美の字
- 山崎行政書士事務所
- 3 時間前
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朝の鏡は、まだ冷たい光を抱えていた。 曇りが薄く張って、顔を映す前の白さ。 白さは、息を当てるとほどける。 ほどけると、向こう側が見える。
幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 袋の中には、小さな鏡の欠片。 昨日、納屋の隅で見つけた。 欠けた縁が丸くて、刺さらない。 刺さらないのに、ちゃんと“ひかり”が入っている。 鳴らないのに、重い。
――いき。
息を入れると、胸の中の鏡も少し曇る。 曇ると、尖りが見えにくくなる。 見えにくい尖りは、刺さりにくい。
「まちばこ」のふたが、ほんの少しだけ浮いていた。 浮いているのは、誰かの困りが入った印。 困りは角が立つから、箱の中で丸くする。
母がふたを開ける。 中には、小さな紙。 角が丸く折ってある。 丸い角は刺さらない。 刺さらないと、手が取れる。
母の目が、紙の文字を追って、そこで止まった。
かがみ の ふち かけて ささる こわいでも あさ かお を みたいよかったら みてください みつ
刺さる。 鏡が怖いんじゃない。 鏡の縁が、指や頬に刺さるのが怖い。 刺さると血が出る。 血が出ると、胸が忙しくなる。 忙しい胸は、言葉も尖らせる日がある。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、みつさんの“みたい”が胸に届いた音。 見たい、は生きたいに似ている。
――いき。
父が土間から顔を出した。 紙を受け取る前に、いったん膝の上の布に置く。 置くと、手が急がない。 父は指の腹で紙の端を撫でる。 撫でると、紙が暴れない。 暴れないと、言葉も暴れない。
父の目が「かがみ」「ささる」で止まる。 止まると、肩がふっと上がりかける。
上がりかけて――止まった。
止まった「間」に、父は懐へ触れて、丸い角のま札を撫でた。 撫でると、肩が上がりきらない。
ふう……。
「……行くか」
短い。 短いのに、“朝”が入っている。
母が頷いた。
「うん。……鏡はな、顔だけじゃなくて、心も整えるだに。刺さる前に丸くしてやらんと」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「美しいってのは、尖らんことだ。……尖ると、見てるほうも痛い」
痛い。 痛いは、目から入る日がある。 その前に、間。
父が納屋から古い布と、川石と、木の枠をひとつ出してきた。 川石は丸い。 丸いのに、硬い。 硬い丸さは、削る丸さ。 布は柔らかい。 柔らかいと、欠片を受けられる。
「……みき坊。……鏡は掴むな。……布に置け。……受ける手だ」
受ける手。 受ける手は、刺さりを呼ばない手。
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん」
みつさんの家は、海へ下る道の途中だった。 朝の潮の匂いが、戸口の板に座っている。 潮は、静かなときほど匂いがよく分かる。
みつさんが戸口に立っていた。 頬が少しこわばっている。 こわばりは声より先に顔に出る。 手に、小さな鏡。 鏡の端が欠けて、白く毛羽みたいになっている。 毛羽は刺さる毛羽。
「おはようだに……朝からすまんね。……これが……」
鏡を差し出す手が、少し震えていた。 震えるのは、怖いって言えたあとの手。
幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
父はすぐ「ええよ」と切らなかった。 まず、鏡を布の上に置かせた。 置くと、鏡が暴れない。 暴れないと、欠けた縁も怒らない。
「……ここだな」
父の指は触れない。 指の腹で、少し離れて“欠け”の形を見る。 見ると、怖さが形になる。 形になると、手が荒れない。
父の肩がふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。
止まった「間」に、父が口の中で言った。
「……欠けだ」
名前を置く。 置けると、怖さが全部にならない。
ふう……。
父は川石を水で濡らした。 濡らすと、石の硬さが少し優しくなる。 優しい硬さは、削りすぎない硬さ。
「……みつさん。……鏡は割れると縁起が、って言うけど……縁を丸くすりゃ、縁が戻る」
縁。 縁は、ふち。 ふちが丸いと、刺さらない。
みつさんが小さく笑った。 笑いは小さいと、刺さらない。
「……縁、戻るか」
父が鏡の欠けたところを布で包んだ。 包んで、木の枠にそっと挟む。 挟むけれど、締めこまない。 締めこむと、鏡がまた割れる日がある。
「……みき坊。……ここ押さえろ。……掴むな。……受ける手で押さえろ」
幹夫は布の端を指の腹で押さえた。 押さえると、鏡が動かない。 動かないと、欠けが欠けのままで座る。
――いき。
父が川石を欠けた縁に当てた。 こす。 こす。
音は小さい。 小さいのに、胸の硬いところを起こしやすい。 父の肩が、ふっと上がりかけた。
上がりかけて――止まる。
止まった「間」に、幹夫は小さく言った。
「……ま」
父が、ふう、と吐いた。
ふう……。
「……ま」
父も言えた。 言えると、こす、がこすのままで座る。
こす。 こす。 欠けの白い毛羽が、少しずつ丸くなる。 丸くなると、光が柔らかく跳ねる。 柔らかい跳ねは、刺さらない。
みつさんが恐る恐る言った。
「……削ると、鏡、汚くならんかね……」
汚く。 汚い、は胸に刺さる言い方になりやすい。 刺さる前に、父は一度止まった。 止まると、言葉の居場所ができる。
「……削ると、一瞬曇る。……でも、曇りは落ちたしるしだ。……拭けば、また映る」
曇りは、悪い曇りじゃない。 落ちた曇り。 落ちたものが、布に移る。 移ると、鏡が軽くなる。
父が最後に、鏡の縁を布で拭いた。 きゅ。 きゅ。
拭く音は、眠る音。 眠る音は静か。
「……触ってみろ」
父はみつさんの手に、いきなり渡さない。 布の上に置いたまま、みつさんの指が“試せる場所”を作る。 試せる場所は、怖さを小さくする。
みつさんが、指の腹でそっと縁を撫でた。 撫でても、刺さらない。 みつさんの肩が、すとん、と落ちた。
「……刺さらん……」
刺さらん。 その言葉が、戸口の空気を少しだけ温めた。
みつさんが鏡を覗いた。 鏡には、みつさんの顔と、戸口の暗さと、その向こうの朝の白が一緒に映った。 ひびは残っている。 でも、ひびの線に光が入って、細い川みたいに見えた。 川みたいなひびは、少し美しい。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
みつさんが、ぽつりと言った。
「……割れたのに……きれいだに……」
父はすぐ「そうだ」と押しこまない。 一度、頷いて、言葉を置いた。
「……うん。……欠けがあっても……刺さらんように座れば……それが美(び)だ」
美。 父の口から出た“美”。 それは、派手じゃない。 でも、胸の奥に残る。
みつさんが小さく息を吐いた。
ふう……。
「……朝、顔を見るの……贅沢みたいで、怖かったけど……刺さらんと、嬉しい」
贅沢。 言葉が少し尖りそうになる。 でも、みつさんの声は尖ってない。 困りの声。 整えたい声。
母が低く言った。
「整えるのは贅沢じゃないだに。……糸がほつれんようにするのと同じ。……ほつれる前が肝だに」
祖母が淡々と言う。
「美は腹に座る。……腹が座れば、飯も座る」
飯も座る。 座る、はいつも家を丸くする。
学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは線の角を立てやすい。 先生が黒板に、大きく字を書いた。
美
きゅっ、きゅっ。
「今日は“うつくしい”の美。読めるな」
教室が声を出す。
「び!」「み!」
声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端に指を置いて、“ここ”を作った。
――いき。
先生が字の上を指でなぞった。
「上は羊(ひつじ)だ。……見たことあるか?」
教室が笑う。 蒲原に羊はいない。 いないから、笑いは少し遠い。
先生も笑って、続けた。
「下は“大”だ。大きいの大。――つまり、美ってのは“大きく整った羊”みたいな形だ。毛並みが揃ってると、きれいに見えるだろ」
揃う。 揃うのは、押しこむことじゃない。 座ること。
先生は声を少し落として言った。
「でもな、美しいってのは派手なことじゃない。刺さらないことだ。角が立ってると、見てる人が痛い。――丸いところに、美は座る」
丸いところ。 今朝の鏡の縁。 削って丸くした縁。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。
――いき。
休み時間、正夫が小声で言った。
「みきぼー、羊なんていねえのに美って字、羊だってさ」
幹夫はすぐ笑わず、息を入れてから言った。
――いき。
「……羊いないけど……今朝……鏡の縁……丸くした。……刺さらんのが……美、って」
正夫が目を丸くする。
「刺さらないのが美? なんか、いいな、それ!」
夕方。 家の中に煮物の匂いが戻ってきたころ、母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目。 でも痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
美
幹夫はその字を見た瞬間、鏡のひびの光と、川石の丸さと、先生の“刺さらない”が一緒に浮かんだ。 浮かぶと胸がぽん、と鳴る。 鳴ったから、息。
――いき。
母が上をなぞった。
「ここ、羊だに。……毛が揃うと、触っても痛くない。……ささくれがない」
母が下をなぞった。
「こっちは大だに。……大きいってのは、押しこむんじゃない。受ける余地があるってことだに」
余地。 余地があると、欠けも座る。 ひびも座る。 心も座る。
父が縁側の端で、ま札を撫でてぽつりと言った。
「……俺……美しいっての……苦手だった」
母は否定しない。 低く言う。
「うん。……美しいって言うと、届かん感じがするでな。でも、美は“少し”だに。――刺さるとこを、少し丸くする。余地を少し残す。そうすると、胸が座る」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「美は作るもんじゃねえ。……削って、刺さりを落とすんだ」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……今朝……削った。……削ったら……みつさんの肩、落ちた。……あれ、美だな」
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
幹夫は鉛筆を握った。 美を書く。
一回目の「美」は、線が強く出て、角が立った。 角が立つと、字が刺す顔になる。 刺す顔は、見る人の胸を忙しくする。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「刺しそうならな……力を小さく置け。美は押しこまん。座らせる。……息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「美」は、上がふわっと揃って、下の“大”が受け皿みたいに見えた。 受け皿が見えると、美が座る。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「美」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、点を置いた。
「……点を置くと……刺さりが落ちた気がするな」
母が小さく頷いた。
「うん。……落ちりゃ、美だに」
夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。
けさ みつ の かがみ ふち かけて ささる こわいでも かお みたいかわいし で こすって まるく したひび の ひかり かわ みたい きれい美 って じ ささらない って せんせいおれ も すこし まるく したいいき
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……美しくいるのも……こわい日がある」
幹夫は頷く前に息を入れた。
――いき。
「……うん。……でも……少し丸いと……刺さらない」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
ふう……。
「……少し、って……好きだ」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「好きって言えりゃ、美が座るだに。……美は、欠けを隠すんじゃない。欠けが刺さらんように、余地を残すんだに」
祖母が淡々と言う。
「余地がありゃ飯がうまい。……うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 美が座る明日。
翌朝。 まちばこのふたは、畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、二つと、ひとつ。
一枚目、みつさんの字。
かがみ ささらないひび ある でも あさ の ひかり はいって きれいこわくないありがとう
最後に、小さな丸。
二枚目、母の字。
美 は ささらないまるく して ま を のこせおしこむな うん
最後に、丸。
三つ目。紙じゃなく――小さな椿油の小瓶。 匂いが甘い。 甘いのに、尖らない匂い。 瓶の横に、みつさんの字で小さく、
すこし
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫は小瓶を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
美。 欠けを消すことじゃない。 欠けが刺さらんように、少し丸くする。 少し余地を残す。 そうすると、ひびに光が入って、川みたいに座る。 蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど胸の尖りは届く。 その尖りの前に、父の「ふう」と、幹夫の「ま」と、丸い川石のこす、が届いた。 届いた“少しの丸さ”が、鏡も胸も刺させなかった。
幹夫は小瓶を布の袋にしまい、口の中で小さく言った。
――いき。
今日も、刺さらない美しさを。 そっと胸の中に、座らせていった。



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