語の字
- 山崎行政書士事務所
- 2月13日
- 読了時間: 9分

朝の富士は、輪郭だけが白くて、あとは薄い灰色に溶けていた。 溶けていると、近いのに遠い。 遠いと、目が急がない。
縁側の「まちばこ」は、今日も空っぽだった。 空っぽは、来る場所。 来る場所があると、胸の中にも余地ができる。
幹夫は首の布の袋を掌で押さえた。 揺れても鳴らない石。 鳴らないのに、ちゃんと重い。
――いき。
息をひとつ入れたところへ、戸の外から声が飛んできた。
「みきぼー!」
正夫の声。 大きいのに、刃じゃない声。
母が台所の境目から、急がせない声で返す。
「おう、正夫か。……朝っぱらから元気だに」
「うん! あのさ、みきぼー、きのうの字、またやる?」
字。 毎晩の新聞紙の裏の字。 正夫が“字”を覚えていることが、幹夫の胸の奥をぽん、と叩いた。
鳴ったから、息。
――いき。
幹夫は縁側から庭へ降りて、正夫に近づいた。 走らない。走ると音が尖る。 尖ると、朝が刺さる日がある。
「うん。……きょうも、やる」
言いながら、縁側の端を見た。 父がいた。 藁縄の蝶結びを、ほどいて、また結んでいる。 ほどける余地を残して、結ぶ。 指先が、今ここで働いている。
父は二人の声を聞いて、ぽつりと言った。
「……きょうも、字か」
“か”の語尾が柔らかい。 柔らかいと、誘っても刺さらない。
正夫が嬉しそうに言った。
「うん! きのうは“きく”! もんのなかにみみ!」
門の中に耳。 正夫の言い方が、少し誇らしげで、幹夫は喉の奥が熱くなった。 熱いと走りそうだから、息。
――いき。
そのとき、庭の隅の糸電話の缶が、朝の光を少し返した。 白い糸がたわんで、影になっている。 影は細い。細いのに、ちゃんと道。
正夫がその缶を見て、目を丸くした。
「ねえ、今日さ、糸電話でやろうよ! 字じゃなくて……話!」
話。 “話”と言った瞬間、父の肩がふっと上がりかけて――止まった。 止まった「間」に、幹夫は袋を押さえて息を入れた。
――いき。
正夫は父の肩の動きを知らない。 知らないのは悪くない。 ただ、今は“ここ”に合わせる必要がある。
幹夫は、正夫へ小さく言った。
「……小さい声で、ね。……缶の中だと、やわらかい」
正夫が頷く。
「うん! 缶の中の声、なんか丸いもんね」
“丸い”。 その言い方が、幹夫の胸をほっとさせた。
糸電話は、庭の端と端に、布の上で置かれた。 布の上だと、缶の底が鳴らない。 鳴らないと、父の肩も鳴らない。
正夫は向こう側の缶を抱えて、楽しそうに言った。
「じゃあさ、“ものがたり”やろう! ひとりが一つ言って、つづきをもうひとりが言うの!」
ものがたり。 その言葉が、幹夫の胸の中でふわっと膨らんだ。 膨らむのに刺さらないのは、缶の口が門みたいだからだ。
幹夫は父を見た。 父は縁側の端に座って、缶を膝の上に置いている。 置いているだけ。 まだ、口を近づけていない。
幹夫は、急がせないように言った。
「……父ちゃんも……やる?」
言う前に、息。
――いき。
父はすぐ「うん」とも「だめ」とも言わなかった。 少し間があって、その間に父の指が藁縄をいちど止める。 止めて、息を吐く。
ふう……。
「……缶なら……言えるかもな」
“言えるかも”。 かも、があると、余地がある。 余地があると、怖さが固まらない。
正夫が向こう側から叫びそうになって、慌てて口を押さえて、小さい声で言った。
「やった!」
小さい“やった”。 それが、家の空気を丸くした。
幹夫は缶へ口を近づけた。 缶の中は暗い。 暗いと、言葉が落ち着く。
「……むかし……」
(……むかし……)
糸が声を運ぶ。 まっすぐなのに、刺さらない。
幹夫は続けた。
「……ここに……つばめが……すんでいました」
(……すんでいました)
正夫が小さく笑って返す。
「……そしたら……ねこが……きました!」
(……ねこが……きました!)
父のほうの缶が、少しだけ動いた。 父が口を近づけた合図。
父の声が、布の上にそっと落ちた。
「……ねこは……腹が……減ってた」
(……へってた)
父が“腹が減ってた”と言っただけで、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。 父の声が、物語の中で動いたからだ。
鳴ったから、息。
――いき。
正夫が続ける。
「……みきぼーは……石を……あげました!」
(……あげました!)
幹夫は、少し笑って、でも声は小さく置いた。
「……ねこは……石じゃなくて……魚が……ほしかった」
(……ほしかった)
正夫がふふ、と笑って言う。
「……だから……おばあちゃんが……飯を……くれました!」
(……くれました!)
その瞬間、父の缶がまた少し動いた。 父が、もう一度、声を置く。
「……飯の匂いは……人も……ねこも……落ち着かす」
(……おちつかす)
“人も”。 父が「人」と言った。 父の言葉が、物語から少しだけ外へはみ出した。 はみ出したところが、胸を撫でた。
幹夫は喉の奥が熱くなって、走りそうになったから、息をひとつ入れた。
――いき。
少し間が空いた。 糸がたわむ間。 その間が、怖くなかった。
正夫が小さな声で言った。
「ねえ……父ちゃんも、むかしの話してよ。ほんとのやつ」
ほんとのやつ。 その言い方が、刃になりかけるのを、幹夫は感じた。 “ほんと”は、胸の奥の硬いところを触りやすい。
幹夫は、すぐに言葉を挟まなかった。 間を置いて、息。
――いき。
父は、缶に口を近づけたまま、しばらく黙っていた。 黙りは、逃げじゃない。 黙りは、入口を探している黙りだ。
父が、ふう、と息を吐いてから、ぽつりと言った。
「……俺が……小さいころ……」
(……ちいさいころ……)
“俺”。 “俺”が出た。 その一言で、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。
鳴ったから、息。
――いき。
「……この浜で……父さんと……網を……干した」
(……あみを……)
父さん。 幹夫の知らない父。 父の父。
父の声は、缶の中で小さいのに、ちゃんと重い。 重いのに、刺さらない。 刺さらないのは、缶が門で、糸が道だからだ。
「……風が……強くて……網が……鳴った」
(……なった)
網が鳴った。 音の話なのに、父の声は震えすぎない。 震えないわけじゃない。 でも、折れていない。
「……俺……その音が……こわかった」
(……こわかった)
怖い、と言えた。 言えると、怖さは角が丸くなる。
「……父さんが……言った」
(……いった)
父は、ここで一瞬止まった。 止まって、息を吐く。
ふう……。
「……『聞け』って……」
(……きけ)
聞け。 命令の「待て」みたいな響きなのに、父の声は刃じゃなかった。 “教える”の匂いだった。
「……『鳴ってるのは……網だ。……腹の音じゃない。……空の音でもない』って」
(……あみだ)
父は、そこで小さく笑いそうになって、笑わないまま続けた。
「……『腹が鳴ったら……飯だ』って……」
(……めしだ)
祖母の言い方と同じ道。 その道が、父の中にも昔からあった。
正夫のほうの缶が、かすかに揺れた。 正夫が、息を飲んだ音。
「……で……」
父が続ける。
「……父さんが……網を……触らせてくれた。……指で……ここ、って」
(……ここ)
「……ここ、って……言われると……音が……遠くなる」
(……とおくなる)
“ここ”。 幹夫がいつも息を入れる「ここ」。 父の父も、父へ「ここ」を渡していた。
幹夫の目の奥が熱くなった。 熱いと涙が走りそうだから、息。
――いき。
父は最後に、小さく言った。
「……だから……今……おまえの……缶が……助かる」
(……たすかる)
助かる。 その二文字が、糸を通って胸へ届いた。
届いたから、息。
――いき。
正夫が、小さな声で言った。
「……父ちゃんの父ちゃん……かっこいい」
父のほうで、少しだけ空気がやわらかくなった。 父が、短く返す。
「……かっこよくねぇ。……ただ……教えただけだ」
“だけ”。 でも、その“だけ”が、人を守る。
夕方。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆を置く。 継ぎ目は今日も痛くない。
「幹夫。……今日はこれだに」
母がゆっくり書いた。
語
幹夫はその字を見た瞬間、糸電話の暗い缶の中の父の声を思い出した。 小さいのに、ちゃんと“俺”が入っていた声。
母は左側を指でなぞった。
「こっちは言だに。……ことば」
ことば。 置くことば。 刺さらないことば。
母は右側をなぞった。
「こっちは吾(われ)だに。……“わたし”の字」
吾。 自分。 “俺”。 今日、父が出した“俺”。
母は息をひとつ入れてから、低く言った。
「語るってのはな……言葉に、自分(吾)を入れる字だに。話すだけじゃない。『俺はこう思う』って、胸の中を外へ出して座らせる」
座らせる。 箱に置く。 布の上に置く。 皿に置く。 そして、言葉にも座ってもらう。
母は続けた。
「語りはな、長くなくてええ。……短くても、息が入ってれば、ちゃんと届く」
届く。 父の声が届いた朝。
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「語るなら飯のあとだ。腹が空いとると語りが刃になる。……噛め」
噛め。 太い道の言い方。
父が新聞紙の「語」を見て、ぽつりと言った。
「……吾が入ってるの……こわいな」
こわい。 正直な声。
母は否定しなかった。
「うん。……でも、今日、吾、出た。缶の中でな。……出たら、戻れるだに」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
「……語ると……胸が……ほどけるな」
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
幹夫は鉛筆を握った。 言を書いて、吾を書く。
一回目の「語」は、吾の角が尖って、字が硬い顔になった。 硬いと、自分が刺さる。
「ええ」
母が言った。転んでもいい「ええ」。
「尖ったらな……言を太らせりゃええ。言葉に飯の温度を入れるだに。……息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「語」は、少し丸い顔になった。 丸いと、物語の入口になる。
父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。
「……俺も、書く」
父の「語」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 吾の最後の線を引く前に、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、線を置いた。
「……吾、って……俺の居場所みてぇだな」
居場所。 縁側。 箱の布。 缶の暗さ。 そこへ“俺”が座れた朝。
母は「語」の横に、小さな丸をひとつ描いた。 父の字の横にも、もうひとつ。 丸が二つ並ぶと、糸電話の缶の口みたいに見えた。
夜。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、今日のページに震える字で書いた。
かん の なか でむかし を かたったこわかった けどいき していえたおれ って いえたみきぼう の かんたすかったいき
“おれ って いえた”。 その一行が、幹夫の胸の奥をあたためた。
父がぽつりと言った。
「……みき坊。……語るの、まだこわい」
幹夫は返事を急がなかった。 間を置く。
――いき。
「……うん。……でも、父ちゃんの話、刺さらなかった。……丸かった」
父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。
「……丸い語り……か。……それなら、続けられるかもな」
母の低い声が、暗い中で落ちた。
「続けりゃ馴染むだに。……語りは、結び目みたいに、ほどける余地を残せばええ」
祖母が淡々と言う。
「余地があれば飯がうまい。うまけりゃ、また明日だ」
また明日。 語れる明日。
幹夫は袋を押さえて、口の中で小さく言った。
――いき。
寝る前、幹夫は小さな紙に封筒の形を描いた。 宛名の下に、小さく足す。
(とうちゃんへ も)
中に書く。
かたる ってことば にじぶん(われ) を いれる って こと なんだねきょうとうちゃんかん の なか でむかし の はなし したおれ って いえたぼくうれしかったいき
最後に、小さく「語」。 丸をひとつ。 缶の丸。
紙を折り畳んで、縫い箱の下へ差し込む。 指先が少し震えた。震えは父の「俺」の名残。 でも差し込めた。差し込めたぶん、胸の中の警報は尖らない。
翌朝。 縫い箱は畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。
箱の下の返事は、三つ重なっていた。
一枚目、母の字。
かたる はことば に われ を いれるみじかく でもいき が はいれば とどくうん
最後に、小さな丸。
二枚目、父の字。 線が震えている。 震えているのに、折れていない。
みきぼうきのうかたれたこわかった けどかん が もん に なったむね が すこし ほどけたおれ って いえたすこしここ に いられた
その下に、丸がひとつ。 昨日より、少しだけ丸い丸。
三枚目。 文字じゃなく――糸電話の白い糸の、短い切れ端。 端が蝶結びになっていて、ほどける余地がある。 刺さらない結び。 そのそばに、父の震える字で小さく、
かたる
と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。
幹夫はその糸を掌にのせて、息をひとつ入れた。
――いき。
語る。 言葉に自分を入れて、外へ出して座らせる。 缶の門で、小さく丸く。 ほどける余地を残して。
蒲原には、サイレンは届かなかった。 けれど今朝、父の「俺」と、昔の網の音の話は届いた。 届いた語りを落とさないように、幹夫は丸い石みたいに息を転がして――今日も、誰かの胸が刺さらないように、言葉の端をそっと丸くしていった





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