top of page

静の字


 朝の雨戸は、まだ冷たい木の音を抱えていた。 戸袋の奥に、夜の風が残した擦れ。 擦れは、鳴る前の怒りみたいに潜っている。

 蝉は、まだ鳴かない。 鳴かない蝉は、町の上に薄い布をかけているみたいだ。 薄いのに、ちゃんと“静”。

 幹夫は縁側のふちに座って、首の布の袋を掌で押さえた。 袋の中には、青い欠片。 海で拾った瓶のガラスが、波で丸くなったやつ。 青は、空みたいで、海みたいで、怒らない色。 角がないから、刺さらない。 刺さらない青は、胸の奥に座る。

 ――いき。

 息を入れると、耳が細くなる。 細い耳は、鳴ってない音まで聴こうとする。 鳴ってない音のほうが、ときどき胸に来る。

 「まちばこ」のふたが、ほんの少しだけ浮いていた。 浮いているのは、誰かの困りが入った印。 困りは、言う前に角が立つから、箱で丸くする。

 母がふたを開ける。 中には、小さな紙。 角が丸く折ってある。 丸い角は刺さらない。

 母の目が、紙の文字を追って、そこで止まった。

あめど がたがたよる こわいしずか に できたら みてください こばやし

 がたがた。 雨戸のがたがたは、ただの音じゃない。 夜のがたがたは、胸の中で“争い”になることがある。 争いは、音の形をして入ってくる。

 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。 鳴ったのは、小林さんの“こわい”が届いた音。

 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父が土間から顔を出した。 紙を受け取る前に、いったん膝の上の布に置く。 置くと、手が急がない。 父は指の腹で端を撫でる。 撫でると、紙が暴れない。 暴れないと、言葉も刺さらない。

 父の目が「がたがた」で止まる。 止まると、肩がふっと上がりかける。

 上がりかけて――止まった。

 止まった「間」に、父は懐へ触れて、丸い角のま札を撫でた。 撫でると、肩が上がりきらない。

 ふう……。

「……雨戸か」

 短い。 短いのに、夜の道が入っている。

 母が頷いた。

「うん。……雨戸は閉めると守るだに。でも、がたがたすると、守りが刺さる」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「夜の音は増える。……昼の一つが、夜は十だ。……静けさは、音を殺すんじゃねえ。刺さんように座らせろ」

 座らせろ。 幹夫の胸の柱が、すっと立った。 座る、の言葉は、幹夫にいつも道をくれる。

 父が納屋から小さな楔(くさび)と、古い布と、木槌を出してきた。 楔は軽い。 軽いのに、止める力がある。 布は柔らかい。 柔らかいのに、音を丸くする。

「……みき坊。……布、当てる場所を見る。……押すな。……添えろ」

 添える。 押しこまない添え方。 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん」

 小林さんの家は海側の道の先だった。 朝の潮の匂いが、まだ低く地面に座っている。 潮は、静かなときほど匂いがよく分かる。

 小林のおばさんが戸口に立っていた。 頬が少しこわばっている。 こわばりは、声より先に顔に出る。

「おはようだに……朝からすまんね。……夜、風が吹くと、雨戸が……」

 おばさんの指が、雨戸の桟(さん)を示す。 桟の隙間が、ほんの少しだけ広い。 広いと、動く。 動くと、ぶつかる。 ぶつかると、がたがたになる。

 幹夫の胸がぽん、と鳴った。 鳴ったから、息。

 ――いき。

 父はすぐ「ええよ」と切らなかった。 まず、雨戸を触らずに見る。 戸の端の擦れた白。 戸袋の木の痩せ。 見えると、怖さが形になる。 形になると、手が荒れない。

 父の肩がふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。

 止まった「間」に、父が口の中で言った。

「……がたつきだ」

 名前を置く。 置けると、夜の怖さが全部にならない。

 ふう……。

 父は雨戸をいきなり揺らさない。 まず、戸を少しだけ引き出して、重さを確かめる。 重いときは急がない。 少し引くと、木がこつ、と鳴った。 こつ、は刺さらない音。

「……ここで当たってる。……木が痩せて、間が増えた」

 間が増えた。 間は、少なすぎても刺さる。 多すぎても刺さる。 ちょうどいい間だけが、静けさになる。

 父が布を折って、戸袋の内側へ当てた。 当てるけれど、詰めこまない。 布に“息”の余地を残す。

「……みき坊。……ここ押さえろ。……受ける手だ」

 受ける手。 幹夫は布の上から、指の腹でそっと押さえた。 押さえると、布が逃げない。 逃げないと、音が走らない。

 ――いき。

 父が楔を差し込む。 とん。 とん。

 木槌の音は小さい。 小さいのに、胸の硬いところを起こしやすい。 父の肩がふっと上がりかける。

 上がりかけて――止まる。

 止まった「間」に、幹夫は小さく言った。

「……ま」

 父が、ふう、と吐いた。

 ふう……。

「……ま」

 父も言えた。 言えると、木槌の音が音のままで座る。

 楔が座った。 座ると、雨戸が揺れなくなる。 揺れないと、がたがたが“争い”にならない。

 父が雨戸を少し揺らしてみた。 今度は――

 こつ。 こつ。

 丸い音。 丸い音は、刺さらない。

 小林のおばさんの肩が、すとん、と落ちた。

「……静かになった……」

 静か。 その言葉が、家の中の空気を少しだけ軽くした。

 父はすぐ「たいしたことない」と返さず、まず頷いた。 頷いてから、言葉を置いた。

「……うん。……音を消したんじゃない。……座らせた」

 座らせた。 祖母の言う“座らせろ”。 父の口から出ると、胸に灯がともるみたいに温い。

 おばさんが恐る恐る言った。

「……夜のがたがた、怖くてな。……警報じゃないのに、胸が勝手に……」

 胸が勝手に。 胸の中の“争い”。 争いは、外にない日も、胸の中で起きる。

 父の肩が、ふっと上がりかける。 上がりかけて――止まる。

 止まった「間」に、父が鉢巻の代わりに、額を指で押さえた。 額を押さえると、言葉が尖らない。

「……怖いのは、悪さじゃねえ。……怖いって言えたら、半分、静かになる」

 押しつけない言い方。 受け取れる言い方。

 幹夫も、息をひとつ入れてから言った。

 ――いき。

「……夜、音が増えるで……昼に、なおすと……刺さらない」

 おばさんの目が少しだけ柔らかくなった。 柔らかい目は、受け取る目。

「……ありがと。……今夜、眠れる」

 眠れる。 眠れる、は静けさのいちばんの形。

 帰り道。 海が、きらり、と光った。 光るのに、うるさくない。 光る静けさがある。

 幹夫は袋の青い欠片を指で撫でた。 青は怒らない。 怒らない青は、胸の中の争いを少し沈ませる。

 ――いき。

 学校の教室は、チョークの粉の匂いがした。 乾いた匂い。 乾いた匂いは線の角を立てやすい。 先生が黒板に、大きく字を書いた。

 静

 きゅっ、きゅっ。

「今日は“しずか”の静。読めるな」

 教室が声を出す。

「しずか!」

 声が集まると、胸が忙しくなる。 幹夫は机の端に指を置いて、“ここ”を作った。

 ――いき。

 先生が字の左を指でなぞった。

「左は青だ。青は空の色でも、海の色でもある。澄んでる色だな」

 先生が右を指でなぞった。

「右は争(あらそう)だ。――な、静の中に争いが入ってるだろ」

 教室がざわ、とした。 ざわ、は争いの芽みたいに広がる。 広がる前に、先生が手を上げた。 手を上げるのは、止める線。

「静かってのはな、争いが“ない”ってことじゃない。争いが起きても、息を入れて、間を置いて、手を下ろすことだ。――争いを座らせる字だ」

 座らせる。 今朝の雨戸。 こつ、こつ、の丸い音。 幹夫の胸の奥が、ぽん、と鳴った。

 ――いき。

 先生が続けた。

「青い空の下で、争いをやめる。青は澄む色だ。争は引っぱり合う手だ。――引っぱり合いを、やめて、静かにする。これが静」

 正夫が小声で言った。

「みきぼー、静の字、争い入ってんのに静かって、おもしろいな」

 幹夫はすぐ答えず、息を入れてから言った。

 ――いき。

「……争いが……座ると……静か」

 正夫が目を丸くする。

「座るって言い方、みきぼーっぽい!」

 夕方。 家の中に煮物の匂いが戻ってきたころ。 母が新聞紙の裏をちゃぶ台に広げた。 竹を継いだ鉛筆。 白い継ぎ目。 でも痛くない。

「幹夫。……今日はこれだに」

 母がゆっくり書いた。

 静

 幹夫はその字を見た瞬間、小林さんの雨戸と、先生の争と、青い欠片が一緒に浮かんだ。

 母が左をなぞった。

「ここ、青だに。……澄んだ色。……澄むと、刺さらん」

 母が右をなぞった。

「こっち、争だに。……引っぱり合う手。……引っぱると、音も言葉も刺さる」

 父が縁側の端で、ま札を撫でてぽつりと言った。

「……俺の胸にも……争がある」

 母は否定しない。 低く言う。

「うん。……あるだに。あるのが悪さじゃない。……座らせりゃええ。息と間で」

 祖母が鍋の向こうで淡々と言う。

「争いを消すな。……抱えて座れ。……座れりゃ静だ」

 父が小さく息を吐いた。

 ふう……。

「……今朝……木槌の音で肩が上がった。……でも、みき坊の『ま』で……下りた。……静かった」

 父が“静かった”を口にする。 それだけで、幹夫の胸の奥がぽん、と鳴った。

 ――いき。

 幹夫は鉛筆を握った。 静を書く。

 一回目の「静」は、争の線が強くて、字が少し尖った顔になった。 尖った顔は刺さる。

「ええ」

 母が言った。転んでもいい「ええ」。

「争が強く出そうならな……青を先に座らせろ。青を澄ませてから、争を置け。……息、入れてから」

 幹夫は息をひとつ入れて、二回目を書いた。

 ――いき。

 二回目の「静」は、青が澄んで、争が“引っぱり”じゃなく“置き”に見えた。 見えると、字が静かになる。

 父が新聞紙の端にそっと手を伸ばした。 伸ばす指が少し震える。 震えるのに、逃げない。

「……俺も、書く」

 父の「静」は、線が揺れた。 揺れるのに、折れていない。 最後のはらいの前で、父は一度止まって――息を吐いた。

 ふう……。

 吐いてから、はらいを置いた。

「……争、って……置けるんだな」

 母が小さく頷いた。

「うん。……置けりゃ、夜が眠れるだに」

 夜更け。 雨戸を閉めた家の中は、外の風の音が薄くなった。 薄い音は、怖くない。 父は布団に入る前、綴じた冊子を手に取って、震える字で書いた。

こばやし の あめど がたがたしずか に した静 って じ 争 が はいってるおれ の むね も 争でも いき して ま して争 を いったん おく と青 が みえるいき

 父がぽつりと言った。

「……みき坊。……静かでいるのも……こわい日がある」

 幹夫は頷く前に息を入れた。

 ――いき。

「……うん。……でも……座れたら……刺さらない」

 父は少し間を置いて、ふっと息を吐いた。

 ふう……。

「……座る、って……好きだ」

 母の低い声が、暗い中で落ちた。

「好きって言えりゃ、静が座るだに。……静けさは、争いの上に青を置くことだに」

 祖母が淡々と言う。

「青が見えりゃ飯がうまい。……うまけりゃ、また明日だ」

 また明日。 静けさが続く明日。

 翌朝。 まちばこのふたは、畳の目ひとつぶん、ずれていた。 ずれは小さい。小さいのに、幹夫には分かる。

 箱の下の返事は、二つと、ひとつ。

 一枚目、小林さんの字。

よる かぜ ふいたあめど こつ って いったこわくないねむれたありがとう

 最後に、小さな丸。

 二枚目、母の字。

静 は あお と あらそうあらそう を おいてあお を みろいき して ま を いれろ うん

 最後に、丸。

 三つ目は、紙じゃなく――青い欠片。 幹夫の袋の青より、少しだけ濃い青。 角が丸く、刺さらない。 欠片の横に、小林さんの字で小さく、

あお

 と書いてある。 その横に、いびつな丸がひとつ。

 幹夫はその青を掌にのせて、息をひとつ入れた。

 ――いき。

 静。 争いがないことじゃない。 争いを、いったん置くこと。 置くために、息と間を入れること。 蒲原に、サイレンは届かなかった。 けれど夜のがたがたは届く。 そのがたがたの前に、父の「ふう」と、幹夫の「ま」は届いた。 届いた“座らせる静けさ”が、雨戸も胸も刺させなかった。

 幹夫は青い欠片を袋へ戻し、口の中で小さく言った。

 ――いき。

 今日も、争を置いて、青を見て。 静の字みたいに、胸の中へそっと、静けさを座らせていった。

 
 
 

コメント


Instagram​​

Microsoft、Azure、Microsoft 365、Entra は米国 Microsoft Corporation の商標または登録商標です。
本ページは一般的な情報提供を目的とし、個別案件は状況に応じて整理手順が異なります。

※本ページに登場するイラストはイメージです。
Microsoft および Azure 公式キャラクターではありません。

Microsoft, Azure, and Microsoft 365 are trademarks of Microsoft Corporation.
We are an independent service provider.

​所在地:静岡市

©2024 山崎行政書士事務所。Wix.com で作成されました。

bottom of page