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果の字

 朝の光は、まだ浜へ行く前の顔をしていた。 行く前の光は、少しだけ硬い。 硬いのに、嘘はつかない。

 ちゃぶ台の端の「まちばこ」は空っぽだった。 空っぽは、来る場所。 今日は、手紙じゃなく――父が戻ってくるのを待つ場所みたいに見えた。

 幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 父は作業着の袖口を指でなぞった。 返し縫いのところ。 戻って固めた縫い目。 縫い目は、約束の“抜けない感じ”に似ている。

 父がぽつりと言った。

「……昼まで、だ」

 昼まで。 昨日、父が外の人に言った“量”。 量が決まっていると、胸が潰れにくい。

 母が台所の境目から、湯気の匂いを連れて言う。

「昼までだに。……終わったら、浜。忘れんでよ」

 忘れんでよ。 責める言い方じゃなく、糸を結び直すみたいな言い方。

 父の肩がふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、父は自分で息を吐いた。

 ふう……。

「……忘れん。……行く」

 短い。 短いのに、落ちない“行く”。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父は戸口の前に、置き布をそっと敷いた。 布の上に足を置くと、出ていく音が眠る。 眠ると、胸が走らない。

 父が幹夫の頭を、掴まない撫で方で、軽く撫でた。

「……みき坊。……待つなら、ま、だ」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……ま、して待つ」

 父は一瞬だけ笑いそうになって、笑わないまま息を吐いた。

 ふう……。

「……それでいい」

 父が出ていく背中は、今日は“走りそうで走らない”背中だった。

 学校の教室は、潮の匂いじゃなく、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、待つ心を少しだけ尖らせる日がある。

 先生が黒板に字を書いた。

 約束は守る。守れないなら言う。

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 先生が言った。

「“守る”ってのは、がんばることじゃない。守れる形にすることだ。時間でも、言葉でも、約束でもな」

 守れる形。 昼まで。 浜。 父の“量”。

 幹夫は机の端を指で触って、冷たい木で“ここ”を作った。 ここ。 今ここ。

 ――いき。

 放課の鐘は鳴った。 鳴ると、体が走りたがる。 でも幹夫は、走る前に、いちど立ち止まった。 立ち止まって、息。

 ――いき。

 家へ帰る道の途中、みかん畑の端が見えた。 木の葉の色が濃い。 濃い緑は、落ち着く緑だ。

 畑の足元に、ひとつだけ、みかんが落ちていた。 土が少しついて、でも丸い。 丸いものは、胸の角を丸くする。

 幹夫は拾いそうになって、手を止めた。 勝手に取ったら、刺さる。 刺さらないように、息。

 ――いき。

 みかんは、そのまま置いていった。 置いていくと、手が軽い。 軽い手で帰れる。

 家に着くと、ちゃぶ台の端の「まちばこ」が、まだ空っぽだった。 空っぽは、待つ場所。 待つ場所があると、胸がこぼれない。

 幹夫は縁側の端に座って、袋を押さえた。 石は重い。 重いのに、刺さらない。

 ――いき。

 母が台所から声を落とした。

「父ちゃん、まだだに。……昼まで、って言ったで、昼まで待て」

 昼まで。 “ここまで”があると、待てる。

 幹夫は、縁側の影と日なたの境目を見た。 影は涼しい。 日なたはあたたかい。 境目があると、心も境目を作れる。

 ――いき。

 遠くで、竹を打つ音がした。 こん。 こん。 音が遠いと、まだ息が入る。

 そして、やがて。

 とん、とん。

 戸口の音。 音が小さいのに、胸がぽん、と鳴った。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 戸が開いて、父が入ってきた。 汗の匂い。 土の匂い。 働いた匂いは、少しだけ重い。

 父は、いきなりしゃがまない。 いちど置き布の上に手を置いて、息を吐いた。

 ふう……。

「……終わった。……昼まで、守った」

 守った。 父が自分で言う“守った”は、怒鳴らない強さだ。

 幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱いと走りそうだから、息。

 ――いき。

「……浜……?」

 父は幹夫を見た。 見る目が遠くへ行かない。 今ここで、見る目。

「……行く」

 たった二文字が、幹夫の胸をふわっと浮かせた。 浮かせたまま、落ち着かせるために、息。

 ――いき。

 母が、ぶつけない声で言った。

「果たしただに。……昼までの約束も、浜の約束も」

 果たした。 その言葉が、まだ知らない字みたいに、幹夫の耳に残った。

 父は手拭いで顔を拭いて、ぽつりと言った。

「……疲れたけど……行くと、決めた」

 決めた。 決めたと言えると、胸が座る。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「決めたら行け。……行けりゃ飯がうまい」

 浜へ向かう道は、潮と砂と鉄の匂いが混ざっていた。 蒲原の道は、混ざる匂いでできている。 混ざるけれど、ちゃんと分かれる。

 父は人の真ん中を歩かない。 端。 逃げ道のある端。

 幹夫も父の横で、端を歩いた。 端は、風がよく通る。 通ると、息が入る。

 ――いき。

 浜に着くと、波が言った。

 ざあ。 ざあ。

 波の音は、いつも同じじゃない。 同じじゃないのに、ちゃんと戻ってくる。 戻ってくる音は、安心に似ている。

 父がぽつりと言った。

「……波の音だ」

 名前を置く。 置けると、音は音のままで座る。

 ふう……。

 幹夫は砂の上にしゃがんで、石を探した。 小さい石。 丸い石。 角のない石。

 指先に触れる石は、冷たい。 冷たいと、今ここが分かる。

 ――いき。

 幹夫は一つ、手のひらに乗せた。 卵みたいに丸い。 丸いのに、重い。

「……これ」

 父が覗き込む。 覗き込み方が、急がない。

「……丸いな」

 幹夫は小さく頷く。

「……ま、みたい」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……ま、だな」

 父が、砂の上で別の石を拾った。 それは少しだけ平たくて、片側が欠けている。 欠けているけど、刺さらない欠け方。

「……これは……おれのだ」

 父はそう言って、石を掌で撫でた。 撫でると、硬いものも少しだけ丸くなる。

 幹夫は、父の石を見て、胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

「……欠けてるの、いい?」

 父は短く頷いた。

「……余地がある」

 余地。 父の好きな言葉。 余地があると、ほどける道がある。

 波の端で、小さなガラスの欠片が光っていた。 光ると、手が伸びそうになる。 伸びる前に、息。

 ――いき。

 幹夫は指を止めた。 危ない。 刺さる。

 父もそれに気づいて、布を一枚出した。 置き布の小さいやつ。 布でガラスを包んで、砂の奥へ埋めた。

「……刺さらんように、戻す」

 戻す。 返す。 守る。

 幹夫の胸が、すとん、と座った。 座ったから、息。

 ――いき。

 しばらく、ふたりは石を拾った。 拾って、置いて、選んで、また拾う。 急がない作業。

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……待たせたな」

 幹夫はすぐ答えそうになって、いちど息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、来た」

 来た。 来てくれた。 来た、と言えると、待った時間が報われる。

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……来られて……よかった」

 よかった。 父の“よかった”は、胸を撫でるよかった。

 幹夫は、手のひらの丸い石を袋に入れた。 石が布に触れて、音がしない。 音がしないと、守れた感じがする。

 父も、自分の欠けた石を懐へ入れた。 札の隣。 ま札の隣に、余地の石。

 帰り道、夕日の光が、浜の砂を少しだけ金色にした。 金色は派手なのに、夕方の金色は落ち着いている。 落ち着く色は、胸を走らせない。

 父が、ぽつりと言った。

「……約束、守れたな」

 守れた。 幹夫の喉の奥が熱くなる。 熱いと走りそうだから、息。

 ――いき。

「……うん。……父ちゃん、果たした」

 幹夫は、さっき母が言った言葉を、そのまま口に出した。 口に出すと、言葉が自分のものになる。

 父が一瞬、首を傾げて――すぐ頷いた。

「……果たした、か」

 父はその言葉を口の中で転がして、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……いい言葉だな」

 夜。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 果

 幹夫はその字を見た瞬間、浜の石と、昼までの仕事と、父の「行く」が一本の糸でつながったみたいに見えた。 “終わり”じゃなく、“できた”のほうの終わり。

 母は上の形を指でなぞった。

「ここ、田だに。……田んぼ」

 田。 四角い枠。 枠があると、こぼれない。

 母は下をなぞった。

「こっちは木だに。……木」

 木。 みかんの木。 燕の巣の軒下の木。 生える木。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「果ってのはな……木に実がなって、枠(田)みたいに中身が詰まった字だに。実、ってこと。結果、ってこと。……それと、約束を“果たす”の果だに。やるって言ったことを、ちゃんと“実”にする」

 実にする。 言葉を、形にする。 父が今日やったこと。

 母は続けた。

「果て、って言うだに。終わりの果て。……でも終わりは怖いだけじゃない。終わったら、座れる。終わったら、息が入る。今日の“昼まで”も、浜の“行く”も、果てたで、胸が落ち着いた」

 父が新聞紙の「果」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、終わるの……怖かった」

 母は否定しない。 低く言った。

「うん。……終わりが見えんと、ずっと走るでな。でも今日は、昼までって決めた。終わりが見えた。……だから果たせた」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「果たせりゃ飯がうまい。……果たせんと腹が荒れる。荒れりゃ次が実らん」

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……実る、って……いいな」

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 幹夫は鉛筆を握った。 果を書く。

 一回目の「果」は、田が詰まりすぎて、字が苦しそうな顔になった。 詰まりすぎると、息が止まる。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ”。

「詰まったらな……田の中に、風の道を作れ。線をまっすぐ置いて、まを残す。……実るのも、息が通るからだに」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「果」は、田が座って、木も落ち着いた。 落ち着くと、実が落ちない字になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「果」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……点、置くと……実が落ちて、皿に座るみてぇだな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……座れば、果てたってことだに」

 母は「果」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、浜で拾った丸い石みたいに見えた。

 夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

ひろばひるまでまもれたかえってはまいったみきぼうまってたいしまるいおれかけた果やくそくみ に したいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……果たすの、こわい日もある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、果たしたら、胸が座る」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……座るのが……好きだ」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「好きって言えりゃ、実っただに。……言葉も果てる。置ける」

 祖母が淡々と言う。

「置けりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 実る明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

はたす(果)ってやくそく をみ に する って こと なんだねきょうとうちゃんひるまで しごとそのあとはまいったぼくうれしかったいしまるいいき

 最後に、小さく「果」。 丸をひとつ。 実の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは「まだだな」と思った昼前の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

果 はみ(実)おわり(果て)やくそく を み に するうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうまってた なすまんでもいけた果 って じすこしおれ の むね の いとみ に なったありがとう

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――浜で拾った、丸い石が一つ。 薄い布で包んであって、刺さらない。 包みの端に、父の震える字で小さく、

 と書いてある。 横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその石の包みを掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 果たす。 言葉を、実にする。 終わりを、怖いだけの終わりにしない。 終わったら、座って、息を入れる。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、父の「行く」はちゃんと浜に届いて、丸い石になって戻ってきた。 届いた“実”を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない形で、約束の続きと心の続きとを、そっと掌に乗せていた。

 
 
 

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