与の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月19日
- 読了時間: 11分

朝の台所は、干物の匂いがいちばん先に起きていた。 火にかけた鍋の湯気より先に、あの、海と塩と日なたの匂い。
幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
ちゃぶ台の上に、清水屋のおばさんから受け取った“端っこ”が並んでいる。 端っこなのに、きらっと小さく光る。 小さな光は、少しだけ「もったいない」を連れてくる。
母が、欠けた椀――今は塩の皿――から指先で塩をつまんだ。 つまむ指が、急がない。 急がない指は、刺さらない。
「これな、ちょっとだけ塩して焼く。……でな」
母は干物を見ながら、声を落とした。
「平田さんとこにも、少し持ってくかね」
平田。 回覧板の最後に名前があった家。 “最後”って言葉は、なんでも少しだけ重くする。
幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったのは、うれしさと不安の混ざった音。 混ざった音は走りやすい。
走る前に、息。
――いき。
父が縁側の端で、袖口の返し縫いを指でなぞっていた。 父の目が干物に落ちて、そこで止まる。 止まると、肩がふっと上がりかける。
上がりかけて――止まった。
止まった「間」に、父が懐のま札を撫でた。
ふう……。
「……うちも……少ない」
小さい声。 でも言えた声。 言うと、胸の中の“固いところ”が形になる。
母は否定しない。 干物の匂いの中で、低く言った。
「うん。少ない。……だからこそ、端っこだに。端っこは、ちょっとだけ“余地”を作れる」
余地。 結び目のま。 線のここまで。 胸の逃げ道。
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「端っこ与えりゃ、腹は荒れん。……溜めると荒れる」
溜めると荒れる。 荒れると手が切れる。 祖母の言葉は、太い道。
父は、干物から目を離して、幹夫を見た。 見る目が遠くへ行かない。 今ここで見る目。
「……みき坊。……どう思う」
どう思う。 聞かれると、胸が小さく跳ねる。 跳ねる前に息。
――いき。
幹夫は、言葉を急がないで、胸の中にいったん置いてから言った。
「……少しなら……いいと思う。……端っこ、で」
“端っこ”って自分で言った瞬間、喉の奥が熱くなった。 熱いのは、端っこを小さく見ないようにしたいから。 端っこにも、匂いがある。光がある。
父が、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……よし。……少し、だな」
よし。 吉の匂い。 よし、が出ると、家の中が少し明るい。
母は干物を二つに分けなかった。 引き裂くと、切れる音がする。 切れる音は、胸に刺さる。
母は端から、ほんの少しだけを“外して”取った。 外す、はほどくみたいだ。 ほどくと、切れない。
「これくらい。……押しつけんで、置いてくるだに」
母は小さな紙に包んだ。 角を丸く折る。 丸い角は刺さらない。
幹夫の胸の奥がぽん、と鳴って、言葉が先に出そうになった。
「……ぼく、持ってく」
言ってしまってから、熱が走りそうになったから、息。
――いき。
父が、短く頷いた。
「……行けるなら、行け。……でも“与える”は……押すな」
与える。 父の口から出た、その言葉が、少しだけ硬く響いた。 硬いのに、やさしい。
母が包みを、いきなり渡さず、置き布の上にそっと置く。
「掴まんで。受ける手だに。……与えるときも、受ける手で渡すんだに」
与えるときも、受ける手。 幹夫は包みを両手で受けて、胸の前に置いた。 置くと、気持ちも座る。
――いき。
「いってきます」
「いってらっしゃい。……ここまで、守れ。……返されたら、受け取れ。拒むな」
母の声は、線だった。
平田さんの家は、回覧板の最後の名前みたいに、道のいちばん端のほうにあった。 端は、静かだ。 静かな端は、胸が少しだけ耳になる。
――いき。
戸口の前で、幹夫は包みを足元の平たい石にいったん置いた。 置くと、手が空になる。 空の手は、丁寧になる。
とん、とん。
戸の向こうで、足音。 少し遅れて、かすれた声。
「はい……」
戸が少し開いて、平田のおばさんが顔を出した。 顔が出ると、門の中に光が入る。 でもその光が、今日は少し疲れて見えた。 疲れは、声より先に頬に出る。
幹夫の胸が、きゅっとした。 きゅっとする前に息。
――いき。
幹夫は包みを持ち上げ、戸口の板の上へそっと置いた。 いきなり押し出さない。 置いて、退く。
とん。
小さい音。 小さい音は眠る。
「……清水屋さんから……うち、端っこ、もらって……」
“もらって”と言うと、包みがただの物じゃなくなる。 人の手が見える。
幹夫は続ける前に、息をひとつ入れた。
――いき。
「……ちょっとだけ。……よかったら」
“よかったら”。 それは、相手に選ばせる言葉。 選ばせると、押しつけじゃなくなる。
平田のおばさんの目が、包みに落ちて、そこで止まった。 止まった目は、受ける場所を探している目だった。
「……そんな……うち、なにも返せんで……」
返せん。 返せん、は拒む言葉じゃなく、怖がる言葉に聞こえた。
幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったのは、相手の怖さが胸に来た音。 胸に来たら、まず息。
――いき。
幹夫は、母の声を思い出して、ゆっくり言った。
「……返さなくて……いい。……受け取れるなら……それで」
言い切ったあと、自分の声が少し震えているのが分かった。 震えは、勇気の残り。
平田のおばさんの肩が、すとん、と落ちた。 落ちると、顔が少し柔らかくなる。
「……みき坊……ありがと」
ありがとう。 ありがとうは、受け取る言葉。
幹夫は、受け取る場所を胸に作ってから、頷いた。
――いき。
「……うん」
平田のおばさんは包みを持ち上げず、戸口の板の上で指の腹で撫でた。 撫でると、包みが暴れない。
そのとき、家の奥で、小さな子どもの声がした。 泣き声じゃない。 でも、かすれた呼ぶ声。
「かあ……」
呼ぶ声。 呼ぶ声は、胸の中の“返事”を起こす。
平田のおばさんが、慌てずに言った。
「……すぐ行く」
その「すぐ行く」は、やさしい返事だった。
おばさんは幹夫に向かって、もう一度だけ言った。
「今夜、拍子木、うちの当番だに。……音したら、怖がらんで。……音のあいだに、息だで」
息だで。 それは、物じゃない贈り物だった。 “知ってる”が、怖さを薄くする。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
「……うん。……ありがとう」
ありがとうを返した。 返せたら、言葉が宙ぶらりんにならない。
幹夫は頭を下げて、戸口を離れた。 背中が少し軽い。 包みの重さが、ちゃんと“向こう”へ移った。
学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、字の角を立てやすい。
先生が黒板に、大きく字を書いた。
与
きゅっ、きゅっ。
「今日は“あたえる”の与。読めるな」
教室が声を出す。
「あたえる!」
「与える!」
声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端に指を置いて、“ここ”を作った。
――いき。
先生が言った。
「与えるってのはな、上から投げることじゃない。奪うのとも違う。――相手の手の届くところへ、そっと置くことだ」
そっと置く。 まちばこ。 回覧板。 今日の戸口。
先生は黒板をとん、と叩いた。
「与えるとき、相手が受け取れる形にしろ。相手が受け取らなかったら、無理に押しこむな。与えるってのは、相手に“選ばせる”ことでもある」
選ばせる。 よかったら。 幹夫の胸の中で、朝の言葉が座った。
先生は続けた。
「それと、与えるのは物だけじゃない。席を譲る。時間を分ける。声を柔らかくする。――“間”を与える。これも与えるだ」
間を与える。 それは、幹夫の得意なやつだった。
先生が笑わない笑いで言った。
「おまえら、今から一つ、誰かに“間”を与えろ。急いで答えずに、相手が話せる時間を作れ」
教室が少し静かになる。 静かは、門の中の光。
正夫が幹夫のほうを向いて、口を開きかけた。 言いたいことがある顔。 でも言い方が見つからない顔。
幹夫は、いちど息を入れて、正夫の言葉を待った。
――いき。
「……みきぼー、さ……昨日、うちで、母ちゃんが泣いた」
正夫の声は小さい。 小さいのに、重い。 重い言葉は、受ける場所が要る。
幹夫は「なに泣いたの」と急がなかった。 急ぐと、正夫の胸が走る。 だから、間。
――いき。
「……うん」
“うん”は、受ける音。 受ける音を置くと、相手の言葉が続ける。
正夫が、ふう、と息を吐いて続けた。
「……父ちゃん、いないから……。なんか、怖いって」
怖い。 怖いは、刺さりやすい。 刺さる前に、息。
――いき。
「……怖いって……言えたの、すごい」
正夫の目が、少しだけ濡れた。 濡れた目は、まだ走っていない目。
「……みきぼー、変なこと言ってごめん」
ごめん。 渡された言葉。 幹夫は、受ける場所を作ってから返した。
――いき。
「……ううん。……聞けてよかった」
聞けてよかった。 それは、正夫に“間”を与える返し方。
先生が前から言った。
「そうだ。与えるってのは、相手の胸が座る場所を作ることでもある。――幹夫、今、与えたな」
教室の視線が少し集まって、幹夫の胸が忙しくなりかけた。 忙しくなる前に、息。
――いき。
「……はい」
小さい返事。 小さいのに、座っている返事。
帰り道、踏切が鳴った。
カン、カン、カン。
幹夫は鐘と鐘のあいだを見つけて、息を入れた。
カン、……(いき)……カン、……(いき)……
音に飲まれないように、間を与える。 自分の胸へ、間を与える。 それも“与”だ、と先生が言った気がした。
――いき。
家の戸口が見えるころ、軒下の貝殻の糸が風で揺れていた。
ちい。 ちい。
眠った音。 眠った音は、守りの音。
夕方。 「まちばこ」のふたが、ほんの少しだけ浮いていた。 浮いているのは、何かが入った印。
幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
母がふたを開ける。 中には、小さな束。 青菜。 畑の匂いがする、細い葉っぱ。
束の上に、紙が一枚、丸く折って挟んである。 平田のおばさんの字だった。
いただきましたこれ、畑の端っこうけとってくださいひらた
畑の端っこ。 端っこが、また端っこを呼んだ。
母が紙を読んで、息を吐いた。
ふう……。
「……返してきた、んじゃないだに。……渡してきた、だに」
父が縁側の端からぽつりと言った。
「……与えたら……与え返された、か」
与え返された。 返すじゃなく、与える。 その違いが、幹夫の胸の中で小さく灯った。
母が青菜をいきなり掴まず、置き布の上へそっと置いた。 置いてから、両手で受ける。
「受け取るだに。……受け取って、ありがとうって言うだに」
ありがとう。 言葉を返す。 宙ぶらりんを座らせる。
幹夫は青菜の匂いを吸って、喉の奥が少し熱くなった。 熱いのは、つながった感じがするから。 走らないように、息。
――いき。
「……平田さん……受け取ってくれた」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……受け取ってくれたら……それで、いいな」
“それでいい”。 父の口から出ると、家の中の線が少しやわらかくなる。
夜。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目は、今日もそこにある。 でも痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
与
幹夫はその字を見た瞬間、戸口に置いた紙包みと、平田さんの「よかったら」と、まちばこに入っていた青菜が一緒に浮かんだ。
母は字の形を指でなぞって言った。
「この字、ほら……上が“線”みたいで、下が“手”みたいに見えるだら。……線の上から、手の上へ。渡すみたいだに」
“みたい”。 母の“みたい”は、押しつけじゃない。 見え方を一緒に置いてくれる。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「与えるってのはな……相手の手の届くところへ、そっと置いて、選ばせることだに。押しこまない。ぶつけない。……受け取れたら、それでいい。受け取れん日もある。けど、その日も“ここまで”を守って、相手の門を尊ぶ」
門。 線。 間。 聞。 受。 全部が、与の中で座った。
父がま札を指で撫でて、ぽつりと言った。
「……俺、与えるって……減るってことだと思ってた」
母は否定しない。 低く言った。
「うん。……減る。減るだに。でもな、減ったぶん、胸に余地ができる。余地ができると、息が通る。……息が通ると、守れる。聞ける。返せる」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「与えりゃ腹が荒れん。……与えんと溜まる。溜まったら刺さる」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……今日、端っこ、与えた。……青菜、受け取った。……胸、少し軽い」
軽い。 軽いのは、なくなったからじゃなく、余地ができたから。
幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
幹夫は鉛筆を握った。 与を書く。
一回目の「与」は、線が尖って、字が少し“投げる”顔になった。 投げる顔は、ぶつかる。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「ぶつかりそうならな……線を丸く置け。……与えるって、置くことだに。息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「与」は、線が座って、下の形が手みたいに見えた。 座ると、置ける字になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「与」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、点を置いた。
「……点、置くと……手が“渡した”って感じするな」
母が小さく頷いた。
「うん。……渡せりゃ、つながるだに」
夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。
あさはしっこひらた にあたえたみきぼう「よかったら」 っていったおれそれ がすき だゆうがたあおなとどいたかえし じゃ なくわたし だ与おしこまんそっと おくいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……与えるの、こわい日もある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも、よかったら、って言うと……刺さらない」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……刺さらない与え方……好きだ」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「好きって言えりゃ、与えられただに。……与えると、胸に余地ができる」
祖母が淡々と言う。
「余地がありゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 与えて続く明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
与 はそっと おいてえらばせるおしこむなま を いれろうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。震えているのに、折れていない。
みきぼうきのう「よかったら」 がすき だ与 って じすこしおれ の むねひろいありがとう
その下に、丸がひとつ。
三枚目。 文字じゃなく――小さな青菜の葉っぱを一枚、布で包んだもの。 角が丸く折ってある。刺さらない。 包みの端に、平田のおばさんの字で小さく、
よかったら
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその包みを掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
与える。 押しこまない。 そっと置いて、相手に選ばせる。 減るのに、胸に余地ができる。 余地ができると、息が通って、またつながる。
蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど今日、端っこの干物は届いて、受け取られて、畑の端っこが戻ってきた。 届いたのは物だけじゃない――「よかったら」という小さな門の言葉だった。 幹夫はその門を落とさないように、丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない“与え方”を、そっと胸の中に座らせていった。





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