間の字
- 山崎行政書士事務所
- 2 日前
- 読了時間: 8分

雨上がりの縁側は、板の間に湿り気を残していた。 濡れた木は、音を吸う。 吸った音は、まだ外へ出てこない。 障子の白が、薄い朝の光を受けて、少しだけ青く見えた。
幹夫は縁側の端に座り、首から下げた布の袋を掌で押さえた。 中には、小さな木片。 昨日、父が鉋(かんな)で削った、ひらひらの削り花。 軽い。 軽いのに、ちゃんと“今日”の匂いがする。 湿った杉の匂い。 それは鼻の奥に、静かに座る匂い。
――いき。
息を入れると、縁側と庭のあいだに、小さな“ま”が生まれる。 その“ま”は、雨だれが落ちきる前の、いちばん柔らかい場所。
「まちばこ」のふたが、ほんの少しだけ浮いていた。 浮いているのは、誰かが“言う間”を探して、やっと入れた印だ。
母がふたを開ける。 中には、紙。 角は丸く折ってある。 丸い角は刺さらない。 刺さらないから、手が取れる。
母の目が、文字を追って、そこで止まった。
もん が あかん あいだ なくて こわいよかったら みてください ささき
あいだ、なくて。 門が開かない。 門が開かないのは、木が膨らんだせいかもしれない。 膨らむと、隙が消える。 隙が消えると、木は怒るみたいに動かなくなる。
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、佐々木さんの“こわい”が届いた音。
――いき。
父が土間から顔を出した。 紙を受け取る前に、手を一度、膝に置く。 置くと、手の先が急がない。
父の目が「もん」「あいだ」で止まる。 止まると、肩がふっと上がりかける。
上がりかけて――止まった。
止まった「間」に、父は懐に触れて、布の中の小さな札を撫でた。 “ま”の札。 父は、怒りの肩が上がる前に、それを撫でる。
ふう……。
「……行くか」
短い。 短いのに、“道”が入っている。 母が頷いた。
「うん。……木は湿ると太るだに。太ると、間がなくなる。間がないと、開かん」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「間は、残しとけ。……残さんと、冬も夏も刺さる」
刺さる。 その言葉が、幹夫の背中に小さく冷たさを置いた。 刺さる前の“前”。 幹夫の得意な“前”。
父は納屋から鉋と、薄い木の楔(くさび)を出してきた。 鉋の刃は、触れなくても怖い。 怖いのに、父の手に乗ると、静かに座る。
「……みき坊。……門を押すな。……押すと余計、噛む。……支えろ」
支える。 支える手は、押しこまない手。
幹夫は頷く前に、息を入れた。
――いき。
「……うん」
佐々木さんの家は、竹垣の匂いがした。 雨で黒くなった竹。 黒い竹は、朝の白さを受け止めている。
門の前に、佐々木のおじさんが立っていた。 指先がせわしなく、腰の布をいじっている。 いじる指は、言葉より先に困りを出す。
「おはようだに……朝からすまん。門がな、昨日から……」
謝る声は、宙に浮きやすい。 浮くと、戻って刺さる。 幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
父はすぐ「ええよ」と切らなかった。 まず、門の縁を見る。 木が水を吸って、縁が少しだけ盛り上がっている。 盛り上がりは、怒りじゃなく――膨らみ。
「……湿りだ」
名前を置く。 置くと、怖さが全部にならない。
ふう……。
父は門を、いきなり引かない。 指の腹で縁を撫でて、どこが噛んでいるか探す。 探すと、困りが形になる。 形になると、手が荒れない。
「……ここ。……ここが、太ってる」
父の肩が、ふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。
止まった「間」に、幹夫は小さく言った。
「……ま」
父が、ふう、と吐いた。
ふう……。
「……ま、だな」
父も言えた。 言えると、門の怖さが、門のままで座る。
父は門の下に薄い楔を差し込んだ。 差し込むのは、こじ開けるためじゃない。 門を“少し浮かせて”、木がこすれる場所を離すため。
「……持て。……こっち、支えるだけでいい」
幹夫は門に手を添えた。 掴まない。 押さない。 ただ、倒れないように“いる”。
――いき。
父が鉋を当てる。 こす、こす。
木が削れる音は、乾いた音なのに、雨の匂いが混じっている。 削り花が、ひらひら落ちる。 落ちるのに、刺さらない。 軽い“落ち”は、床に座る。
佐々木のおじさんが、喉の奥でごくりと鳴らした。
「削りすぎると……寒うなるか?」
父は、すぐ「ならん」と切らない。 一度、手を止める。 止めると、言葉の居場所ができる。
「……削りすぎると、風が入る。……風は、刺さる。……だから、少しだ」
少し。 祖母の“残しとけ”。 母の“間がなくなる”。 全部、同じ糸でつながってくる。
父は門を一度、そっと押した。 ぐ……。
動かない。 動かない音が、胸に来る。 来る前に、幹夫は息を入れた。
――いき。
父がもう一度、鉋を当てる。 こす、こす。 こす。
削り花が、今度は少し長く落ちた。 長い削り花は、門と地面のあいだに、白い線みたいに座った。
父が言った。
「……今だ。……佐々木さん、引かんでいい。……俺が開ける。……みき坊、ここで支えろ」
ここで。 線の言葉。 守りの言葉。
父が門に指をかける。 かけるけど、引っぱりこまない。 木に“逃げ道”を作るみたいに、ゆっくり。
ぎ……。
門が、鳴いた。 鳴ると、肩が上がりやすい。
父の肩が、ふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。
止まった「間」に、幹夫は小さく言った。
「……ま」
父が、ふう、と吐く。
ふう……。
ぎ……、……すとん。
門が、開いた。 すとん、は刺さらない落ち方。 開いた“隙”に、朝の光がふっと入る。 入っても痛くないのは、ちょうどいい“間”ができたから。
佐々木のおじさんの肩が、すとん、と落ちた。
「……開いた……助かった……いや、違う。……間が……戻った」
戻った。 “戻る”は、最初からあったものが、ちゃんと帰ってくる言葉。
父は門の縁を指で撫でて言った。
「……木も、人も……詰めると噛む。……少し、逃げる間が要る」
佐々木のおじさんが、目を細めた。 細い目は、受け取る目。
「うち……この頃、息する間もなくてな……」
息する間。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
父は、すぐ慰めない。 慰める言葉は、押しこむと刺さる。 父は一度、鉋を布に包んだ。 包むと、刃が暴れない。
「……今日は、開いた。……それで、いい」
押しつけない“いい”。 座れる“いい”。
学校の教室は、濡れた雑巾の匂いがした。 雨の日の匂い。 雨の日の匂いは、声の角を丸くする。
先生が黒板に、大きく字を書いた。
間
きゅっ、きゅっ。
「今日は“あいだ”の間。読めるな」
教室が声を出す。
「あいだ!」「ま!」
声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端に指を置いて、“ここ”を作った。
――いき。
先生が門の形を指でなぞった。
「外側は“門”だ。門があるってことはな、開け閉めがある。開け閉めの“間”があるってことだ」
先生は、教室の引き戸を少しだけ開けた。 開けすぎない。 ほんの少し。
「ほら。これが“間”だ。開けっぱなしじゃない。閉めっぱなしでもない。――ちょうどいいところを残す」
ちょうどいいところ。 父の鉋。 削りすぎない。 削らなさすぎない。 佐々木さんの肩が落ちた“すとん”。 全部、同じ形をしている。
先生が続けた。
「中の“日”は、日だ。太陽だ。門の間から、光が見える。――光が見える隙がある。だから“間”だ」
隙。 隙は、弱さじゃない。 隙は、息が座る場所。
先生は声を少し落として言った。
「大事なこと。間を取るのは怠けじゃない。怒らないための仕事だ。急ぐと、言葉が刺さる。――刺さる前に、間を置け」
刺さる前。 幹夫の得意な“前”。
休み時間、正夫が幹夫の肘をつついた。
「みきぼー、今日の字、好きそうだな。だっていつも『ま』って言うもん」
幹夫はすぐ答えず、息を入れてから言った。
――いき。
「……『ま』って言うと……胸が、座る」
正夫が首を傾げる。
「座るって、なに?」
幹夫は、机の上に消しゴムを置いた。 置く。 動かない。 動かないと、見える。
「……急ぐと、消しゴム落ちる。……落ちる前に、止める。……止める場所が、間」
正夫が、ふっと笑った。
「なるほどな! じゃあ俺も言う。『ま』!」
正夫の「ま」は少し高くて、跳ねた。 跳ねても、刺さらない。 跳ねる“ま”も、ある。
夕方。 家に戻ると、台所の湯気が、障子の下から細く流れていた。 湯気は形がないのに、家の中の“間”を埋めていく。
母が新聞紙の裏を広げた。 竹を継いだ鉛筆。 継ぎ目は白い。 白いのに、痛くない。
「幹夫。……今日はこの字だに」
母がゆっくり書いた。
間
幹夫はその字を見た瞬間、朝の門のぎ……と、すとん、が一緒に浮かんだ。 浮かぶと、胸がぽん、と鳴る。 鳴ったから、息。
――いき。
母は外側を指でなぞった。
「これ、門だに。門は、閉めると守る。開けると通す。――どっちも大事。だから“間”が要る」
父が縁側の端で、布の札を撫でた。 撫でると、肩が上がりきらない。
「……俺、詰める癖がある。……詰めると、門が噛む」
祖母が鍋の向こうで淡々と言う。
「詰めると飯が焦げる。……焦げると腹が立つ。……腹が立つと手が出る。……間、入れとけ」
父が小さく息を吐いた。
ふう……。
「……今朝、門が鳴った。……でも、みき坊の『ま』で……刃が暴れんかった」
幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。
――いき。
幹夫は鉛筆を握った。 間を書く。
一回目の「間」は、門がぎゅっと狭くなって、中の日が苦しそうに見えた。 苦しい字は、読む人の胸も狭くする。
「ええ」
母が言った。 転んでもいい「ええ」。
「狭そうならな……外を少し広げろ。中の日に、息の場所を作れ。――息、入れてから」
幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。
――いき。
二回目の「間」は、門の内側に、光が通る隙ができた。 隙がある字は、座る。 座ると、刺さらない。
父が、新聞紙の端に手を伸ばした。
「……俺も、書く」
父の線は少し震えた。 震えるのに、折れていない。 最後の横線の前で、父は一度止まって――息を吐いた。
ふう……。
吐いてから、線を置いた。
「……止まると……字が、怒らん」
母が小さく頷く。
「うん。……止まるってのも、仕事だに」
夜。 雨戸を閉めきる前に、父は少しだけ戸を残した。 ほんの指一本ぶん。 そこから、夜の風が小さく入る。 小さい風は、刺さらない。 眠りを座らせる風。
幹夫は首の袋から、削り花を取り出して掌にのせた。 ひらひら。 軽い。 軽いのに、門を開けた音が入っている。
――いき。
“間”は、隙。 隙は、怖さじゃない。 詰めないための場所。 言葉が刺さらないための場所。 木が噛まないための場所。 門の中に日が見えるみたいに、胸の中にも、光が見える場所を残す。
幹夫は削り花を、布の袋に戻す前に、いったん指で押さえた。 押さえると、散らない。 散らないと、明日も続く。
――いき。
蒲原の夜は、遠い波の音を抱えている。 波と波のあいだにも、ちゃんと“間”がある。 間があるから、波は続いて、刺さらずに、岸へ届く。 幹夫はその“間”を、胸の中にもひとつ置いて――明日の門が噛まないように、明日の言葉が刺さらないように、そっと息を座らせていった。





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