている。声は柔らかく、名刺を差し出す手も丁寧だった。

「刑事さんが広告に興味を持たれるとは思いませんでした」

応接室で、久瀬は微笑んだ。

窓の外には、品川の高層ビルが並んでいる。ガラスに映った久瀬の顔は、実物より少し暗く見えた。

「黒いコートの広告は、あなたが作ったものですね」

「ええ。冬のキャンペーンです」

「事件現場の近くで、必ず流れている」

「偶然でしょう。東海道新幹線では、多くの広告が繰り返し流れます」

「試供品のミント菓子も、あなたの会社が手配していますね」

久瀬は一瞬だけ目を伏せた。ほんの一瞬だった。普通なら見逃すほどの、短い影。

「協賛企業の商品です。弊社は配布管理をしているだけです」

槙野は久瀬を見た。

「あなたは、人の記憶に詳しい」

久瀬の笑みが、わずかに深くなった。

「広告の仕事ですから。人が何を見るか、何を覚えるか、それを考えるのが仕事です」

「人は、見たものを覚えるとは限らない」

「ええ」

「覚えたものを、見たと思うこともある」

久瀬は黙った。

応接室の空調が低く唸っている。テーブルの上の水差しに、窓の光が揺れていた。

やがて久瀬は、静かに言った。

「人は見たいものしか見ませんよ、刑事さん」

その声には、憎しみというより、長い年月をかけて冷え固まった確信があった。

「恐ろしい犯人がほしいときは、恐ろしい犯人を見る。正義がほしいときは、正義の顔をした誰かを見る。母の裁判のときもそうでした。皆が見たかったのは犯人です。だから母の顔がそこにはめ込まれた」

「だから殺したのか」

宮部が身を乗り出した。

久瀬は宮部を見なかった。槙野だけを見ていた。

「私は何もしていません。黒いコートの男を探してください。皆さん、見たのでしょう?」

その言葉は、刃物より滑らかだった。

槙野は、久瀬を逮捕できなかった。

状況はある。動機もある。だが決定的な証拠がなかった。

毒入りの試供品がどこで混入されたのか。誰が被害者に渡したのか。防犯カメラに映る黒い影が人間ではないと証明できても、それだけでは久瀬の犯行には届かない。

捜査本部では、焦りが広がっていた。

マスコミは「黒いコートの男」を追い続けた。ワイドショーでは、似顔絵が作られた。背が高く、濡れた髪で、革の鞄を持ち、顔のない男。その似顔絵は、さらに人々の記憶へ入り込んだ。

誰かがネットに書き込んだ。

――東京駅で見た。――新横浜にいた。――名古屋のホームで、黒いコートの男が笑っていた。

黒いコートの男は、存在しないほど増えていった。

槙野は夜ごとに映像を見返した。

嘘ではない証言。本当ではない記憶。信じたい人々。疑わなければならない自分。

刑事という仕事は、ときに人の善意を踏みつける。「見た」と震える声で言う人へ、「本当に?」と問い返さなければならない。それは相手を傷つける。そして、自分の中の何かも傷つける。

それでも槙野は疑った。

疑うことは、信じないことではない。本当にあったものを救い出すために、混じり込んだ夢を取り除くことだ。

そう自分に言い聞かせなければ、前に進めなかった。

五 一人だけ違うものを見た子

四人目の標的は、相良美津子だった。

十五年前の裁判で、久瀬真理子に不利な証言をした最後の人物。彼女は現在、静岡に住んでいたが、再審請求の打ち合わせのため、東京へ向かう予定があった。

槙野たちは列車を張った。

のぞみ二四一号。新大阪発、東京行き。相良は十二号車の普通席に座った。周囲には私服刑事が配置され、車掌にも協力を求めた。車内広告は差し替えられ、黒いコートの広告は流れないはずだった。試供品の配布も停止された。

それでも槙野は安心できなかった。

犯人は広告だけに頼っていない。アナウンス、会話、ニュース、反射、曖昧な映像。人の記憶へ黒を着せる方法はいくらでもある。

列車は京都を出た。雨は降っていなかったが、空は低く、窓の外の雲が銀色の車体をくすませていた。

十二号車には、家族連れがいた。母親と、小学校低学年くらいの男の子。男の子は大きなヘッドホンをつけ、膝の上でスケッチブックに新幹線の絵を描いていた。

槙野は通路を挟んだ席から、相良を見ていた。

相良は小柄な老女だった。手袋を外し、鞄から薬を取り出し、水で飲んだ。十五年前に何を見たのか。今、それをどう思っているのか。槙野にはわからない。

米原を通過したころ、車内のどこかで小さな音声が流れた。

スマートフォンのニュースだった。

「連続殺人事件で目撃されている、通称『黒いコートの男』について――」

槙野は顔を上げた。

すぐ近くの席の男が、慌ててスマートフォンの音量を下げた。

同時に、車内アナウンスが入った。

「お客様にご案内いたします。お忘れ物にはご注意ください。黒いコート、傘、手荷物など――」

槙野の背筋が冷えた。

黒いコート。

誰がその文面を入れた。通常の案内に紛れ込ませたのか。

その直後、前方デッキの自動ドアが開いた。

乗客たちが、一斉にそちらを見た。

窓に黒い影が浮かんだ。

背が高い。濡れた髪。革の鞄。顔は暗い。

車内の空気が凍った。

「いた」

誰かが囁いた。

「黒いコートの男……」

相良美津子が、胸元を押さえた。彼女のテーブルには、小さな白い包みが置かれていた。ミント菓子のように見える。

槙野は立ち上がった。

黒い影を追うべきか。相良を守るべきか。一瞬の迷いが、胸を裂いた。

そのとき、子どもの声がした。

「ちがうよ」

ヘッドホンをつけた男の子だった。

彼はスケッチブックから顔を上げ、前方デッキを指さしていた。

「それ、人じゃないよ」

槙野は動きを止めた。

「何が違う?」

男の子は、少し不思議そうに槙野を見た。

「黒いコートの人は、ガラスの中。テレビの絵が映ってるだけ。足がないもん」

足がない。

槙野はデッキのガラスを見た。

黒い影の下に、床へ落ちる影がない。その向こうの広告画面に、ニュース映像の一部が反射していた。以前の報道で使われた黒いコートの似顔絵が、ドアガラスに重なり、揺れている。

乗客たちはそれを、人間だと思った。

いや、人間にした。

「じゃあ、君は何を見た?」

槙野の声は、自分でも驚くほど静かだった。

男の子はスケッチブックをめくった。

そこには、車内の絵が描かれていた。座席、窓、母親、相良美津子。そして、灰色のジャケットを着た男。

男は通路に立ち、相良のテーブルへ小さな白い包みを置いている。首から青いストラップを下げていた。その先に、小さな鯨のマークが描かれている。

クロスウィンドウ・メディアのロゴ。

「この人が、おばあちゃんにラムネあげた」

男の子は言った。

「左の手で。みんな黒い人を見てたけど、ぼくはこっち見てた。だって、この人、さっきぼくの新幹線の絵を見て笑ったから」

槙野は振り返った。

車両後方へ、灰色のジャケットの男が歩いていた。黒いコートではない。濡れた髪でもない。革の鞄も持っていない。

ただ、青いストラップを首から下げている。

久瀬悠真だった。

「久瀬!」

槙野が叫ぶ。

久瀬は走った。デッキのドアが開く。揺れる連結部。車内の悲鳴。宮部が後方から飛び出し、久瀬の腕を掴んだ。久瀬は身を捩ったが、槙野が肩からぶつかり、三人はデッキの壁に激しく当たった。

床に、白い包みが散らばった。

ミント菓子。そのうちのいくつかには、微量の毒物が仕込まれていた。

久瀬は、押さえつけられながら笑った。

「惜しかったですね」

槙野は久瀬の手首に手錠をかけた。

「惜しかったのは、お前だ」

久瀬の笑みが消えた。

槙野は、男の子のスケッチブックを見た。灰色のジャケット。青いストラップ。左手。鯨のマーク。黒いコートの男の幻を破壊するには、それで十分だった。

一人だけ違うものを見ていた子ども。

その証言が、乗客全員の同じ夢を壊した。

六 見たいものしか見ない

久瀬悠真の取り調べは、静かに始まった。

彼は最初、何も語らなかった。だが押収されたパソコンには、広告の放映時間を細かく操作した記録が残っていた。車内アナウンスの文面に「黒いコート」という言葉を紛れ込ませた履歴もあった。事件当日の防犯映像を解析すると、黒い影はすべて広告やニュース映像の反射であり、実体のある人物ではないと判明した。

さらに、試供品のミント菓子から検出された毒物と、久瀬の作業用ロッカーに残っていた薬品が一致した。

逃げ道はなかった。

それでも久瀬は、しばらく笑っていた。

「皆、見たでしょう」

取調室で、久瀬は言った。

「黒いコートの男を。刑事さん、あなたも一瞬見たんじゃないですか」

槙野は答えなかった。

確かに、見た。あの瞬間、黒い影を人間だと思った。自分だけは違う、とは言えなかった。

久瀬は、それを見抜いたように微笑んだ。

「人は見たいものしか見ない。怖い犯人が欲しければ、黒いコートの男を見る。わかりやすい悪が欲しければ、顔のない怪物を作る。母のときも同じでした」

彼の声は、だんだん低くなった。

「母は殺していない。けれど皆が『青いスカーフの女を見た』と言った。テレビが流した似顔絵、近所の噂、警察の質問。全部が混ざって、母の顔になった。あの人たちは善良でしたよ。きっと本気で信じていた。だから余計に許せなかった」

「だから、お前は同じことをしたのか」

槙野は言った。

「人の記憶を利用して、人を殺した」

久瀬の目に、初めて怒りが灯った。

「証明しただけです。人間なんて、その程度だと」

「違う」

「違わない。乗客全員が同じ夢を見た。私が作った夢を、全員が真実だと言った」

槙野は、男の子のスケッチブックを思い出した。

足のない黒い影。灰色のジャケット。青い鯨のストラップ。左手で置かれた白い包み。

「全員じゃない」

久瀬の表情がわずかに歪んだ。

「一人だけ、違うものを見ていた」

「子どもの偶然です」

「偶然でも、見たものは見たものだ」

槙野は身を乗り出した。

「人は見たいものしか見ない。そうかもしれない。だが、人は見直すこともできる。間違えた記憶を疑い、もう一度見ることができる。お前の母親の事件も、だから再審の道が開いた。遅すぎたとしても、それは人間が完全に終わっていない証拠だ」

久瀬は黙った。

取調室の蛍光灯が、白く冷たい光を落としていた。その光の下で、久瀬の顔は急に疲れて見えた。

「信じたかったんですか」

彼は言った。

「人間を」

槙野は少しだけ目を伏せた。

信じたかった。証言者の震える声を。誰かを助けたいという善意を。見たと言う人の涙を。

だが、信じることと、疑わないことは違う。

「信じたいから、疑うんだ」

槙野は言った。

「本当にあったものを、夢に埋もれさせないために」

久瀬は笑わなかった。

ただ、長い沈黙のあとで、顔を背けた。

七 夢のあと

事件が終わっても、黒いコートの男を見た人々の記憶がすぐ消えるわけではなかった。

ある乗客は、今でも夢に見ると言った。デッキに立つ黒い影。濡れた髪。革の鞄。雨の匂い。

「私は本当に見た気がするんです」

その人は、槙野にそう言った。

槙野は否定しなかった。

「気がする、という感覚も本物です」

彼は答えた。

「ただ、その感覚が指しているものが、実在した人間とは限らない」

相手は泣いた。自分の記憶に裏切られたようで悔しい、と言った。

槙野は、その涙を責められなかった。

人の記憶は、写真ではない。光を焼きつけて保存する板ではない。むしろそれは、何度も書き直される手紙に似ている。恐怖が一文を書き足し、噂が余白を埋め、善意が宛名を間違える。

それでも、人は記憶なしには生きられない。だから刑事は、その手紙を破り捨てるのではなく、滲んだ文字を一つずつ読み分けなければならない。

数週間後、槙野は東京駅のホームに立っていた。

東海道新幹線が入線する。銀色の車体が、朝の光を受けて滑り込んでくる。雨は降っていなかった。空は薄い青で、遠くに雲が白く伸びている。

車内広告から、黒いコートの男は消えていた。

代わりに映っていたのは、春の海だった。淡い波。白い灯台。風に揺れる草。

槙野は、ふと窓ガラスに映る自分の姿を見た。

くたびれたスーツ。少し伸びた髪。眠れていない目。そこに一瞬、黒い影が重なった気がした。

だが次の瞬間、列車のドアが開き、人々が降りてきた。

出張帰りの会社員。修学旅行の生徒。小さな子どもを抱いた母親。大きな荷物を持つ老夫婦。

誰もが、それぞれの記憶を抱えて歩いている。正しいものも、間違ったものも、忘れたいものも、忘れてはいけないものも。

槙野は目を閉じ、もう一度開いた。

黒いコートの男はいなかった。

ただ朝のホームに、人々の足音があった。その音だけは、確かに現実のものだった。

 
 
 

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