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岡の字


朝の岡は、まだ雲の影を抱えていた。 海の匂いが、坂の途中で薄くなる。 薄くなるところが、岡の境目。 平らと山の、あいだ。

 幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 袋の中には、小さな土の塊。 昨日、岡の道で拾った赤土。 乾くと粉になる。 濡れると重くなる。 鳴らない。 鳴らないのに、ちゃんと“上り下り”の匂いがする。

 ――いき。

 息を入れると、胸の中にも小さな坂ができる。 急ぐと滑る坂。 止まると座る坂。 “あいだ”の坂。

 「まちばこ」のふたが、ほんの少しだけ浮いていた。 浮いているのは、誰かの困りが入った印。 困りは、言う前に角が立つから、箱で丸くする。

 母がふたを開ける。 中には、小さな紙。 角が丸く折ってある。 丸い角は刺さらない。

 母の目が、紙の文字を追って、そこで止まった。

おか の さかぬかるんで こわいこども すべるよかったら みてください おかだ

 おかのさか。 岡の坂。 岡は坂を抱えている。 抱えているから、雨の日は怖い。 ぬかるみは、足の裏で先に分かる。 分かると、胸が先に忙しくなる。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、岡田さんの“こわい”が届いた音。 岡田、の“岡”が、幹夫の胸の坂に触れた音。

 ――いき。

 父が土間から顔を出した。 紙を受け取る前に、いったん膝の上の布に置く。 置くと、手が急がない。 父は指の腹で端を撫でる。 撫でると、紙が暴れない。 暴れないと、言葉も刺さらない。

 父の目が「おか」「こども」で止まる。 止まると、肩がふっと上がりかける。

 上がりかけて――止まった。

 止まった「間」に、父は懐へ触れて、丸い角のま札を撫でた。 撫でると、肩が上がりきらない。

 ふう……。

「……行くか」

 短い。 短いのに、“上り道”が入っている。

 母が頷いた。

「うん。……岡の道は水が走るだに。走ると土も走る。走る前に、座らせりゃええ」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「岡は“少し高い”が肝だ。……少し高いと、油断する。油断すると滑る」

 少し。 少し高い。 少し、が岡の匂い。 山ほどじゃない。 平らほどでもない。 あいだの高さ。

 父が納屋から藁(わら)縄と、竹の杭(くい)と、鍬を出してきた。 藁は軽い。 軽いのに、水を受ける。 竹はしなる。 しなるのに折れない。

「……みき坊。……藁、広げる場所を見る。……押すな。……添えろ」

 添える。 押しこまない添え方。 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん」

 岡田さんの家へ行く道は、平らから急に立ち上がる。 立ち上がるところで、空が近くなる。 近くなるのに、足元が遠くなる。 遠くなる足元は、怖い。

 坂の途中に、ぬかるみがあった。 赤土が水を含んで、つやつやしている。 つやつやは、滑るつやつや。 その脇に、小さな足跡。 子どもの足跡。 足跡は、途中で少し横に流れていた。

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、足跡の“流れ”が見えた音。

 ――いき。

 岡田のおばさんが坂の上で待っていた。 頬が少しこわばっている。 こわばりは声より先に顔に出る。

「おはようだに……朝からすまんね。……ここ、昨日の雨で……子が、つるって」

 “つるって”。 その音だけで、膝が小さく冷える。 冷える前に、息。

 ――いき。

 父はすぐ「ええよ」と切らなかった。 まず、坂を見る。 水の筋。 土の色。 草の根が出ているところ。 見ると、怖さが形になる。 形になると、手が荒れない。

 父の肩がふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。

 止まった「間」に、父が口の中で言った。

「……水の道だ」

 名前を置く。 置けると、ぬかるみが全部にならない。

 ふう……。

 父は鍬をいきなり突っ込まない。 まず、竹の杭を坂の端に打つ。 端。 端は守りの線。 線があると、人の足が“ここまで”を知る。

「……岡田さん。……ここは通るな。……ここ、寄れ。……線だ」

 ここまで。 線の言葉。 守りの言葉。

 父が藁を持ち上げた。 藁はふわふわしている。 ふわふわは、滑りを受ける。 父は藁を、ぬかるみの上へ広げる。 広げるけど、押しつけない。 藁の中に空気の“ま”を残す。

「……みき坊。……ここ、押さえろ。……受ける手だ」

 受ける手。 幹夫は藁の端を、指の腹でそっと押さえた。 押さえると、藁が逃げない。 逃げないと、藁が暴れない。

 ――いき。

 父が藁縄で杭と杭を結ぶ。 結ぶけれど、ぎゅっと締めきらない。 少し締めて、少し戻す。 結び目の中に、ちいさな“ま”。

 その“ま”があると、雨が降っても水が抜ける。 水が抜けると、土が座る。 座ると、足が刺さらない。

 岡田のおばさんが恐る恐る言った。

「……そんなゆるくて……大丈夫かね」

 父はすぐ否定しない。 一度、手を止める。 止めると、言葉の居場所ができる。

「……岡の道は、息が要る。……詰めると、水が怒る。……怒ると、滑る」

 水が怒る。 怒った水は、土を持っていく。 持っていくと、坂が痩せる。 痩せた坂は、夜に怖くなる。

 父の肩がふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。

 止まった「間」に、幹夫は小さく言った。

「……ま」

 父が、ふう、と吐いた。

 ふう……。

「……ま、だな」

 父が最後に、藁の上へ薄い砂利を少し撒いた。 少し。 少しだけ。 少しの粒が、足の裏に“座る場所”を作る。

 岡田のおばさんが、そっと一歩、乗せてみた。 ぎゅ。 藁が沈む。 沈むのに、滑らない。 滑らない沈みは安心の沈み。

 おばさんの肩が、すとん、と落ちた。

「……滑らん……助かった」

 助かった。 その二文字が、岡の空気を少しだけ温めた。 岡の上の風が、やわらかくなった気がした。

 父はすぐ「いいえ」と返さず、まず頷いた。 頷いてから、言葉を置いた。

「……うん。……岡は“少し高い”。……少し高いと、少し怖い。……怖い前に、座らせりゃええ」

 “前”。 祖母の言う“前”。 刺さる前。 滑る前。

 幹夫は藁の上に立って、ふと下を見た。 海が見える。 町が見える。 平らが、少しだけ遠い。 遠いのに、ちゃんとそこにある。 岡は、平らを忘れさせない高さ。

 ――いき。

 学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは線の角を立てやすい。 先生が黒板に、大きく字を書いた。

 岡

 きゅっ、きゅっ。

「今日は“おか”の岡。読めるな」

 教室が声を出す。

「おか!」

 声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端に指を置いて、“ここ”を作った。

 ――いき。

 先生が言った。

「岡はな、山ほど高くない。丘よりはしっかりした“高み”だ。――平らと山のあいだ。あいだの高さだ」

 あいだ。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 岡は、間の字と同じ匂いがする。

 先生は黒板の字を指でなぞった。

「下に“山”が見えるだろ。上には“口”みたいな形も見える。――形は見方だ。岡ってのは、上にのぼって、口を開けて息を吸える場所でもある」

 息を吸える場所。 岡の上の風。 今朝、肩が落ちた風。

 先生が少し声を落として言った。

「それから、おまえらの住む静岡。――静と岡で、静岡だ。静かな岡。静けさが座る高みだ」

 静岡。 “静”を座らせる“岡”。 幹夫の胸の柱が、すっとまっすぐになった。

 ――いき。

 休み時間、正夫が小声で言った。

「みきぼー、岡って字、静岡の岡だな。今日、坂なおしたのも岡だろ」

 幹夫はすぐ答えず、息を入れてから言った。

 ――いき。

「……うん。……岡は……少し高い。……少し高いから……水が走る。……だから……座らせた」

 正夫が目を丸くする。

「座らせるって、岡にも使うんだな!」

 夕方。 家の中に煮物の匂いが戻ってきたころ、母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目。 でも痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 岡

 幹夫はその字を見た瞬間、藁の沈みと、砂利の少しと、岡の上の風が一緒に浮かんだ。 浮かぶと胸がぽん、と鳴る。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 母が字を指でなぞった。

「岡はな……山みたいで、山じゃないだに。平らみたいで、平らじゃない。――あいだの場所だに」

 父が縁側の端で、ま札を撫でてぽつりと言った。

「……あいだ、ってのは……助かるな」

 母が頷く。

「うん。……あいだがあると、急がん。急がんと、滑らん。――岡の道も、胸の道も」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「岡は“逃げ場”にもなる。……水が来たら少し上へ。……でも上へ行きすぎると風が刺さる。……少しが肝だ」

 少し。 少し高い。 少しの余地。 少しの息。 岡は、少し、の字みたいだ。

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……今日、結び目に……まを残した。……あれが岡だな」

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 幹夫は鉛筆を握った。 岡を書く。

 一回目の「岡」は、線が詰まって、字が窮屈な顔になった。 窮屈は、滑りに似てる。 詰めると、水が怒る。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「詰まりそうならな……線と線の間を残せ。岡は、少しの余地だに。……息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「岡」は、下の山が座って、上に小さな空きができた。 空きがあると、風が通る。 風が通ると、字が生きる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「岡」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の線を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、線を置いた。

「……止まると……坂が座るな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……止まれりゃ、静岡だに」

 夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。

けさ おかだ の おか の さか ぬかるんで こわいわら で うけて すな すこしみき坊「ま」 で おれ の かた とまった岡 は すこし たかいすこし たかい から みえるでも すこし だから すべるだから ま を のこすいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……上るのも……こわい日がある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも……少しずつなら……刺さらない」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……少し、って……岡だな」

 祖母が淡々と言う。

「岡があれば腹が落ち着く。……落ち着けば、また明日だ」

 また明日。 岡の明日。 静けさが座る明日。

 翌朝。 まちばこのふたは、畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、二つと、ひとつ。

 一枚目、岡田さんの字。

さか すべらんこども ころばんおか の かぜ すきありがとう

 最後に、小さな丸。

 二枚目、母の字。

岡 は すこし たかいすこし の ま を のこせみず の みち も こころ の みち も うん

 最後に、丸。

 三つ目は、紙じゃなく――赤土の小さな塊。 乾いて、角が丸くなっている。 刺さらない土。 その横に、父の震える字で小さく、

すこし

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその土を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 岡。 山ほどじゃない高さ。 平らほどじゃない高さ。 あいだの高さ。 少しの高さ。 少しの余地。 蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど雨のあとの坂の怖さは届く。 その怖さの前に、藁の“受け”と、結び目の“ま”と、幹夫の息は届いた。 届いた“少しの高さ”が、足も胸も滑らせなかった。

 幹夫は赤土を袋へ戻し、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 今日も、岡の字みたいに。 少し高く、少し余地を残して――静けさを、そっと胸の中に座らせていった。

 
 
 

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