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語の字

 朝の富士は、輪郭だけが白くて、あとは薄い灰色に溶けていた。 溶けていると、近いのに遠い。 遠いと、目が急がない。

 縁側の「まちばこ」は、今日も空っぽだった。 空っぽは、来る場所。 来る場所があると、胸の中にも余地ができる。

 幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。

 ――いき。

 息をひとつ入れたところへ、戸の外から声が飛んできた。

「みきぼー!」

 正夫の声。 大きいのに、刃じゃない声。

 母が台所の境目から、急がせない声で返す。

「おう、正夫か。……朝っぱらから元気だに」

「うん! あのさ、みきぼー、きのうの字、またやる?」

 字。 毎晩の新聞紙の裏の字。 正夫が“字”を覚えていることが、幹夫の胸の奥をぽん、と叩いた。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 幹夫は縁側から庭へ降りて、正夫に近づいた。 走らない。走ると音が尖る。 尖ると、朝が刺さる日がある。

「うん。……きょうも、やる」

 言いながら、縁側の端を見た。 父がいた。 藁縄の蝶結びを、ほどいて、また結んでいる。 ほどける余地を残して、結ぶ。 指先が、今ここで働いている。

 父は二人の声を聞いて、ぽつりと言った。

「……きょうも、字か」

 “か”の語尾が柔らかい。 柔らかいと、誘っても刺さらない。

 正夫が嬉しそうに言った。

「うん! きのうは“きく”! もんのなかにみみ!」

 門の中に耳。 正夫の言い方が、少し誇らしげで、幹夫は喉の奥が熱くなった。 熱いと走りそうだから、息。

 ――いき。

 そのとき、庭の隅の糸電話の缶が、朝の光を少し返した。 白い糸がたわんで、影になっている。 影は細い。細いのに、ちゃんと道。

 正夫がその缶を見て、目を丸くした。

「ねえ、今日さ、糸電話でやろうよ! 字じゃなくて……話!」

 話。 “話”と言った瞬間、父の肩がふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。

 ――いき。

 正夫は父の肩の動きを知らない。 知らないのは悪くない。 ただ、今は“ここ”に合わせる必要がある。

 幹夫は、正夫へ小さく言った。

「……小さい声で、ね。……缶の中だと、やわらかい」

 正夫が頷く。

「うん! 缶の中の声、なんか丸いもんね」

 “丸い”。 その言い方が、幹夫の胸をほっとさせた。

 糸電話は、庭の端と端に、布の上で置かれた。 布の上だと、缶の底が鳴らない。 鳴らないと、父の肩も鳴らない。

 正夫は向こう側の缶を抱えて、楽しそうに言った。

「じゃあさ、“ものがたり”やろう! ひとりが一つ言って、つづきをもうひとりが言うの!」

 ものがたり。 その言葉が、幹夫の胸の中でふわっと膨らんだ。 膨らむのに刺さらないのは、缶の口が門みたいだからだ。

 幹夫は父を見た。 父は縁側の端に座って、缶を膝の上に置いている。 置いているだけ。 まだ、口を近づけていない。

 幹夫は、急がせないように言った。

「……父ちゃんも……やる?」

 言う前に、息。

 ――いき。

 父はすぐ「うん」とも「だめ」とも言わなかった。 少し間があって、その間に父の指が藁縄をいちど止める。 止めて、息を吐く。

 ふう……。

「……缶なら……言えるかもな」

 “言えるかも”。 かも、があると、余地がある。 余地があると、怖さが固まらない。

 正夫が向こう側から叫びそうになって、慌てて口を押さえて、小さい声で言った。

「やった!」

 小さい“やった”。 それが、家の空気を丸くした。

 幹夫は缶へ口を近づけた。 缶の中は暗い。 暗いと、言葉が落ち着く。

「……むかし……」

 (……むかし……)

 糸が声を運ぶ。 まっすぐなのに、刺さらない。

 幹夫は続けた。

「……ここに……つばめが……すんでいました」

 (……すんでいました)

 正夫が小さく笑って返す。

「……そしたら……ねこが……きました!」

 (……ねこが……きました!)

 父のほうの缶が、少しだけ動いた。 父が口を近づけた合図。

 父の声が、布の上にそっと落ちた。

「……ねこは……腹が……減ってた」

 (……へってた)

 父が“腹が減ってた”と言っただけで、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。 父の声が、物語の中で動いたからだ。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 正夫が続ける。

「……みきぼーは……石を……あげました!」

 (……あげました!)

 幹夫は、少し笑って、でも声は小さく置いた。

「……ねこは……石じゃなくて……魚が……ほしかった」

 (……ほしかった)

 正夫がふふ、と笑って言う。

「……だから……おばあちゃんが……飯を……くれました!」

 (……くれました!)

 その瞬間、父の缶がまた少し動いた。 父が、もう一度、声を置く。

「……飯の匂いは……人も……ねこも……落ち着かす」

 (……おちつかす)

 “人も”。 父が「人」と言った。 父の言葉が、物語から少しだけ外へはみ出した。 はみ出したところが、胸を撫でた。

 幹夫は喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 少し間が空いた。 糸がたわむ間。 その間が、怖くなかった。

 正夫が小さな声で言った。

「ねえ……父ちゃんも、むかしの話してよ。ほんとのやつ」

 ほんとのやつ。 その言い方が、刃になりかけるのを、幹夫は感じた。 “ほんと”は、胸の奥の硬いところを触りやすい。

 幹夫は、すぐに言葉を挟まなかった。 間を置いて、息。

 ――いき。

 父は、缶に口を近づけたまま、しばらく黙っていた。 黙りは、逃げじゃない。 黙りは、入口を探している黙りだ。

 父が、ふう、と息を吐いてから、ぽつりと言った。

「……俺が……小さいころ……」

 (……ちいさいころ……)

 “俺”。 “俺”が出た。 その一言で、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

「……この浜で……父さんと……網を……干した」

 (……あみを……)

 父さん。 幹夫の知らない父。 父の父。

 父の声は、缶の中で小さいのに、ちゃんと重い。 重いのに、刺さらない。 刺さらないのは、缶が門で、糸が道だからだ。

「……風が……強くて……網が……鳴った」

 (……なった)

 網が鳴った。 音の話なのに、父の声は震えすぎない。 震えないわけじゃない。 でも、折れていない。

「……俺……その音が……こわかった」

 (……こわかった)

 怖い、と言えた。 言えると、怖さは角が丸くなる。

「……父さんが……言った」

 (……いった)

 父は、ここで一瞬止まった。 止まって、息を吐く。

 ふう……。

「……『聞け』って……」

 (……きけ)

 聞け。 命令の「待て」みたいな響きなのに、父の声は刃じゃなかった。 “教える”の匂いだった。

「……『鳴ってるのは……網だ。……腹の音じゃない。……空の音でもない』って」

 (……あみだ)

 父は、そこで小さく笑いそうになって、笑わないまま続けた。

「……『腹が鳴ったら……飯だ』って……」

 (……めしだ)

 祖母の言い方と同じ道。 その道が、父の中にも昔からあった。

 正夫のほうの缶が、かすかに揺れた。 正夫が、息を飲んだ音。

「……で……」

 父が続ける。

「……父さんが……網を……触らせてくれた。……指で……ここ、って」

 (……ここ)

「……ここ、って……言われると……音が……遠くなる」

 (……とおくなる)

 “ここ”。 幹夫がいつも息を入れる「ここ」。 父の父も、父へ「ここ」を渡していた。

 幹夫の目の奥が熱くなった。 熱いと涙が走りそうだから、息。

 ――いき。

 父は最後に、小さく言った。

「……だから……今……おまえの……缶が……助かる」

 (……たすかる)

 助かる。 その二文字が、糸を通って胸へ届いた。

 届いたから、息。

 ――いき。

 正夫が、小さな声で言った。

「……父ちゃんの父ちゃん……かっこいい」

 父のほうで、少しだけ空気がやわらかくなった。 父が、短く返す。

「……かっこよくねぇ。……ただ……教えただけだ」

 “だけ”。 でも、その“だけ”が、人を守る。

 夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目は今日も痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 語

 幹夫はその字を見た瞬間、糸電話の暗い缶の中の父の声を思い出した。 小さいのに、ちゃんと“俺”が入っていた声。

 母は左側を指でなぞった。

「こっちは言だに。……ことば」

 ことば。 置くことば。 刺さらないことば。

 母は右側をなぞった。

「こっちは吾(われ)だに。……“わたし”の字」

 吾。 自分。 “俺”。 今日、父が出した“俺”。

 母は息をひとつ入れてから、低く言った。

「語るってのはな……言葉に、自分(吾)を入れる字だに。話すだけじゃない。『俺はこう思う』って、胸の中を外へ出して座らせる」

 座らせる。 箱に置く。 布の上に置く。 皿に置く。 そして、言葉にも座ってもらう。

 母は続けた。

「語りはな、長くなくてええ。……短くても、息が入ってれば、ちゃんと届く」

 届く。 父の声が届いた朝。

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「語るなら飯のあとだ。腹が空いとると語りが刃になる。……噛め」

 噛め。 太い道の言い方。

 父が新聞紙の「語」を見て、ぽつりと言った。

「……吾が入ってるの……こわいな」

 こわい。 正直な声。

 母は否定しなかった。

「うん。……でも、今日、吾、出た。缶の中でな。……出たら、戻れるだに」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

「……語ると……胸が……ほどけるな」

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 幹夫は鉛筆を握った。 言を書いて、吾を書く。

 一回目の「語」は、吾の角が尖って、字が硬い顔になった。 硬いと、自分が刺さる。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「尖ったらな……言を太らせりゃええ。言葉に飯の温度を入れるだに。……息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「語」は、少し丸い顔になった。 丸いと、物語の入口になる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「語」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 吾の最後の線を引く前に、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、線を置いた。

「……吾、って……俺の居場所みてぇだな」

 居場所。 縁側。 箱の布。 缶の暗さ。 そこへ“俺”が座れた朝。

 母は「語」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、糸電話の缶の口みたいに見えた。

 夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。

かん の なか でむかし を かたったこわかった けどいき していえたおれ って いえたみきぼう の かんたすかったいき

 “おれ って いえた”。 その一行が、幹夫の胸の奥をあたためた。

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……語るの、まだこわい」

 幹夫は返事を急がなかった。 間を置く。

 ――いき。

「……うん。……でも、父ちゃんの話、刺さらなかった。……丸かった」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

「……丸い語り……か。……それなら、続けられるかもな」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「続けりゃ馴染むだに。……語りは、結び目みたいに、ほどける余地を残せばええ」

 祖母が淡々と言う。

「余地があれば飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 語れる明日。

 幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。

(とうちゃんへ も)

 中に書く。

かたる ってことば にじぶん(われ) を いれる って こと なんだねきょうとうちゃんかん の なか でむかし の はなし したおれ って いえたぼくうれしかったいき

 最後に、小さく「語」。 丸をひとつ。 缶の丸。

 紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは父の「俺」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。

 翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、三つ重なっていた。

 一枚目、母の字。

かたる はことば に われ を いれるみじかく でもいき が はいれば とどくうん

 最後に、小さな丸。

 二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。

みきぼうきのうかたれたこわかった けどかん が もん に なったむね が すこし ほどけたおれ って いえたすこしここ に いられた

 その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。

 三枚目。 文字じゃなく――糸電話の白い糸の、短い切れ端。 端が蝶結びになっていて、ほどける余地がある。 刺さらない結び。 そのそばに、父の震える字で小さく、

かたる

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその糸を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 語る。 言葉に自分を入れて、外へ出して座らせる。 缶の門で、小さく丸く。 ほどける余地を残して。

 蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、父の「俺」と、昔の網の音の話は届いた。 届いた語りを落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、誰かの胸が刺さらないように、言葉の端をそっと丸くしていった

 
 
 

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