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朝の柱時計は、まだ暗い音を抱えていた。 居間の壁で、振り子が動く前の静けさ。 木の箱の中に、昨日の夜が少しだけ残っている。

 幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 袋の中には、小さな歯車。 壊れた目覚まし時計から、父が外してくれたもの。 ぎざぎざしている。 ぎざぎざなのに、布に包むと刺さらない。 刺さらないぎざぎざは、時を少しずつ送る。

 ――いき。

 息を入れると、胸の中にも小さな振り子が揺れる。 急ぎすぎない。 止まりきらない。 右へ、左へ。 揺れるための“ま”を持っている。

 「まちばこ」のふたが、ほんの少しだけ浮いていた。 浮いているのは、誰かの困りが入った印。 困りは、言う前に焦るから、箱でいったん座らせる。

 母がふたを開ける。 中には、小さな紙。 角が丸く折ってある。 丸い角は刺さらない。 刺さらないと、手が取れる。

 母の目が、紙の文字を追って、そこで止まった。

てら の とけいおそくなって こわいかね の じかん ずれるよかったら みてください おおいし

 寺の時計。 時計が遅れると、鐘の時も遅れる。 鐘の時が遅れると、畑へ出る時も、学校へ行く時も、胸の中で少しずつずれる。 少しのずれは、小さい。 小さいのに、積もると焦りになる。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、大石さんの“こわい”が届いた音。 時がずれる怖さ。 急げと言われていないのに、胸だけ急ぐ怖さ。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父が土間から顔を出した。 紙を受け取る前に、いったん膝の上の布に置く。 置くと、手が急がない。 父は指の腹で紙の端を撫でた。 撫でると、紙が暴れない。 暴れないと、言葉も急がない。

 父の目が「とけい」「おそく」で止まる。 止まると、肩がふっと上がりかける。

 上がりかけて――止まった。

 止まった「間」に、父は懐へ触れて、丸い角のま札を撫でた。 撫でると、肩が上がりきらない。

 ふう……。

「……時計か」

 短い。 短いのに、針の道が入っている。

 母が頷いた。

「うん。……時がずれると、人の胸もずれるだに。直せるなら、針を落ち着かせりゃええ」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「時は急がすな。……急がせると歯が欠ける。……時にも油が要る」

 油。 ぎざぎざが、噛み合うための油。 人の胸にも、噛み合うための“ま”がいる。

 父が納屋から小さな油差しと、柔らかい布と、細い竹串を出してきた。 油差しは軽い。 軽いのに、中の一滴が仕事をする。 一滴。 多すぎると汚れる。 少なすぎると軋む。 ちょうどいい一滴。

「……みき坊。……時計は揺らすな。……支えるだけだ。……受ける手」

 受ける手。 受ける手は、時を押しこまない手。

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん」

 寺へ向かう道は、朝の影がまだ石垣の下に残っていた。 蝉は鳴きはじめる前で、空気が薄く張っている。 張った空気は、鐘の音を待っているみたいだった。

 寺の門をくぐると、線香の古い匂いがした。 畳の湿り。 木魚の丸い沈黙。 庭の砂利の白。 寺は、音を急がせない場所。

 大石のおじさんが、本堂の横で待っていた。 頬が少しこわばっている。 こわばりは、声より先に顔に出る。

「おはようだに……朝からすまん。……この時計がな、近ごろ遅れて……」

 本堂の壁に、柱時計があった。 長い箱。 古い木目。 ガラスの向こうに、白い文字盤。 針は、少し下を向いているように見えた。 疲れた針。

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父はすぐ「ええよ」と切らなかった。 まず、時計を見る。 針の位置。 振り子の揺れ。 箱の傾き。 見ると、怖さが形になる。 形になると、手が荒れない。

 かち……。 かち……。

 音が遠い。 遠い音は、時が後ろを歩いている音。

 父の肩がふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。

 止まった「間」に、父が口の中で言った。

「……遅れだ」

 名前を置く。 置けると、ずれが全部にならない。

 ふう……。

 父は時計をいきなり開けない。 まず、箱の横を指の腹でそっと撫でる。 撫でると、木が怒らない。 古いものは、急に触ると驚く。

「……少し傾いてる」

 傾き。 家も、板も、船も、胸も。 少し傾くと、動くものが疲れる。

 大石のおじさんが小さく言った。

「……鐘の時がずれると、村の人が困るで……」

 父はすぐ慰めない。 慰めは押しこむと刺さる。 一度、時計の下の扉を開けた。

 ぎ……。

 小さい軋み。 小さいのに、胸の硬いところを起こしやすい。 父の肩が、ふっと上がりかける。

 上がりかけて――止まる。

 止まった「間」に、幹夫は小さく言った。

「……ま」

 父が、ふう、と吐いた。

 ふう……。

「……ま」

 父も言えた。 言えると、扉の軋みが軋みのままで座る。

 振り子が見えた。 細い金の棒。 下に丸い重り。 ゆっくり揺れている。 右へ。 左へ。 でも、少し息が浅い。

 父は振り子を止めない。 指を近づけて、揺れの幅を見るだけ。 止めると、時が全部止まってしまう日がある。

「……揺れが浅い。……油も切れてる」

 切れてる。 油が切れると、ぎざぎざが互いに刺さる。 刺さると、時が遅れる。

 父が油差しを持った。 でも、すぐ差さない。 一度、竹串の先につけて、余分を布で落とす。 落とすと、一滴だけが残る。

「……みき坊。……ここ見ろ。……一滴だ。……時は、多すぎても汚れる」

 一滴。 少しの助け。 少しの油。 少しの“ま”。

 ――いき。

 父は歯車の軸に、一滴を置いた。 置く。 入れるんじゃない。 押しこむんじゃない。 ただ、置く。

 小さな光が、軸のところに座った。 油の光。 時の光。

 かち。 かち。

 音が、少し前へ出た。 さっきより、丸い。 丸い音は刺さらない。

 父は時計の箱を、壁に対して少しだけ直した。 右へ、ほんの少し。 少し動かすと、振り子の揺れが深くなった。

 かち。 こち。 かち。 こち。

 “こち”が戻ってきた。 片方だけじゃない音。 右と左が、ちゃんと返事をする音。

 大石のおじさんの肩が、すとん、と落ちた。

「……時が、戻ったみたいだ」

 戻った。 時は戻らない。 でも、音は戻ることがある。 戻る音があると、胸が今日へ帰ってくる。

 父はすぐ「直った」と言わなかった。 まず、耳を澄ます。 鐘の前の静けさ。 柱時計のかち、こち。 それから頷いた。

「……しばらく、見よう。……急に合わさん。……時は、少しずつ合わせる」

 少しずつ。 時計も、人の胸も。 急に合わせると、針が折れる。

 やがて、寺の鐘の時が来た。 大石のおじさんが鐘楼へ向かった。 父と幹夫は、少し離れて立った。 鐘の音は大きい。 大きい音は、胸に刺さることがある。 刺さる前に、息。

 ――いき。

 ごおん……。

 鐘が鳴った。 音は大きい。 でも、急がない。 山へ行って、海へ行って、家々の屋根を撫でて戻ってくる。 戻ってくる音は、刺さらない。

 父の肩が少し上がりかける。 上がりかけて――止まる。

 止まった「間」に、父は小さく吐いた。

 ふう……。

 幹夫も、袋の歯車を掌で押さえた。

 ――いき。

 鐘の音が消えたあと、町の中に小さな動きが戻った。 戸を開ける音。 箒を持つ音。 遠くで子どもが走り出す音。 時が合うと、人の音が重なりすぎない。

 大石のおじさんが、ぽつりと言った。

「……助かった。……鐘は、みんなの腹に入るでな」

 父は短く頷いた。

「……うん。……腹に入る音は、急がせんほうがいい」

 急がせない音。 それが、時のいい音。

 学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、線の角を立てやすい。 先生が黒板に、大きく字を書いた。

 時

 きゅっ、きゅっ。

「今日は“とき”の時。読めるな」

 教室が声を出す。

「とき!」

 声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端に指を置いて、“ここ”を作った。

 ――いき。

 先生が左を指でなぞった。

「左は日だ。太陽だ。朝が来て、昼が来て、夕方が来る。日が動くから、時が分かる」

 日。 朝の光。 寺の庭の砂利。 時計の文字盤の白。

 先生が右を指でなぞった。

「右は寺だ。音を助けるところでもある。寺には鐘があるだろ。昔から、鐘で時を知らせた。――日と寺で、時を覚えてもいい」

 日と寺。 朝の寺。 鐘の時。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。

 ――いき。

 先生は懐中時計を教卓に置いた。 とん。 小さい音。 小さい音は眠る。

「時はな、追いかけると逃げる。急かすと乱れる。――でも、置いて、耳を澄ますと、かち、こち、と戻ってくる」

 置く。 油を置く。 言葉を置く。 息を置く。 全部、同じ道。

 先生は少し声を落として言った。

「大事なのは、時を守ることだ。守るってのは、急がせることじゃない。遅れたものを叱ることでもない。――合うところまで、少しずつ支えることだ」

 少しずつ支える。 朝の一滴。 箱の傾き。 振り子の深い揺れ。

 休み時間、正夫が小声で言った。

「みきぼー、今日、寺の時計なおした?」

 幹夫はすぐ答えず、息を入れてから言った。

 ――いき。

「……油、一滴。……箱、少し……まっすぐ。……鐘の時、合った」

 正夫が目を丸くする。

「一滴で時が戻るのか!」

 幹夫は小さく頷いた。 頷く前に、息。

 ――いき。

「……たくさんじゃない。……一滴」

 正夫がにっと笑った。

「一滴って、強いな!」

 強い。 でも、押さない強さ。 そこに座るだけの強さ。

 夕方。 家の中に煮物の匂いが戻ってきたころ、母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目。 でも痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 時

 幹夫はその字を見た瞬間、寺の鐘と、時計の一滴と、先生の懐中時計が一緒に浮かんだ。 浮かぶと、胸がぽん、と鳴る。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 母が左をなぞった。

「ここ、日だに。……お日さま。朝昼晩を作る」

 母が右をなぞった。

「こっちは寺だに。……寺の鐘。人に時を知らせる音」

 父が縁側の端で、ま札を撫でてぽつりと言った。

「……俺、時がずれると……焦る」

 母は否定しない。 低く言う。

「うん。……焦るだに。焦ると、針を無理に動かしたくなる。……でも、無理に動かすと折れる。時は、息を入れて合わせる」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「時は飯と同じだ。……煮える前に食うな。……煮えすぎても焦げる。……頃合いだ」

 頃合い。 時の中の“ま”。 ちょうどいいところ。

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……今日、油を多く差しそうになった。……みき坊の顔見たら……一滴にできた。……助かった」

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 幹夫は鉛筆を握った。 時を書く。

 一回目の「時」は、日が小さく押しつぶれて、寺が大きくなりすぎた。 字の中で、鐘だけが急いでいる顔になった。

「ええ」

 母が言った。 転んでもいい「ええ」。

「急ぎそうならな……日を座らせろ。寺の音も、日があってこそだに。……息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「時」は、日が四角く座って、寺の線が静かに並んだ。 日と寺のあいだに、細い余地がある。 その余地が、時を時にした。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「時」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点の前で、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……点を置く時が……あるんだな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……置く時を待てりゃ、刺さらん」

 夜更け。 家の柱時計が、かち、こち、と鳴っていた。 昼の寺の時計より小さい。 でも、小さい音も家の時を作る。

 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。

けさ てら の とけいおそくて こわいかね の じかん ずれるゆさぶらんあぶら いってきはこ すこし なおしたかち こち もどった時 は 日 と 寺おれ の むね も いそぐでも いき して ま していってき で いいいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……待つのも……こわい日がある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも……待つ時があると……折れない」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……待つ時、って……好きだ」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「好きって言えりゃ、時が座るだに。……時は奪うもんじゃない。置いて、合わせて、続けるもんだに」

 祖母が淡々と言う。

「続きゃ飯がうまい。……うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 明日も時が来る。 急がなくても、朝は来る。

 翌朝。 まちばこのふたは、畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。 小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、二つと、ひとつ。

 一枚目、大石さんの字。

てら の とけいかち こち いってるかね の とき あったむね が あせらんありがとう

 最後に、小さな丸。

 二枚目、母の字。

時 は 日 と 寺ひ を みてかね を きいていき して あわせろいそぐな うん

 最後に、丸。

 三つ目は、紙じゃなく――小さな油差しの空の栓。 黒くて、丸い。 指で撫でると、少し油の匂いが残っている。 その横に、父の震える字で小さく、

いってき

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその栓を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 時。 日が進み、寺の鐘が鳴り、人の胸に届くもの。 急がせるものじゃない。 叱るものでもない。 ずれたら、少し見る。 少し支える。 一滴を置く。 待つ。 そうすると、かち、こち、と、胸の振り子も戻ってくる。

 蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど寺の鐘は届く。 その鐘が鳴る前に、父の「ふう」と、幹夫の「ま」と、油の一滴は届いた。 届いた“少しの時”が、針も胸も折らせなかった。

 幹夫は栓を袋へ戻し、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 今日も、時の字みたいに。 日を見て、鐘を聞いて、急がず、待ちすぎず――そっと胸の中へ、かち、こち、と続く静けさを座らせていった。

 
 
 

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