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解の字

 朝の光は、昨日より少しだけ薄かった。 薄いのに、冷たくない。 冷たくない薄さは、胸の奥の角をそっと丸くする。

 縁側の端で、幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 袋の口に結んだ麻紐の蝶結びが、今日は少しだけ固い顔をしていた。 きのうは、ほどよく揺れていたのに。 たぶん、夜のあいだに、布団の中で押されて、結び目が小さく縮んだ。

 縮むと、ほどけにくい。 ほどけにくいと、胸も少しだけ縮む。

 幹夫は、結び目を引っぱりそうになって――止まった。 止まった「間」に、息を入れる。

 ――いき。

 母が台所の境目から、湯気の匂いを連れて言った。

「みき、結び、固いかね」

 幹夫は、すぐ「うん」と言う前に、指で結び目の端っこをそっと撫でた。 撫でると、糸が怒らない。 怒らないと、ほどける道が見える。

「……ちょっと、固い」

 母は笑わない笑いで言った。

「固いときは、引っぱらん。……端っこを探して、息だに」

 端っこ。 端は、逃げ道。 逃げ道があると、心は潰れない。

 父が縁側の端から顔を出して、ぽつりと言った。

「……結び目も……胸も……引っぱると固まる」

 父の言葉は短い。 短いのに、胸の中で座る。

 幹夫は結び目をもう一度見て、端っこをそっと探した。 蝶結びの輪の根元。 “ここ”っていう場所が、ちゃんとある。

 ――いき。

「……端っこ、あった」

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……それが解ける道だ」

 解ける。 まだ字は知らないのに、音だけが胸に残った。

 学校の教室は、潮の匂いじゃなく、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは、指先を少しだけ急がせる。

 正夫が机に座るなり、困った顔で言った。

「みきぼー……これ……ほどけん」

 正夫の机の端に、昨日の蝶結びがあった。 幹夫が「ありがとう」を結んで置いた、あの麻紐。 今日は、蝶じゃない。 ぎゅっと縮んで、ただのかたい丸になっている。

 正夫は引っぱった跡がある。 引っぱると、結び目は余地を失う。 余地がないと、ほどけない。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、心配の音。 心配は、走る前に息が要る。

 ――いき。

 幹夫は言った。

「……引っぱった?」

 正夫は眉を寄せて、素直に頷いた。

「うん……。だって、早く見せたかったんだもん。ほら、みんなに!」

 “早く”。 早いは悪くないけど、結び目には早いが刺さる。

 幹夫は正夫の指を見た。 指先が白くなっている。 白い指は、力が入っている指。

「……いったん、ま」

 幹夫は小さく言って、机の上に自分のま札を置こうとして――やめた。 学校だ。札は家の道具。 でも、道具がなくても、やり方はある。

 幹夫は指を止めて、息を入れた。

 ――いき。

「……息、して。……見て」

 正夫が、ふう、と息を吐いた。 吐けると、手の力が少し抜ける。

 幹夫は結び目を、いきなり掴まない。 机の上に置いたまま、指の腹でそっと撫でた。 撫でて、輪の“根元”を探す。 蝶の輪が、どこで縮んだか。 縮んだところは、ほんの少しだけ硬い。

 硬いところに、端っこが隠れている。

 ――いき。

「……ここ」

 幹夫は、爪を立てずに、爪の“角”だけを使って、糸の隙間をちょん、と広げた。 広げた分だけ、結び目が息をする。

 正夫が身を乗り出して、息を止めた。

「……おお……」

 幹夫は言った。

「……止めない。……息」

 正夫が慌てて息を吐いた。

 ふう……。

 その瞬間、結び目の端っこが、ほんのちょっとだけ顔を出した。 顔を出した端っこは、逃げ道の入り口。

 幹夫はその端っこを、引っぱらない。 “押す”みたいに、そっと戻す。 戻すと、輪がふわっと広がった。

 蝶結びが、蝶に戻る。

 正夫の顔がぱっと明るくなった。

「ほどけた!」

 幹夫の胸が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

「……よかった」

 正夫は蝶結びを持ち上げずに、机の上で指で撫でた。 撫でる撫で方が、さっきよりやさしい。

「みきぼー、すげぇ。どうやったの?」

 幹夫は、母の声と父の言葉を思い出して、ゆっくり言った。

「……端っこ、探す。……引っぱらない。……ま、して……息」

 正夫がにっと笑った。

「“ま、して息”のほどき方!」

 その言葉が、なぜか幹夫の胸をあたためた。 自分の家のやり方が、外でも使える。 外でも刺さらない形がある。

 ――いき。

 そのとき、先生が教室に入ってきて、黒板に大きく字を書いた。

 

 きゅっ、きゅっ。 チョークが乾いて鳴る。

「今日は“解く”の解。結び目を解く、わからないのを解く、誤解を解く。…これ、読めるな」

 教室が声を出す。

「とく!」

 声が集まる。 幹夫の胸が少し忙しくなって、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 先生が言った。

「解くってのは、切ることじゃない。引っぱってちぎることでもない。ほどいて、道を通して、元の形に戻すことだ」

 幹夫は、正夫の机の上の蝶結びを見た。 さっきの“ほどけた”が、先生の言葉とぴたりと合った。

 先生が黒板の字を指でとん、と叩いた。

「結ぶのが悪いんじゃない。固まったら、解けばいい。大事なのは、切らないことだ」

 切らない。 続の夜。 結の夜。 その続きが、今日、教室に来た。

 帰り道、正夫が蝶結びを揺らしながら言った。

「みきぼー、結び目ってさ、あばれるよね」

 あばれる。 結び目も、胸も。

 幹夫は袋を押さえて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

「……あばれるときは……端っこ、なくなる」

 正夫が首を傾げる。

「端っこ?」

「……うん。……逃げ道。……余地」

 正夫が、ぽん、と手を叩いた。

「余地! それ、好き! 余地があると、ほどけるんだ!」

 好き、という言葉は、胸を丸くする。 幹夫は少し照れて、うん、と小さく頷いた。

 家に帰ると、ちゃぶ台の端の「まちばこ」が、空っぽのまま座っていた。 空っぽは、来る場所。 でも今日は、空っぽが怖くない。 空っぽは、余地だと分かってきたから。

 ――いき。

 台所から、母の声。

「みき、ただいまだに。……ちょうどよかった。これ、ほどけんで困っとる」

 母が見せたのは、小さな布の包みだった。 新聞紙じゃない。 布。 布の包みはやさしい。 でも、紐が固い。

 母が苦笑いする。

「結び目、きつすぎた」

 父が縁側の端から、ぽつりと言った。

「……きつい結びは……刺さる」

 母は頷いた。

「刺さったで、ほどきたい」

 ほどきたい。 欲しい、みたいな言い方。 それが、家の中をやわらかくする。

 幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

「……ぼく、やる」

 母は急がせない声で言った。

「ええだに。……でも、焦らん。端っこ探して、息だに」

 幹夫は包みをいきなり持ち上げず、置き布の上にそっと置いた。 置いて、指の腹で結び目を撫でる。 撫でると、硬さが分かる。 硬さが分かると、怖さが形になる。

 ――いき。

 結び目の根元を、爪の角でちょん、と広げる。 広げた分だけ、紐が息をする。 端っこが、少しだけ顔を出す。

 幹夫はその端っこを、引っぱらない。 戻す。 戻すと、輪がほどける。

 布の包みが、ふわっとゆるむ。

 母が、小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……助かった」

 “助かった”は、重いのに丸い。

 父が、ぽつりと言った。

「……みき坊、上手になったな」

 上手。 父の“上手”は、誇らせる上手じゃない。 続けさせる上手。

 幹夫の喉の奥が熱くなった。 熱いのは嬉しい熱。 走らないように、息。

 ――いき。

「……正夫のも、ほどけた」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……外でも、家でも……解けるんだな」

 母が、ぶつけない声で言った。

「解けるって、守りだに。……結びっぱなしは、怖い。ほどける余地があると、続く」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「ほどけりゃ飯がうまい。……ほどけんと腹が荒れる。荒れりゃ手が切る」

 切る。 切らないために、ほどく。

 夕方。 父が戸口の置き布の上に、短い縄を置いた。 昨日の薪の束に使った縄の切れ端。 切れ端は短い。 短いのに、結び目がひとつ、固い顔で残っている。

 父がぽつりと言った。

「……これ、俺、ほどけん」

 “ほどけん”。 父が言うと、胸の奥に隠していたものが、少しだけ表に出る。

 幹夫は、胸がぽん、と鳴って、息をひとつ入れた。

 ――いき。

「……やる?」

 父は小さく頷いて、懐からま札を出して、縄の横にそっと置いた。

 とん。

 小さい音。 小さい音は眠る。

「……ま、してから……頼む」

 頼む。 頼むが言えると、縄も心もほどける道ができる。

 幹夫は縄の結び目を撫でた。 硬い。 硬いのに、端っこはある。 端っこは、必ずどこかにある。

 ――いき。

 爪の角をちょん、と差し込んで、端っこを探す。 探して、見つけたら――引っぱらない。 戻す。 戻すと、輪がふわっとゆるむ。

 結び目が、ほどけた。

 父が、ふう、と息を吐いた。

 ふう……。

「……胸も……そうやってほどけたらいいのにな」

 幹夫は返事を急がなかった。 急ぐと、言葉が刃になる日がある。 だから、間。

 ――いき。

「……端っこ、あるよ。……父ちゃん、もう“ま”ある」

 父の目が、幹夫の顔に落ちて、逸れなかった。 今ここで見る目。

 父が小さく言った。

「……ああ。……端っこ、探す」

 その声は、まだ震えている。 でも、折れていない。

 夜。 飯の匂いが家の奥へ落ち着いたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は白い。 でも、今日はその白さが、少し誇らしく見えた。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 解

 幹夫はその字を見た瞬間、正夫の蝶結びと、母の包みと、父の固い縄が一本の糸でつながったみたいに見えた。 結んだ糸は、切らなくていい。 ほどけば戻る。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは角(つの)だに。……角は尖っとるだら。尖っとるもんは、引っかかる」

 尖り。 胸の尖り。 結び目の尖り。

 母は右側をなぞった。

「こっちは刀(かたな)と牛みたいな形だに。……昔は、固いもんをほどいたり分けたりする手つきの字だに」

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「解くってのはな……尖ったところ(角)を見つけて、力で切らずに、手つきでほどく字だに。ほどけたら、わかる。わかったら、胸が軽くなる。……誤解も、結び目みたいだに。引っぱると固まる。息を入れて、端っこ探すと、ほどける」

 誤解。 胸の中で勝手に結ばれる結び目。 勝手に結ばれるから、勝手に苦しくなる。

 父が新聞紙の「解」を見て、ぽつりと言った。

「……俺、切るほうが早いって思ってた」

 母は否定しない。 低く言った。

「うん。……切れば一瞬だに。でも切ったら、糸が短くなる。短くなると、次が結べん。……だから、ほどけるように“ま”を残す」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「解けりゃ飯がうまい。……解けんと腹が荒れる。荒れりゃ言葉が刺さる」

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……刺さらんように……ほどく」

 ほどく。 父の口から出ると、守りの言葉になる。

 幹夫の胸がすとん、と座った。 座ったから、息。

――いき。

 幹夫は鉛筆を握った。 解を書く。

 一回目の「解」は、角が尖って、字が少し怖い顔になった。 尖っていると、切りそうに見える。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「尖ったらな……角を丸く書け。丸い角は刺さらん。……息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「解」は、角が少し座って、字が“ほどく顔”になった。 ほどく顔は、やさしい。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「解」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後の点を置く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、点を置いた。

「……点、置くと……結び目がほどけたみてぇだな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……ほどけたら、また結べるだに」

 母は「解」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、蝶結びの輪みたいに見えた。

 夜更け。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

がっこうまさお の むすびかたく なったみきぼうま して息 してといたうちかあちゃん の つつみ もといたおれ の なわといて もらった解きらんほどくたすかったいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……解くの、こわい日もある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも、端っこがあれば……ほどける」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……端っこ……探す」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「探せばええ。……“わからん”って言えるのも、解くだに。言えたら、ほどける道ができる」

 祖母が淡々と言う。

「道がありゃ飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 ほどける明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

とく(解)ってきらない ではしっこ を さがして息 してほどく じ なんだねきょうまさお の むすびとけたとうちゃん の なわ もとけたぼくうれしかったいき

 最後に、小さく「解」。 丸をひとつ。 蝶の輪の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは「ほどけん」の正夫の顔の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

解 はきらん ではしっこ を さがして息 して ほどくわかる の も ここうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうなわといて もらったこわかった けどま して息 してたのめた解 って じすこしおれ の むね の むすびゆるむありがとう

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――結び目がほどけた短い縄。 端っこが二つ、同じ長さでそっと並んでいる。 切っていない。ほどいただけ。 縄のそばに、父の震える字で小さく、

とけた

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその縄の端を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 解く。 切らない。 引っぱらない。 端っこを探して、息を入れて、ほどく。 ほどけたら、また結べる。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、固くなった結び目がほどけた“解けた”は届いた。 届いた端っこを落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、刺さらないほどき方を、そっと胸の中に座らせていった。

 
 
 

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