浜
- 山崎行政書士事務所
- 3 時間前
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朝の浜は、まだ夜の潮を抱えていた。 砂の上に、波の細い筋が残っている。 寄せて、引いて、残した線。 線は消えかけているのに、ちゃんと海の通ったあとを知らせていた。
幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 袋の中には、小さな砂。 昨日、浜で拾って、母が紙に包んでくれた砂。 さらさら。 さらさらなのに、貝の欠けらが少し混じっている。 混じると、きれいな砂も刺さる日がある。
――いき。
息を入れると、胸の中にも小さな浜ができる。 海でもない。 陸でもない。 濡れて、乾いて、また濡れる場所。 受けて、返して、残す場所。
「まちばこ」のふたが、ほんの少しだけ浮いていた。 浮いているのは、誰かの困りが入った印。 困りは、言う前に角が立つから、箱で丸くする。
母がふたを開ける。 中には、小さな紙。 角が丸く折ってある。 丸い角は刺さらない。 刺さらないと、手が取れる。
母の目が、紙の文字を追って、そこで止まった。
はま の すなわれた びん まじって こわいこども はだし で くるよかったら みてください まつだ
割れた瓶。 砂に混じると、見えにくい。 見えにくいものが刺さるのは、胸にいちばん来る。 浜はやわらかい場所なのに、そこに硬い欠けらが隠れると、足も心も急に固くなる。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、松田さんの“こわい”が届いた音。 子どもの裸足。 やわらかい足。 そこへ刺さる前の怖さ。
鳴ったから、息。
――いき。
父が土間から顔を出した。 紙を受け取る前に、いったん膝の上の布に置く。 置くと、手が急がない。 父は指の腹で紙の端を撫でる。 撫でると、紙が暴れない。 暴れないと、言葉も暴れない。
父の目が「はま」「われた」で止まる。 止まると、肩がふっと上がりかける。
上がりかけて――止まった。
止まった「間」に、父は懐へ触れて、丸い角のま札を撫でた。 撫でると、肩が上がりきらない。
ふう……。
「……浜か」
短い。 短いのに、波の音が入っている。
母が頷いた。
「うん。……浜は受けるだに。海から来るもん、みんな受ける。……でも、刺さるもんは拾ってやらんと」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「浜は境目だ。……境目は、良いもんも悪いもんも溜まる。……溜まる前に、ならせ」
ならせ。 砂をならす。 胸をならす。 尖りを見つけて、丸い場所を戻す。
父が納屋から竹の熊手と、古い篩(ふるい)と、厚い布を出してきた。 熊手の先は細い。 細いのに、砂の中を探せる。 篩は、砂を落として、硬いものだけ残す。 残すために、落とす道具。
「……みき坊。……篩を持て。……振りすぎるな。……受ける手だ」
受ける手。 受ける手は、砂を怒らせない手。
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん」
浜へ下る道は、潮の匂いが濃かった。 塩の匂い。 乾いた海藻の匂い。 昨日の波が置いていった匂い。 坂を下りるほど、空が広くなる。 広くなると、胸も少し広がる。 でも広がりすぎると、怖さも一緒に入ってくる。
松田のおばさんが、浜の端に立っていた。 頬が少しこわばっている。 こわばりは、声より先に顔に出る。
「おはようだに……朝からすまんね。……ここらに、きらって光るもんがあって……」
きら。 光るものは、美しい。 でも、割れた瓶の光は、刺す光。 美しいと怖いが、浜では同じ砂の上に座る日がある。
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
父はすぐ「ええよ」と切らなかった。 まず、砂を見る。 濡れた線。 乾いた線。 小さな貝殻。 黒い木片。 それから、朝の光を受けて、少しだけ鋭く光るもの。
父の肩がふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。
止まった「間」に、父が口の中で言った。
「……硝子(がらす)だ」
名前を置く。 置けると、光の怖さが全部にならない。
ふう……。
父は、いきなり手で拾わない。 厚い布を砂の上に広げる。 広げてから、熊手で砂をそっと寄せる。 寄せるけれど、掻きむしらない。 掻きむしると、欠けらが深く潜る日がある。
「……浜は、急ぐと隠す。……ゆっくりなら、出す」
出す。 砂の中から出す。 胸の中から出す。 出せると、刺さる前に助かる。
父が熊手で、砂を一すくい寄せた。
「……みき坊。……篩、ここ」
ここ。 線の言葉。 守りの言葉。
幹夫は篩を両手で持った。 掴みこまない。 腕を固くしない。 受ける手で、砂を受ける。
――いき。
父が砂を篩へ入れる。 ざら。
幹夫はゆっくり揺らした。 しゃ。 しゃ。
砂が落ちる。 落ちる音は小さい。 小さいのに、胸の奥をくすぐる。 落ちた砂は、また浜へ戻る。 戻っても、刺さらない。
篩の上に、貝殻と、小石と、青い硝子の欠けらが残った。 青い。 青いのに、端が鋭い。 青は静かな色なのに、今日は刺す顔をしている。
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
父は青い欠けらを、布でつまんだ。 指でつままない。 布が間に入ると、刺さりが手まで来ない。
「……きれいでも、刺さるもんはある」
父の声は低かった。 低い声は、砂に座る。
松田のおばさんが、小さく言った。
「……子ら、きれいだって拾いたがるで……」
父はすぐ「拾うな」と尖らせない。 一度、青い欠けらを布の上に置いた。 置くと、言葉も置ける。
「……拾うなら、布で拾う。……足では踏まん。……見る線を作る」
見る線。 守りの線。 浜は広いから、線が要る。
父は竹の棒を二本、砂に差した。 その間へ縄を低く張る。 低い縄は、止めるためじゃない。 「ここから向こうは、まだ探していない」と知らせるため。
「……子どもは、こっち。……向こうは、あとで」
ここまで。 守りの言葉。 押しこまない境目。
松田のおばさんの肩が少し落ちた。
「……線があると、ほっとするだね」
父が短く頷いた。
「……うん。……浜は広いで。……広いと、胸が迷う」
広いと迷う。 迷うと、足が急ぐ。 急ぐ前に、線。 急ぐ前に、息。
――いき。
何度も砂を篩にかけた。 しゃ。 しゃ。 砂が落ちる。 貝が残る。 小石が残る。 硝子が残る。
残ったものを、父がひとつずつ布へ移す。 丸い貝は、浜へ戻す。 角のある硝子は、瓶の中へ入れる。 錆びた釘も、一本あった。 釘は赤茶色で、砂の色に似ている。 似ているから怖い。
父の肩がふっと上がりかける。 釘の先が布を突きそうになる。
上がりかけて――止まる。
止まった「間」に、幹夫は小さく言った。
「……ま」
父が、ふう、と吐いた。
ふう……。
「……ま」
父も言えた。 言えると、釘が釘のままで座る。 怖さが、全部にならない。
やがて、砂の上に足跡が一つできた。 松田のおばさんが、恐る恐る裸足で踏んだ。 踏む前に、父が言った。
「……ゆっくり」
ゆっくり。 足も、胸も。
おばさんの足が砂に沈む。 ぎゅ。 沈むのに、刺さらない。 刺さらない沈みは、安心の沈み。
松田のおばさんの肩が、すとん、と落ちた。
「……痛くない」
痛くない。 その言葉が、浜の空気を少しだけ温めた。
父はすぐ「よかった」と急がない。 頷いてから、言葉を置いた。
「……うん。……刺さる前でよかった」
“前でよかった”。 祖母の言う“前”。 足が切れる前。 胸が荒れる前。 浜が怖い場所になる前。
松田のおばさんが、布の上の硝子を見て言った。
「……こんなにあっただね。……見えんかった」
父が短く答える。
「……見えんもんは、篩にかける」
幹夫は、その言葉を胸の中で転がした。 見えない怖さも、篩にかけられるのかもしれない。 砂を落として、残ったものに名前を置く。 名前を置くと、怖さが全部にならない。
――いき。
学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、線の角を立てやすい。 先生が黒板に、大きく字を書いた。
浜
きゅっ、きゅっ。
「今日は“はま”の浜。読めるな」
教室が声を出す。
「はま!」
声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端に指を置いて、“ここ”を作った。
――いき。
先生が左を指でなぞった。
「左は水だ。さんずい。――水がある」
先生が右を指でなぞった。
「右は兵の形だ。これは形として覚えればいい。浜には昔から、人が集まる。漁の道具を持つ人、船を上げる人、荷を運ぶ人。――水のそばに、人の手が集まる場所が浜だ」
人の手が集まる場所。 今朝の熊手。 篩。 布。 松田さんの足。 浜は、ただの砂じゃない。 海と人の手が会う場所。
先生は少し声を落として言った。
「浜はな、海でもなく、陸でもない。あいだだ。あいだには、いろんなものが打ち上がる。貝も、木も、時には危ないものも。――だから浜は、受けて、選んで、戻す場所だ」
受けて、選んで、戻す。 砂を篩にかける手。 丸い貝は戻す。 刺さる硝子は包む。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。
鳴ったから、息。
――いき。
先生が続けた。
「心も浜に似ている。人の言葉が打ち上がる。うれしい言葉も、怖い言葉も来る。全部を踏むな。息をして、間を置いて、篩にかけろ。――残った刺さるものには、名前をつけて、布に包め」
布に包め。 父の手。 青い硝子。 刺さるものを、刺さらない形にする手。
休み時間、正夫が小声で言った。
「みきぼー、今日、浜を掃除した?」
幹夫はすぐ答えず、息を入れてから言った。
――いき。
「……砂に……硝子、混じってた。……篩で……出した」
正夫が目を丸くする。
「砂って、見ただけじゃ分かんないもんな」
幹夫は小さく頷いた。 頷く前に、息。
――いき。
「……見えんものは……ゆっくり落とす」
正夫が、ふっと真面目な顔になった。
「ゆっくり落とす、か。……なんか、浜っぽいな」
夕方。 家の中に煮物の匂いが戻ってきたころ、母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目。 でも痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
浜
幹夫はその字を見た瞬間、朝の砂のしゃ、しゃと、青い硝子の光と、松田さんの“痛くない”が一緒に浮かんだ。 浮かぶと、胸がぽん、と鳴る。 鳴ったから、息。
――いき。
母が左をなぞった。
「ここ、水だに。……海の水」
母が右をなぞった。
「こっちは、人の手が集まる形に見ればええだに。……浜は水だけじゃない。人が来て、船を上げて、網を干して、子が走る。水と人のあいだだに」
水と人のあいだ。 それが浜。 あいだは、いつも“ま”を持っている。
父が縁側の端で、ま札を撫でてぽつりと言った。
「……浜は、何でも受ける」
母は否定しない。 低く言う。
「うん。……何でも受けるだに。だから、選ばにゃいかん。受けるだけだと、刺さるものも溜まる」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「受けたら、ならせ。……ならして、篩にかけろ。……腹も同じだ」
腹も同じ。 胸の浜。 そこへ打ち上がる言葉。 うれしいものも、怖いものも、混じっている。
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……今日、青い硝子……きれいだった。……きれいなのに、刺さる。……俺、急いで拾いそうになった」
母が頷いた。
「うん。……きれいでも、布が要る日があるだに」
父は、幹夫の方を見て言った。
「……みき坊の『ま』で……布を思い出した。……助かった」
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
幹夫は鉛筆を握った。 浜を書く。
一回目の「浜」は、さんずいの点が強く跳ねて、右の形が詰まった。 詰まった字は、砂の中に硝子が隠れているみたいに見えた。
「ええ」
母が言った。 転んでもいい「ええ」。
「詰まりそうならな……水と人のあいだを残せ。浜は、あいだの場所だに。……息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「浜」は、さんずいが静かに落ちて、右の線の中に小さな余地ができた。 余地があると、砂が見える。 砂が見えると、浜になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「浜」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点の前で、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、点を置いた。
「……点、落とすと……砂みたいだな」
母が小さく頷いた。
「うん。……落ちても、座れば砂だに」
夜更け。 海の音が遠く、家の奥まで来ていた。 寄せて、返して。 寄せて、返して。 その音は、昼の浜の砂を思い出させた。
父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。
けさ まつだ の はますな に びん の かけらこども はだし こわいくまで と ふるいすな は おちたがらす は のこったのこった もの に なまえぬの で つつんだ浜 は うみ と ひと の あいだおれ の むね も はまいき して ま して ふるい に かけるいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……受けるのも……こわい日がある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも……選べば……刺さらない」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……選ぶ、って……浜だな」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「好きって言えりゃ、浜が座るだに。……浜は、受けるだけじゃない。返す。包む。ならす。そうして、また子どもが走れる」
祖母が淡々と言う。
「子どもが走れりゃ飯がうまい。……うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 浜に足跡が戻る明日。 刺さらない砂の明日。
翌朝。 まちばこのふたは、畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。 小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、二つと、ひとつ。
一枚目、松田さんの字。
こども はだし で はしったいたくないはま の すな こわくないありがとう
最後に、小さな丸。
二枚目、母の字。
浜 は うみ と ひと の あいだうけて えらんで ならせいき して ま を いれろ うん
最後に、丸。
三つ目は、紙じゃなく――小さな白い貝殻。 昨日、篩に残ったもののひとつ。 角が波で丸くなっている。 丸いから、浜へ戻してよかった貝。 貝の横に、父の震える字で小さく、
あいだ
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその貝を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
浜。 海でもなく、陸でもない。 水と人のあいだ。 寄せるものを受け、返すものを返し、刺さるものを布に包み、砂をならす場所。 見えない欠けらは、ゆっくり篩にかける。 砂を落として、残ったものに名前を置く。 名前を置けば、怖さは全部にならない。
蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど浜の砂に隠れた小さな尖りは届く。 その尖りの前に、父の「ふう」と、幹夫の「ま」と、篩のしゃ、しゃは届いた。 届いた“あいだの手”が、浜も胸も刺さらせなかった。
幹夫は貝を袋へ戻し、口の中で小さく言った。
――いき。
今日も、浜の字みたいに。 受けて、選んで、ならして――子どもが裸足で走れる静けさを、そっと胸の中に座らせていった。





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