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影の饗宴




第一章 満ちていたはずの食卓

朝の台所で、玲子は炊飯器の蓋をそっと開けた。蒸気が一瞬にして膨らみ、幼いころから馴染んできた甘い香りが鼻をくすぐる。かつては当たり前に満たされていたはずの白米が、今はなんだか頼りなく感じるのは気のせいだろうか。計量カップで計った米はこれで最後だ。昨夜から水に浸しておいた海外産の長粒米は、日本の短粒米と比べると、どうにも頼りない。粘りも少なく、口に含んでも満足感を得にくいのではないか、と玲子はぼんやりと思った。

「おはよう。」

寝室から現れた夫の剛は、眉間に薄いしわを寄せたまま挨拶をする。ごく普通のサラリーマン――白いワイシャツと紺のスラックスを身に着けた姿はいつも通りだが、今のこの国の状況を反映するかのように、その顔はどこか暗く沈んでいる。ニュースやネットを見れば、どこもかしこも“米不足”の話題でもちきりだ。スーパーでは買い占めが横行し、安い銘柄のコメはあっという間に売り切れる。家族のために米を確保することが、いつの間にか「勝ち取るべき戦利品」めいた意味を帯びはじめているようだ。

同じく眠そうな目で息子の登もリビングに入ってきた。高校生になってまだ間もない16歳の少年は、最近生意気な口をきくようになったが、心なしかその表情にはどこか怯えにも似た翳りがある。多感な年頃に、社会がこんな状態になってしまったのだから無理もないのかもしれない。

玲子は炊きあがったばかりの米をよそい、夕食用に少しだけ残しておいた味噌汁を温め直す。食卓に並んだ白いご飯は、少し縦長の粒が混ざっていて、いつものふっくらした光沢とは違う。剛はそれを見てほんの一瞬、眉をひそめたが、何も言わないまま箸を取った。登は悪態をつくでもなく、黙ってその白米をかきこむ。テレビからは「緊急輸入」という言葉が流れてくるが、その声色は妙に軽薄で、まるで対岸の火事を報じるかのようだ。

「皆出かける前に食べといてね。」玲子がそう言うと、二人は黙って頷いた。食事の時間がやけに重苦しくなってきているのは、決して家族仲が悪くなったからではない。ただ、社会の不安がそのまま食卓に滲み出しているのだと、玲子は薄々感じていた。

第二章 行列の先にあるもの

朝食をすませた玲子は、いつものようにエコバッグを持ち、近所のスーパーへと向かった。彼女が住むマンションの周辺は、それほど都会でもなければ田舎でもない中規模の住宅地。ここ数日、開店前から並ぶ人々の列が急激に長くなり、警備員まで雇われているという。

スーパーの店先にはすでに長蛇の列ができていた。老人も若者も主婦も会社員らしき人も、皆無言で立ち尽くしている。開店までまだ10分ほどある。ちらほら聞こえてくるささやきは、どこか刺々しく、不信の塊のようだった。

ようやく扉が開くと、人々は半ば殺気立った様子で米売り場に殺到する。店側も制限を設けていて「おひとり様1袋まで」の紙が大きく掲げられている。そこにはほとんど国産米はなく、タイ米やベトナム米など、慣れない外国産ばかりが積まれている。銘柄米が数袋だけ残っているが、すぐに人々が奪い合い、声を荒らげる。玲子もその光景を見た瞬間、一瞬身体がすくんだ。

――まるで動物のエサの奪い合いだ。かつては栄光ともいえる豊富な国内の生産量があったというのに。どうしてこんなに急激に崩れていくのだろう。

玲子が棚の奥にやっと見つけた2kgの米袋を手にした瞬間、横から若い男の腕が伸びてきた。「それ、俺が先に目ぇつけてたんだよ」と、その男は乱暴に米を引っ張り、玲子を睨みつける。周囲の人々も、一瞬ならず者を見るような目を向けたが、自分が確保する米を守るのに精一杯で、誰ひとり助けに入らない。玲子は一瞬固まったが、「家族の食事を奪われてなるものか」と必死になり、男の手を振り払う。すると男は舌打ちをして隣の棚を漁り始めた。

急いでレジに並び、精算を済ませたころには、店内は怒号や泣き声、店員の制止の声が交錯し、まるで修羅場だ。玲子は買い物袋に入れた米をぎゅっと抱きしめる。結局、手に入れたのは海外産の細長い米と、それよりさらに値段の高い国産米1袋をかろうじて確保しただけ。それでも得体の知れぬ達成感が込み上げ、そして同時に虚しさが胸を突く。この白米を確保する行為が、あまりにも卑小で、同時にあまりにも切実だ。

外へ出ると、朝陽がまぶしい。明るい光の下で、さっきまで見ていた修羅の光景がかえって悪夢のように思える。家に帰る道すがら、カラスがゴミ袋をつついているのが目に入る。その姿が、米袋をめぐって争う人間の姿と重なり、玲子はわずかに吐き気を覚えた。

第三章 ひずみ

帰宅すると、登はすでに学校へ行った後だった。夫の剛も出勤し、リビングは冷え冷えと静まり返っている。冷蔵庫の前に立ち、買ってきた米をそっと置く。ほんの数日前までは数種類の銘柄米を選んで買っていたというのに、今はこうして汗をかきながら「奪い取った」米を抱えている。

「やだな……」

小さくつぶやいた声が虚空に消える。玲子は軽くシャワーを浴び、台所の小さな仏壇に備えた茶碗の米を確認した。祖父母の写真がそこに飾られ、ほんの少しの白米を供えている。だが、その米がいつ尽きるか分からない。祖先を敬う象徴ですら、今は贅沢な行為に思えるのだ。

スマホを開くと、SNSでも「米が買えない」「高額転売」「列に5時間並んでやっと手に入れた」などの声が溢れていた。さらには「米を確保できないならパンやパスタでいいじゃないか」という意見や、「米がなきゃ死ぬわけじゃない」という冷淡な言葉も散見される。だが、世代や育った環境によって、米への思い入れは人それぞれだ。玲子たちの世代にとって米は生活の中心であり、それが忽然と欠けるとなると、まるでアイデンティティを失くしかねない苦痛がある。脳裏に祖母の言葉がよぎる。「コメは日本人の魂だよ」。しかし、その「魂」があっという間に奪われていく現実は、どこか滑稽でもあり、惨い。

午後、登が学校から帰ってくると、その表情は暗い。聞けば、学校でも給食がまともに出せない日が増えているという。クラスメイトの中には朝から何も食べずに来る子もいて、授業中に倒れそうになることもあるとか。中には、自分の家にある米を少しでも配ろうとする生徒や、わずかなお菓子を分け合っているグループもいると聞き、玲子は複雑な思いに駆られた。思春期の少年少女が、こんな形で協力し合わねばならないなんて。

一方、夫の剛は会社の物流が混乱し、残業続き。運送トラックの奪い合いや、物流センターへの強盗まがいの襲撃まで起き始めているらしい。かつてはのんびりと定年まで勤め上げる未来が当たり前だったサラリーマン生活が、唐突に崩れ去りつつあるのだ。

「給料が下がるかもしれない」とぼそりと呟く剛の声が、夜のリビングに小さく響く。電気スタンドが照らす明かりの下、夕飯のために炊いたほんの少しの白米を前に、三人は言葉を失っている。登は箸で米をつつきながら、「もう腹いっぱいに食える米は二度と戻らないのかな」とつぶやく。その言葉に、玲子は息を呑む。彼のほおが少し痩せたように見えるのは気のせいではないのだろう。

第四章 灯る火

翌日。玲子は朝早く起き、まだ寝ている剛と登を置いて、スーパーよりもさらに遠い倉庫街へ足を運ぶ。ネットで「ある企業が米を大量に抱えて放出しないでいる」との噂を見かけたからだ。もしかしたら、何らかの形で分けてくれないだろうか――わずかな希望を胸に、人気のない倉庫街を歩く。

すると、その企業の倉庫入口には、無骨なフェンスが張り巡らされており、ガードマンが二人ほど立っている。中からはフォークリフトの音が聞こえてくるが、どうやら運び出されているのは別の物資らしい。フェンスの外には同じように噂を聞きつけたのか、数名の主婦が座り込み、手を合わせて懇願している。ガードマンは「ここでは分けられない」とあしらうばかりで、まるで聴く耳を持たない様子だ。倉庫内に確かに米があるらしいことは、彼女たちの会話で察せられるが、企業側は流通ルートや価格調整を理由に、容易には放出しないらしい。

――こんなに飢えている人がいるのに、なぜ。

玲子の胸に暗い感情が芽生える。守ろうとしているのは“正当な”企業活動なのかもしれない。しかし、それは一体誰のための正当さなのだろう。もしその企業が、いわゆる「買い占め」に手を貸しているのだとしたら、それは巨大な背信行為ではないのか。周囲の主婦たちを見れば、涙目で必死の形相だ。「お金なら出す」「子どもが飢えてる」という声がかすかに聞こえてくる。そっと足を引きながら、玲子は自分でも理解できないほどの怒りを感じる。それはもはや単なる「買い物」の範疇を超えた、生活の根源にかかわる問題なのだ。

その帰り道、ふと見上げた空は夏のように暑い。気候変動か、ここ数年は天候不順で米の生産量も落ち込んだというニュースを思い出す。かつては日本の田んぼが金色に輝き、収穫の秋には豊穣を祝う祭りが当たり前にあった。その光景はいったい、どこに消えてしまったのだろう。

第五章 壊れ始める家族

日に日に混乱は加速する。ある晩、登が泥まみれのリュックを背負って帰ってきた。その顔つきは、見慣れないほど硬い。玲子が問い詰めると、彼は言い渋りながらも、友人と一緒にとある倉庫から“米を盗み出した”のだと打ち明けた。

「悪いことだって分かってる。でも、うちには米がないんだ。学校にも弁当を持って行けない子ばかりで、みんな倒れそうになってる。もし誰も動かなかったら、死ぬ人が出るかもしれない。」

登の目には涙が滲んでいた。玲子は怒りたい気持ちより先に、息を呑む。数日前の倉庫街の光景がまざまざと甦る。そこに行ったのか。自分と同じように無力感を抱えながら、彼は若さゆえの大胆さで踏み込んでしまったのか。リュックから現れた袋には白い米が詰まっている。それは明らかに企業ロゴが印刷されたもので、盗難品であることは一目で分かる。

夫の剛は激昂した。「なんてことをしたんだ!捕まったらどうする? それに人のモノを盗むなんて……」しかし、登も負けじと反抗の目を向ける。「だったらどうやって生き延びるの? 父さんだって、もう給料が下がるかもしれないんだろ?」言い合いはどこまでいっても平行線だ。この乱れた社会情勢が二人を追い詰めている。玲子は二人の間でただ俯く。盗みに走るほど追い詰められたのは、家庭を守るはずだった母としての自分の責任でもある――そんな屈辱的な思いが頭をよぎる。

しかし、その夜、玲子はリュックから取り出した米を炊いた。たとえ盗品でも、空腹を抱えている家族がいる以上、それを捨てることはできない。登が力なく食べるその白米は、おそらく本来ならば倉庫に眠っていたはずの米だ。自分たちがそれを奪ったのだ。ほんのり罪の味がするような気がして、玲子は一口ごとに胸が苦しくなる。

第六章 静かな決壊

次の日、登は学校での暴力沙汰に巻き込まれ帰りが遅くなった。仲間内で情報を共有し合い、どこかに米の隠し在庫がないか探し回るグループがあるという。たびたび警察の取り締まりが入り、補導される生徒が後を絶たないそうだ。玲子はただ黙って、深夜に帰宅した登を迎えた。玄関先で見る彼の姿は、もはや昔の無邪気さとはまるで違う。周囲に翻弄されながら、何とか生きようともがいている一人の若者だ。

夫の剛もまた疲弊の色を隠せない。会社では物流の混乱で残業に残業が重なり、しかも成果は出にくい。給料がカットされる話は現実味を帯びてきていて、同僚たちの中には会社を辞めるか悩んでいる者もいるらしい。その一方で、「転売ビジネス」に手を染める不穏な動きもあると聞く。

玲子はリビングで一人、カーテンの隙間から夜の街を見下ろす。静かな暗闇が広がり、マンションの廊下からはかすかに誰かが怒鳴り合う声が聞こえてくる。そこら中に貼られた「米を譲ってください」「米売ります」などの張り紙が悲しい。米だけではなく、次第に水や塩などの生活必需品まで品薄になり始め、まるでゆっくりと崩壊へ向かう足音が忍び寄っているかのようだ。

そんななか、玲子はふと心の奥底で奇妙な衝動を感じる。そう、かつて登が倉庫を襲った話を打ち明けたとき、そして倉庫街で主婦たちが必死に訴えていた姿を見たとき――感じたあの熱い怒り。いや、怒りというよりは破壊への誘惑に近い。自分もまた、あの倉庫を燃やしてしまいたいという衝動に襲われたらどうなるだろう、と。抑えきれない苛立ちと絶望、そしてどこか官能的な破滅願望が入り混じり、胸の奥に不気味な炎を灯している。

第七章 焔(ほのお)を抱いて

「私、ちょっと出かけてくる。」

それはある蒸し暑い夜のことだった。登は友人と外に出ており、剛は珍しく早めに帰宅したものの、疲れを言い訳に食事もそこそこに寝室へこもっている。玲子はキッチンに立ち、米袋を見つめながら、その決意を固めた。どうしようもない悲壮感と、どうしようもない怒り。二つが混ざり合ったとき、人間はときに行き場のない破壊衝動に駆られる。

倉庫街に向かうため、玄関先でスニーカーをはく。ふと、そこに置いてあった息子のリュックを見つめると、あの日盗み出した米の残り香さえ感じる気がして、心がざわつく。自分がこれからしようとしていることは犯罪以外の何ものでもない。だからといって、見過ごせるのだろうか。自分が大切にしてきた「家族を守る」という意識が、いまや全く別の形を取りつつあるようだ。――家族を守るために、世界を壊せるか? そんな問いが頭をかすめる。

荒涼とした夜の倉庫街。人影はまばらだが、何台かのトラックが停まっている。そのうちの一つから、若者たちが米袋らしきものを運び出している。盗みか、それとも闇取引か。警戒しながら脇を通り過ぎ、以前に見た企業の倉庫へ近づく。高いフェンスの向こうには、依然として何かを貯蔵している気配がある。

金網越しに見える巨大なシャッターの脇にはガードマンが一人立っているだけ。今の時間帯、警備が手薄なのかもしれない。玲子はそのフェンスを眺めながら胸が高鳴る。ここを乗り越え、何か派手な“事件”を起こせば、嫌でも世間の注目を浴びることになるのではないか。買い占めや企業の隠匿行為が批判され、少しでも改善に向かうかもしれない――そんな考えが頭をよぎる一方、善悪の境界が曖昧に溶けていく。

リュックに忍ばせてきたガソリンの小さな缶と布切れ。それを思い出すと、心臓が激しく鼓動し、手汗がにじむ。過剰な正義感のつもりはない。ただ、この社会の狂気に自分も飲み込まれるなら、せめて一石を投じたい――あるいは何もかも壊してしまいたい――その想いが玲子を突き動かす。

夜風が熱をはらんで肌を撫でる。まるで夏の夜の手触りだ。近づく足音に振り向くと、あの倉庫のガードマンがこちらを怪訝そうに見ている。「すみません、迷っていて……」玲子はとっさにそう言ってかわそうとする。ガードマンは「もう深夜ですから、立ち入り禁止ですよ」と注意し、こちらに鋭い視線を向けてくる。その一瞬の隙を突いて、玲子はリュックからガソリンの缶を取り出し、金網の向こうにぶちまけた。

「何を――!?」

ガードマンの叫び声も、玲子の中では遠く聞こえる。彼女はライターを擦り、その燃え上がる小さな炎をガソリンに向かって放り投げた。その瞬間、暗闇を突き破るように、炎がバッと広がる。まるで内面の激情が具現化したかのように、赤い舌がフェンスを舐め上げ、夜空を焦がす。ガードマンが慌てて制止に入ろうとするが、玲子はフェンスから離れ、駆け足で逃れようとする。

「止まれ!」「火事だ! 消火器を持ってこい!」

背後から悲鳴や罵声が追いかけてくる。倉庫の敷地内は慌ただしく明かりが灯り、数人の作業員らしき人々が右往左往しているのが見える。火がどこまで燃え広がるのか、玲子にはわからない。ただ、あの内側に何かが抱え込まれ、封じられたままであるなら、せめてすべてを焼き尽くしてしまえ――そんな凄絶な思いだけが、彼女の足を加速させる。

夜の闇にまぎれ、人気のない路地を走り抜ける。その間、心臓は爆発しそうなくらい鼓動を打ち、頭の中は真っ白だ。――自分はなんてことをしてしまったのだろう。いや、あれでよかったのか。迷いと高揚がせめぎ合い、笑い出したいのか泣きたいのかさえわからない。

第八章 炎の行方

翌朝、玲子が家に戻ると、剛と登は驚いた様子で彼女を見つめた。靴や衣服は汚れ、髪も乱れ、どこか憔悴した面持ちがある。「母さん、どこ行ってたの?」登が問いかけるが、玲子は答えを濁した。そのままシャワーを浴びに行き、身体を洗い流す。熱いお湯が肌を刺すようだ。浴室の鏡に映る自分の目は、かつて見たことのない獰猛な光を宿している気がして、玲子自身がぞっとする。

リビングに戻ると、テレビのニュースでは「倉庫で火災発生。放火の可能性」というテロップが流れている。剛が青ざめた顔でチャンネルを変えるが、どの番組も同じように倉庫火災を報じ、原因不明の放火だと騒いでいる。消火活動は夜通し続き、大きな被害こそ出なかったものの、倉庫に保管されていた米がかなり焼けたという。そのため企業は、残った米をやむなく放出し、周辺地域に配給する動きを見せはじめたのだとか。

「おまえ……何か知ってるのか?」剛がかすれた声で玲子に尋ねる。玲子はテレビ画面を凝視したまま、ただ黙って首を横に振る。だが、その表情は焦燥と昂揚がないまぜになっていて、嘘をついているのは明白だ。登も感じ取ったらしく、奥歯を噛みしめている。

「もし母さんがやったんだとしたら、警察が来るかもしれない……」「大丈夫よ。すぐには捕まらないわ。」

玲子はどこか突き放すように言う。その言葉を聞いた剛は唖然とした表情を浮かべ、登は目を伏せた。テレビでは「このような暴力的行為は容認できない」「市民への重大な脅威」などという専門家の声が繰り返される。だが、その裏で企業が大量に米を隠していた事実や、それによって市民が飢えていた現状を批判する声も同時に上がり、SNSでは倉庫火災の犯人を“ヒーロー”だと称える書き込みすらあるという。

玲子はその報道をぼんやり眺めながら、初めて自分の内部から確かな“達成感”が湧いてくるのを感じた。倫理的にも法的にも許されない行為をしたはずだ。それでも、あの炎が象徴するもの――長らく押し殺されていた悲痛と怒り――が、少なくとも世間の注目を引き、米不足の裏事情をさらけ出したのだとしたら。そう考えると、胸の奥に奇妙な充足が広がり、顔が熱くなる。

第九章 償いと再生

その後の数日間、警察は放火犯を捜しているというニュースが頻繁に流れた。街の混乱は未だ続いていたが、倉庫火災をきっかけに、政府はより強い姿勢で企業や転売組織に圧力をかけるようになった。緊急輸入が実施され、少なくとも“全く米がない”という状況は少しずつ緩和され始める。スーパーの棚に並ぶ米が、以前のように豊富とは言えずとも、少しは手に入るようになった。それでも価格は高騰したままだが、人々の間には一筋の希望が見えはじめた。

玲子の家でも、登が「これで母さんが捕まったらどうしよう……」と怯える様子を見せ、剛は後悔と苛立ちを抱えたまま、家の中で落ち着かない日々を送っていた。玲子自身もやはり恐怖を覚え、ニュースを観るたびに心が軋む。しかし、同時に覚悟もしている。自分の行為が法に抵触したのは紛れもない事実だ。ただ、それによって多少でも米が世に出回る結果を招いたのなら――その罪と罰を引き受けるしかない、と。

ある夕暮れ、玲子はマンションのベランダに立ち、遠くでまた別の倉庫が燃え上がるような赤い光を見た。SNSによれば、“模倣犯”の可能性もあるという。破壊が呼ぶさらなる破壊。玲子はその光景を眺めながら、なぜか胸が冷えるのを感じた。自分が放った一石が、何か恐ろしい連鎖を生むのではないか――そう思うと、足元がぐらつくような不安に襲われる。どこまでが正義で、どこからが狂気なのか。もはや区別がつかなくなっていた。

しかし、翌朝には警察がマンションを訪れ、玲子は任意同行を求められる。剛と登は慌て、必死に制止しようとするが、玲子は静かにそれを受け入れた。逮捕ではなく事情聴取という形ではあるが、いずれ罪を問われるのは時間の問題だろう。怯える息子を抱きしめ、「大丈夫よ」と小さく囁くとき、玲子の目には涙がにじんでいた。

第十章 燃え尽きたあとの光

取り調べが進む中、警察署の狭い部屋で玲子は淡々と事実を語る。一方で外の社会では、「倉庫に火を放った主婦」の噂が広がり、週刊誌やネットニュースはこぞって彼女をある種の“時代の象徴”として祭り上げる。擁護する声もあれば、糾弾する声も大きい。だが、いずれにせよその行為が社会を動かす引き金になった、という見方はある程度共有されているようだ。

玲子自身には、そんな評価などどうでもよかった。彼女が気にかけているのは、息子の登がこれからどうなるのか、夫の剛は仕事を続けられるのか、それだけだ。警察の冷たい通路を歩きながら、ふと祖母の言葉を思い出す。「コメは日本人の魂だよ」。その魂のために自分は罪を犯したのだろうか。あるいは単なる鬱屈した破壊衝動に身を委ねたのだろうか。

長い取り調べを終えた夜、保釈という形で一時的に家に戻れることになった玲子を、剛と登は玄関で出迎えた。登は泣きそうな目をして、「母さんごめん」と繰り返す。剛は一度も責める言葉を口にしなかった。ただ、玲子をぎゅっと抱きしめ、「帰ってきてくれてありがとう」とだけ呟く。涙がこぼれそうになるのを必死でこらえる玲子。

食卓には、剛が買ってきた国産米がほんの少し盛られていた。値段は依然として高いが、きちんと手に入れられるようにはなってきたのだ。三人でいただきますをしたとき、玲子の目からは堪えきれず涙が落ちる。甘い香り、ふっくらとした日本の米の温もり。それは幼い頃からずっと当たり前のようにあったはずのもので、いまや愛おしくて仕方ない。だが同時に、自分が焼いてしまった米もきっとあるのだ。あの炎の中で失ったものは何か――今となっては判然としない。

それでも、この舌の上に広がる穏やかで優しい味が、玲子をわずかに救う。生きるために必要なもの。それは飢えや渇望に苦しむだけではなく、たとえ自らの行為が罪に繋がろうと、誰かの心を動かす行為にも結実し得るのだ――玲子はそう感じる。

やがて玲子は法の裁きを受けることになるだろう。それでも、米不足の混乱は次第に落ち着きつつあり、人々は再び少しずつ米を口にできるようになっている。死に物狂いで守ろうとした家族は、まだぎこちないながらも同じテーブルを囲み、そこには小さな湯気を立てる白米がある。そして、ひとすくい口に運ぶたび、玲子は胸の奥で焼け残った炎の名残を感じる。それは破滅と創造が混在した奇妙な光、彼女がかいま見た「崩壊」の先にあるかすかな再生の兆しなのかもしれない。

エピローグ

外では、まだ完全には終息していない米不足の影響で、列や転売、企業の思惑などが続いている。それでも、以前よりは落ち着きを取り戻してきた。テレビでは「米の新しい輸入先確保」や「次の作付けへの期待」が報じられている。ほんの僅かながら、未来への光が差し込んでいるのだろう。

玲子は軒先の小さな鉢で、プチトマトや豆苗を育て始めた。自給できるものは限られているが、それでも種を蒔き、水をやるという行為に、かすかな救いを感じる。「小さくても、いつか実を結ぶかもしれない」――そんな単純な事実が、荒涼とした心に染み込んでくるのだ。

かつて三人で当たり前に囲んでいた食卓が、いまはかけがえのない戦場の跡のようにも思える。米を求め、破壊の衝動に身を焦がし、家族が崩壊しかけた。それでもまだ、炊飯器から立ちのぼる白い湯気は、たとえどれほど傷ついても、人間がそこに「ささやかな希望」を見出せることを教えてくれる。たとえ儚いとしても、この湯気のような人生の温もりを、玲子は決して手放さないつもりだった。

(了)

 
 
 

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