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菊と油

海は、戦後にいちばん綺麗になる。坊ノ岬の岬先に立つと、四月の光は波の背中を撫で、白い泡はしつこくも清潔に砕け、空はどこまでも無関心に青い。無関心は、最も冷酷な神の顔だ。——人が何を沈めようと、海はただ満ちて引く。満ちて引くことだけが正しい。

私はそこに立つたび、喉の奥が油の匂いを思い出して、咳をしたくなる。もちろん、ここで油は匂わない。潮の匂いと、乾いた草の匂いと、どこかに焼きイカの匂いがあるだけだ。それでも、胸の内側に沈んだ匂いは、海の匂いに触れると勝手に浮かび上がる。匂いは時間を知らない。知らない匂いほど残酷だ。

岬の下の水面は、きょうも穏やかだ。穏やかさほど、侮辱的なものはない。あの日も海は、はじめは穏やかだったのだ。

徳山の泊地で、私たちは「片道の燃料」を知らされた。片道という言葉は、切符の言葉だ。切符は生活の道具だ。生活の言葉が、死の決定を運ぶ——その不潔さに、私は一瞬だけ笑いそうになった。笑いは薄い。薄い笑いは恐怖の裏返しだ。恐怖は、まず礼儀を殺す。

「天一号」

そう呼ばれた作戦名は、妙に端正だった。端正な名ほど危険だ。端正な名は、血の臭いを消してしまう。血の臭いが消えた瞬間、死は「様式」になる。様式になった死ほど、次の死を呼ぶ。

大和の艦内は、昼がない。鋼の廊下はいつも薄暗く、灯火は汗と油に霞み、蒸気の熱だけが確実に生きている。金属の腹の中では、季節より先に真夏が来る。真夏は、生を濃くする。濃い生は、死を欲しがる。欲しがる死は、美しいという名を着せられやすい。

私の持ち場は対空の区画だった。口を開けば硝煙が入り、鼻孔には燃料が貼りつき、耳は四六時中、鉄の共鳴を聞いている。鉄の共鳴は祈りに似ている。だが祈りに似たものほど残酷だ。祈りは現実を変えない。現実を変えないまま、人を死へ送る。

出撃前夜、甲板に出る許可が下りた。夜の海は黒く、黒い海は巨大な墨壺のようで、そこに星が落ちていた。星は、戦争を知らない。知らない星ほど残酷だ。星の下で、大和の艦首の菊紋が微かに光っているのを見た。菊は金だ。金は美しい。美しいものほど危険だ。美しさは、死を清めた気にさせる。

「帰れるのかな」

隣で、同年兵の片桐がぽつりと言った。片桐の声は、驚くほど普通だった。普通の声で言われた「帰れるのかな」ほど、胸を壊すものはない。英雄の叫びなら耳を塞げる。だが普通の声は、耳の奥へ入り、そのまま居座る。

「帰る、って言うな」

私は言ってしまった。自分でも驚くほど冷たい声だった。冷たさは武士の徳のように語られるが、実際はただの臆病だ。帰ると口にした瞬間、帰れなかったときの痛みが増える。痛みを増やすことが怖かったのだ。

片桐は笑わなかった。笑わない口元は、まだ子どもの輪郭を残していた。子どもの輪郭のまま死ねと言われることが、この国の末期の「制度」だった。

私たちはそれぞれ、短い手紙を書いた。紙は軽い。軽い紙が、人を生かすことも殺すこともある。私は母に「元気」と書き、恋人に「心配するな」と書いた。嘘だ。嘘は優しい。優しい嘘ほど罪深い。罪深い嘘を、私はペン先で何度も整えた。整えるという行為は、崩れる前提を含んでいる。

夜半、艦内放送が流れた。言葉は整っていた。整った言葉は、現実に追いつけない。誰も泣かなかった。泣けば湿り気が増え、湿り気は規律を崩す。規律が崩れると、みな自分の肉に戻ってしまう。肉に戻れば、死にたくなくなる。死にたくないという感情は、ここでは最も危険な反乱だった。

それでも、私は死にたくなかった。死にたくないと思うことが、恥だった。恥は生の証拠だ。証拠がある限り、私はまだ人間だった。

出撃の日、海は静かだった。静かすぎて、海がこちらの決定を嘲笑っているように思えた。艦はゆっくりと動き、徳山の山影が背後に沈んだ。沈む山影は、戻れぬことの輪郭だった。輪郭が定まると、人は「覚悟」という言葉を欲しがる。覚悟という言葉ほど甘い麻酔はない。

昼が近づいた頃、空がざわついた。ざわつきは音より先に来る。空気の密度が変わり、光が薄くなり、甲板の影が硬くなる。硬い影は不吉だ。影が硬いとき、空は何かを落とす。

「敵機!」

誰かが叫び、艦内が一斉に動いた。動きは機械の動きだった。人間の動きではない。人間は怖いとき、こんなに滑らかに動けない。滑らかさは、恐怖を抑え込んだ規律の成果だ。成果という言葉は汚い。成果のために人は死ぬ。

第一波が来た。空の高いところから、点が落ちてくる。落ちてくる点は、やがて蜂の群れになり、蜂の羽音が鋼板を震わせる。震えは骨に来た。骨に来る音は思想を剥がす。剥がれた思想の下に残るのは、ただの喉の渇きだ。

対空砲が吠え、空に黒い雲が咲いた。咲く黒は美しい。美しい黒ほど危険だ。美しさは、死を絵にする。絵にされた死は、臭いを失う。臭いを失った死は、また誰かの胸を熱くする。

急降下爆撃機が落ちてきた。落ちる機体は、まるで己の死を先に決めた昆虫のように、一直線に光を引いた。光は美しい。美しいものほど残酷だ。爆弾が水面を割り、白い水柱が立った。白は潔白ではない。白は、血の色をいちばん鮮やかに見せる背景だ。白柱が並ぶと、海は一瞬だけ「儀式」に見えた。儀式に見えた瞬間、私は自分を憎んだ。儀式などではない。ただの殺しだ。

魚雷の衝撃が来た。ドン、ではない。世界が一瞬止まり、次に「ずれる」。ずれは、巨体にとって致命だ。巨体は、ずれに弱い。艦がわずかに傾き、傾きが少しずつ増える。増える傾きは、時間の形だった。時間が形になると、人は逃げ場を失う。

片桐が叫んだ。叫びは砲声に消され、砲声は爆音に消され、爆音は海の轟きに溶けていく。言葉が溶けると、人はただ目で訴える。片桐の目は濁っていた。濁りは恐れであり、未練であり、怒りだ。未練の色は人間の色だ。

「生きたい」

片桐は唇だけで言った。唇の動きが、なぜか幼児の泣き顔に似て見えた。私はその瞬間、頭の中で何かが折れた。折れたのは忠義ではない。忠義など最初から折れている。折れたのは、「立派に死ねる」という幻想だった。

立派に死ぬなど、ない。あるのは、油と熱と、金属の匂いと、喉の渇きと、目の前の人間の「生きたい」だけだ。

艦内に火が回り、煙が喉へ噛みついた。煙は黒い。黒い煙は、言葉を奪う。私は片桐の腕を掴もうとしたが、次の衝撃で身体が投げ出された。投げ出される身体は、意志を失う。意志を失った瞬間、人はただの肉になる。肉になった私は、あの巨大な鋼の塊と同じ種類の「物」になった。

「総員退艦!」

どこかで声がした。声は命令の形をしていても、ここへ届くころにはただの音だった。音だけの命令ほど残酷なものはない。音は意味を運ばない。意味がないまま、人だけが落ちる。

私は海へ落ちた。水は冷たい。冷たさは正しい。正しい冷たさは、火の甘い誘惑を叱る。だが水は同時に、油を抱いていた。油はぬるりと皮膚に貼りつき、呼吸を奪い、光を鈍らせる。油の黒は、昼の海を夜にする。

振り返ると、大和が傾いていた。あの菊紋が、もう海面すれすれにある。金が、黒い油の上で鈍く光る。鈍い光は、終わりの光だ。終わりは美しくない。美しくないのに、私はその光景から目を逸らせなかった。目を逸らさぬことが、いま自分に残された唯一の「責任」だと思った。

次の瞬間、巨大な閃光が起こった。閃光は白く、白い光はすべての影を消した。影が消えると、世界は一瞬だけ完全になる。完全は美しい。美しい完全ほど危険だ。爆発の衝撃が海を叩き、私は水中へ沈み、耳の奥が裂けたように痛んだ。

水面へ浮き上がったとき、空はまた青かった。青は無関心の色だ。無関心の下で、油の黒が広がっていく。周囲には、叫びと、咳と、泡と、何かの破片が漂っていた。破片は、生活の断片だ。生活と戦は同じ素材で出来ている。だから戦は生活をこんなに簡単に破る。

片桐の姿は見えなかった。名を呼んだ。呼べば呼ぶほど、喉が油で詰まった。呼び声が届かないとき、人は自分の無力を知る。無力は、勝敗より冷たい。

やがて駆逐艦が近づき、縄が投げられた。縄は粗く、指に刺さった。刺さる痛みは生の証拠だ。私は縄にしがみつき、引き上げられた。甲板の木が冷たかった。冷たさは正しい。正しい冷たさが、私に「生き残った」という事実を突きつけた。

生き残るという事実は、いつも恥だ。恥は、死者より長生きする。

坊ノ岬の海は、今日も綺麗だ。綺麗だからこそ、私はここへ来る。汚いものは、綺麗なものの上でいちばんよく見える。あの日の油の黒、煙の臭い、片桐の唇の「生きたい」——それらは、綺麗な海の上でいちばん鮮明に浮かぶ。

人は言う。「大和は日本の象徴だった」と。象徴という言葉は便利だ。便利な言葉ほど危険だ。象徴にしてしまえば、死の臭いが消える。臭いが消えれば、物語が始まる。物語は甘い。甘い物語は、次の若い胸を熱くする。

私は熱くしたくない。だから、ここでただ潮の匂いを嗅ぎ、油の記憶を呼び戻し、咳をし、恥を抱える。恥は、忘却を拒む。忘却を拒む恥だけが、あの海を二度と「美談」にしないための、私の小さな抵抗だ。

岬の風が吹き、草が低く揺れた。草の揺れは、砲弾より軽い。軽い揺れほど、生に近い。私は帽子を押さえ、もう一度だけ海を見た。

満ちて引く海は、何も赦さない。赦さないまま、ただ続く。その続きの中で、私は今日も、片道の匂いを抱えて息をする。

 
 
 

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