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約の字


 朝の空気は、まだ昨夜の「待ち方」を少しだけ含んでいた。 黒い布を畳んだ指の温度が、畳の目に残っているみたいで――家の中が、すこし静かに“座って”いた。

 ちゃぶ台の端の「まちばこ」は、空っぽだった。 空っぽは、来る場所。 来る場所が空っぽのままだと、胸の中にも“余地”が残る。

 幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 縁側の端で、父が紐を指に巻いていた。 網の紐より細い。 細いのに、指にくっつく。 くっつくと、ほどけにくい。

 父の指先が、結び目のところで止まる。 止まるとき、胸の中で何かが引っかかっていることがある。

 母が台所の境目から、湯気の匂いを連れて言った。

「父ちゃん、今日の午後……“約束”だに」

 約束。 その二文字が、空っぽのまちばこの上に、見えない重さで置かれた気がした。

 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父が口の中で小さく言った。

「……広場、か」

 母が頷く。

「うん。……柵の件で、また集まるって。昨日の返事の続きだに」

 続き。 返ってきた返事の続き。 続きは、また“外へ行く”ってことでもある。

 父は紐の結び目を見て、いちど息を吐いた。

 ふう……。

「……行く」

 短い。 短いのに、逃げない“行く”。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 幹夫は、ふと思い出して言った。

「……父ちゃん、きのう……言った」

 父が首を傾げる。

「……何を」

 幹夫は、恥ずかしくなる前に息を入れた。

 ――いき。

「……放課(ほうか)あと……浜、行くって……石、拾うって」

 父の指が止まった。 止まったまま、父の喉がごくりと動く。 “二つ”が胸の中でぶつかったときの喉の動き。

 母が、ぶつけない声で先に言う。

「……そうだに。浜の石、約束してた」

 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、父は自分で息を吐いた。

 ふう……。

 父は幹夫を見た。 見る目が遠くへ行かない。 今ここで、見る目。

「……みき坊。……すまん」

 “すまん”。 謝の札みたいな言葉。 置かれた言葉は、刺さらない。

 幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱いのは、寂しさの熱。 でも、走らないように息を入れる。

 ――いき。

 父が続けた。

「……今日は……広場に行く。……約束、してる」

 約束。 父の口から出る“約束”は、紐みたいに細い。 細いのに、ちゃんと強い。

 母が低く言った。

「約束はな、ひとつだけ持つもんじゃないだに。……でも、重なる日もある。重なったら、言葉でほどく。言わんと切れる」

 切れる。 切るは終い。 終いにしたくないから、言葉。

 父は、懐から丸い角の札――「ま/息」を出して、縁側の板の上にそっと置いた。

 とん。

 小さい音。 小さい音は眠る。

 父が低く言った。

「……ま」

 それから、幹夫へ、もう一度見る目で言った。

「……明日。……明日、浜、行こう。……約束、し直す」

 し直す。 ほどいて、結び直す。 結の字の匂いが、ここへ戻ってきた。

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴るのに痛くない。 あたたかい鳴り方。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

「……うん」

 うん、だけ。 でも、胸の中でちゃんと座った。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「約束は守れ。守れん約束はすんな。……でも、言って直すなら上等だに」

 上等。 祖母の上等は、太い道。

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……言って直す」

 父の言葉が、紐の結び目みたいに、そこに座った。

 昼前。 幹夫は学校から帰ってきて、ちゃぶ台の端のまちばこを見た。 空っぽ。 空っぽは、待つ場所。

 待つ場所があると、胸がこぼれない。

 ――いき。

 やがて戸口が鳴った。

 とん、とん。

 清水屋のおばさんの声が、少し急いでいた。

「兄さん、もうすぐだに。広場、集合」

 “集合”。 その言葉は、人の真ん中を連れてくる。

 父の肩が、ふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、幹夫は息を入れた。

 ――いき。

 父が口の中で小さく言った。

「……集合の声だ」

 名前を置く。 置けると、声は声のままで座る。

 ふう……。

 父は出る前に、作業着の袖口を指でなぞった。 母が返し縫いしたところ。 戻って固めた縫い目。 縫い目は、約束の形にも見えた。

 父は幹夫の頭を、いつもの“掴まない撫で方”で、軽く撫でた。

「……みき坊。……明日、だ」

 明日。 明日が言えると、今日の寂しさは“明日まで”になる。 “明日まで”は、終いじゃない。

 幹夫は首の袋を押さえて、息。

 ――いき。

「……うん。……待つ」

 父は一瞬だけ笑いそうになって、笑わないまま息を吐いた。

 ふう……。

「……待てるの、強いな」

 強い。 父の“強い”は、怒鳴る強さじゃない。 座れる強さ。

 父は懐のま札を指で撫でて、戸口へ出た。 出る前に、いちど置き布を敷く。 布は、外へ行く足の守り。

 広場は、音が多かった。 竹の音。 縄の擦れ。 人の声。

 とん。 こん。 ぎゅ。

 音が集まると、胸が忙しくなる日がある。

 幹夫は端に立って、父の背中を見た。 父の背中は、今日は“走りそうで走らない”背中だった。

 父が、組の頭の前で止まる。 止まって、息を吐く。

 ふう……。

 頭が言った。

「兄さん。昨日の返事、届いた。……約束、な」

 約束。 言葉で結び目ができる。

 父の肩がふっと上がりかけて――止まる。 止まった「間」に、父は自分で小さく言った。

「……ま」

 そして、低い声で答えた。

「……ああ。……行く」

 頭が頷く。

「明日の朝も頼む。……今日の続き」

 父はそこで、いちどだけ“線”を置いた。

「……朝は行ける。……でも、昼までだ。……浜の約束がある」

 浜の約束。 父が“浜”と言った。 外の人に、家の約束を言った。

 頭は一瞬驚いた顔をして、それから笑った。

「ええだに。……約束がある男は、信用できる」

 信用。 信の字が、ここへ来た。

 父の肩が、すとん、と落ちた。 落ちた肩は、息が通っている肩だ。

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 夕方。 父は疲れて帰ってきたのに、顔の線が少しだけやわらかかった。 やわらかい顔は、守れた顔。

 父がぽつりと言った。

「……言えた。……昼までだって」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……浜の約束、言えた」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……言うと……胸が軽いな」

 母が低い声で言った。

「軽いと、守れるだに。……守れたら、次もできる」

 祖母が淡々と言う。

「守れりゃ飯がうまい。うまけりゃ、明日も守れ」

 夜。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 約

 幹夫は、その字を見た瞬間、父の指の結び目と、「明日、浜」の言葉が一本の糸でつながったみたいに見えた。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは糸だに。……糸へん」

 糸。 網の糸。 結びの糸。 便りの糸。 息の糸。

 母は右側をなぞった。

「こっちは勺(しゃく)だに。……ちいさい“はかり”。量を決める手つき」

 量を決める。 ここまで。 昼まで。 “できる分だけ”。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「約束ってのはな……糸で結んで、量(ここまで)を決めることだに。ずっと、じゃない。全部、じゃない。守れる分だけ。……守れんときは、言ってほどいて、結び直す。切るんじゃなくて、直す」

 直す。 結び直す。 父が今日やったこと。

 母は続けた。

「約束は、相手を縛る縄じゃない。……道を作る糸だに。糸は細いけど、結べば強い。けど、締めすぎると刺さる。だから、ま。息。余地」

 余地。 父の好きな言葉。 余地があると、明日が怖くない。

 父が新聞紙の「約」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、約束……怖かった」

 母は否定しない。 低く言った。

「うん。……未来が見えんでな。でも今日、言って“量”を決めた。昼まで。浜まで。……それが約束の形だに」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「量を決めりゃ飯がうまい。……決めんと腹が荒れる。荒れりゃ約束が切れる」

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……切らんように……結ぶ」

 結ぶ。 続く。

 幹夫は鉛筆を握った。 約を書く。

 一回目の「約」は、糸が細すぎて、字が頼りない顔になった。 頼りないと、約束がふわふわする。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「頼りないときはな……糸を太らせりゃええ。糸は“気持ち”だに。気持ちを置くと太くなる。……息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「約」は、糸が少し座って、勺の形も落ち着いた。 落ち着くと、“ここまで”が見える字になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「約」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……点、置くと……結び目が座るな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……座った結び目は、守れるだに」

 母は「約」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、糸の結び目みたいに見えた。

 夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

ひるひろば約束こわかった けどま して息 してひるまで って いえた浜 の 約束 もいえた約いと とここまでみきぼうあしたはまいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……約束、守れるか」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……守れる分だけ。……昼まで」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……そうだな。……守れる分だけ、が……好きだ」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「好きって言えるのも約束だに。……言葉、置けたで」

 祖母が淡々と言う。

「置けりゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 浜へ行く明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

やくそく っていと で むすんでここまで って きめる こと なんだねきょうとうちゃんひるまで って いえたはま の やくそく もいえたぼくまてたあしたはまいき

 最後に、小さく「約」。 丸をひとつ。 結び目の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは「すまん」と言われた朝の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

約 はいと で むすんでここまで を きめるほどいて なおして いいうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうすまん って いえたあした って いえたひるまで って いえた約 って じすこしおれ の むね の いとふとく なったはまいく

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――短い白い糸。 真ん中に小さな結び目があって、結び目の左右が同じ長さ。 “ここまで”が目で分かる長さ。刺さらない結び。 糸のそばに、父の震える字で小さく、

やくそく

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその糸を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 約束。 糸で結んで、ここまでを決める。 重なったら、言葉でほどいて、結び直す。 切らない。続ける。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、父が結んだ“明日、浜”の細い糸は届いた。 届いた結び目を落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらない約束を、そっと胸の中に座らせていった。

 
 
 

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