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新茶の夢~煎茶の茶葉~




第一章 春の香り

静岡市のはずれ、小高い丘のふもとに広がる茶畑は、春の朝日にきらきらと輝いていた。七歳の少年・幹夫は、朝露に濡れた草を踏みしめながら、はやる心を抑えきれずに坂道を駆け上がる。丘の上に立てば、遠く富士の白雪が薄い朝霧に霞み、眼下には若葉を湛えた茶畑が絨毯のように広がっていた。山から降りてきたそよ風が、茶の葉をそよそよと揺らしながら、かぐわしい香りを幹夫のもとへ届ける。幹夫は目を閉じて、その清涼な香りを胸いっぱいに吸い込み、「ああ、もうすぐ新茶の季節なんだな」と心が踊った。

茶畑では、朝早くから幹夫の両親や近所の人々が新茶の摘み取りに励んでいた。列を揃えて屈み込み、新芽を丁寧に摘む大人たちの指先は、陽光を受けてうっすら緑色に染まる。幹夫も「僕も摘ませて!」と手伝いを申し出るが、まだ小さな手では上手く摘めず、やわらかな新芽を傷つけてしまいそうだった。母が「もう少し大きくなったらね」と微笑むと、幹夫は唇を尖らせて視線をそらした。手伝えないばかりか、子ども扱いされる悔しさに胸がざわざわする。

「仕方ないな……」そう呟きながら、畑の端に佇むと、そこには摘み取られたばかりの茶の葉がたっぷりと詰まった籠があった。祖母がその籠のそばで、手ぬぐいを頭に巻きながら小休憩をしている。「ほら、幹夫、お茶でも飲んでいきな。朝から駆け回って、喉が渇いたんじゃないかい?」祖母の茶碗からは、薄緑色の湯気がほわほわと立ちのぼっている。幹夫は縁側で飲むお茶が大好きで、毎朝必ず一杯は飲んでいたが、いざこうして茶畑の真ん中で味わうと、まるで山の息吹そのものを飲み干すようだった。

「ありがとう、おばあちゃん!」湯飲みを両手で包みながら口元に運ぶと、舌の上にほんのり甘さが広がり、かすかな渋みが喉をくすぐる。思わず目を閉じると、そこには広い茶畑と、青い香りが溢れる空が広がっていた。

どこからか鳥のさえずりが聞こえ、幹夫ははっと目を開ける。すると遠く、畑の向こうに小さな祠(ほこら)があるのに気づいた。苔むした石の祠で、幼いころ祖母から「あそこには茶の神様がいらっしゃるんだよ」と聞かされたことがある。いつか行ってみたいと思っていたが、なんだか不思議な雰囲気があって、半ば怖さもあった。けれど新茶の香りに背中を押されるように、幹夫は祖母に「ちょっと見てくるよ!」と声をかけ、その祠へ向かい走り出した。

祖母の声が背後で「あんまり奥へ行っちゃいけないよ!」と響くが、既に胸はわくわくでいっぱいだ。何かが呼んでいる気がする——新茶の季節には、ほんの少しだけいつもと違う世界が見えるような、そんな予感が幹夫の胸に芽生えていた。

第二章 茶畑のささやき

祠への道は茶畑の畝(うね)を縫うように伸び、途中からは背の高い茶の木が生い茂ってくる。大人が苦労しながら通るほどの細い道だが、幹夫の小さな体ならひょいひょいとすり抜けていける。朝の光が葉の隙間から斑(まだら)にこぼれ落ち、幹夫の髪を照らす。ときおり風が吹くたび、青い葉の面がちらちらと輝き、まるで葉一枚一枚が言葉を囁いているようだ。

「……ありがとう……」不意に聞こえた声に、幹夫は足を止めた。「……優しく摘んでくれて……また来年も……」

誰かが幹夫に語りかけている——そんな気がして、彼は思わず茶の木にそっと触れる。すると、ざわざわ……と一斉に葉が揺れた。「あ……」幹夫は息を呑む。少し怖い気もするけど、どこか懐かしい。まるで「君はここへ来るのを待っていたんだよ」と歓迎されているようだった。

「来年は僕も上手に摘みたいからね……」幹夫は茶の葉を優しく撫でながら、小さな声で呟いた。すると風が吹き、葉先がさらさらと幹夫の袖口をくすぐる。なんだか、くすっと笑い合ったみたいだと思った。

再び歩き出し、しばらく行くと石の祠が見えてきた。小さく古びて苔むしているが、どこかやさしい雰囲気がある。石の扉のような正面には白い紙垂(しで)が結びつけられており、その奥に小さな地蔵様が佇んでいた。幹夫は「こんにちは」と声をかけ、素直に手を合わせる。

「お茶の神様……なのかな。どうか、今年の新茶が、おいしくなりますように……」思わずそんな願いが口をついて出る。すると風がまたふわりと吹き、遠くから誰かの歌声が聞こえてきたような気がした——

「夏も近づく八十八夜……♪」

幹夫はハッとして背筋を伸ばした。この茶畑で昔から歌われている茶摘みのわらべ歌だ。でも、まわりには誰もいないはず——近くの大人たちはみんな忙しそうに摘み取りをしていたし、こんな遠くまで来ているのは幹夫くらいだ。

まるで祠のすぐ脇の竹藪の方から、その歌声が聞こえる。竹の茂みが薄暗く揺れ、何かが幹夫を誘っているようだ。彼は少し怖さを感じつつも、なぜか無視できない力に引き寄せられ、竹藪の中へと踏み込んだ。

第三章 竹藪の先に

竹藪に足を踏み入れると、空気が一変する。ひんやりと肌を撫で、まっすぐ天へ伸びる竹の群れが幹夫を取り囲む。先ほどまでの春の陽気が嘘みたいに、どこか異界じみた静寂が広がっていた。地面は落ちた竹の葉で厚く覆われ、柔らかい足音だけが幹夫の耳に届く。

「夏も近づく八十八夜……♪」確かに聞こえる。それもすぐそこからだ。幹夫は声のする方に向かって竹をかき分け、小走りで進んだ。すると薄暗い藪を抜けた先に、眩い光がぱっと広がり、幹夫は思わず目を覆った。まるで違う世界に出てしまったかのように、そこには見渡す限りの広大な茶畑が広がっていたのだ。──いや、先ほどとは明らかに異なる光景があった。空は茜色に染まり、遠くの山々の稜線が金色に縁取られている。もう日が暮れかけているみたいだ。でも先ほどまでは朝のはずなのに?

幹夫は混乱しながらも、その美しさに息を飲んだ。薫り立つような緑のじゅうたんが夕日に染まり、風が吹くたびに葉がきらきらと波打っている。その風に乗って、先ほどの歌声がまた聞こえる。

「まさか、僕……迷い込んじゃったの?」そんな不安がよぎるが、怖さよりも、どこか“来るべき場所”に来たような懐かしさがあった。

すると、茶畑の向こうから白い手ぬぐいを頭にかぶった老婆が姿を現した。腰に籠を下げ、手には茶切り鎌のような道具を提げている。幹夫を見つけると、にっこりと微笑んだ。「おや、よく来たねえ。さあさあ、こちらへおいで。」声はよく通り、それでいて優しい響きがある。まるで初対面なのに、ずっと昔から知っているかのような気持ちになる。

幹夫は驚きつつも、なぜかその老婆に対して恐怖心を抱かなかった。視線が合うだけで心がほっと安らぐ。誘われるまま茶畑の真ん中へ足を進めた。

「ええと……あなたは誰ですか?」幹夫がそう尋ねると、老婆は笑って言った。「昔からこの土地の茶を見守っておる者さ。おばばとでも呼んどくれ。」それだけ言うと、また陽気に「夏も近づく八十八夜~♪」と歌い出す。畝と畝の間を軽快に歩きながら、手の中の鎌をひょいひょいと振る姿は、どこか不思議で、まるで浮いているようにも見えた。幹夫は「えっ、ここはどこなんだろう?」と頭を巡らせるが、老婆の柔らかな雰囲気に包まれていると、何もかもどうでもいい気がしてくる。

そうして二人が歩いていくと、大きな茶の古木が目に入った。普通、茶の木は人の腰ほどの高さで育てられているが、この古木は幹がねじれ、まるで樹齢何百年にも達しているような風格を漂わせている。老婆はその木の根元に腰を下ろすよう幹夫を促し、「さあ、ちょっと休みなされ」と優しく微笑んだ。

第四章 薫風の宴

古木の根元は柔らかな苔に覆われていて、腰を下ろすと体がすぽっと沈むように安らいだ。辺りには淡い夕暮れの光が満ち、静寂の中に茶の葉が揺れる音だけが響いている。老婆は小さな竹筒を取り出し、中から湯気を立てるお茶を注いでくれた。湯飲みも竹でできた素朴なもので、そこからは幹夫が初めて嗅ぐような、深い緑の香りが立ちのぼった。

「おばばが特別に淹れた茶じゃよ。飲んでみなされ。」幹夫はゆっくりと湯飲みを口に運んだ。一口飲むと、舌先から喉の奥へ透き通るような甘みがすうっと広がり、体の芯まで温かくなる。朝に祖母が飲ませてくれた新茶も美味しかったが、それとは比べ物にならないほど豊かな味わいだ。まるで草原や山々の息吹が溶け込んでいるみたい。幹夫は思わず「すごく、美味しい……!」と目を輝かせる。

「ふふ、お前さんにはこの茶の香りがよう似合うようじゃね。」老婆は楽しそうに笑い、満足げに頷いた。「実はな、ここはあの世とこの世のはざま。茶を大事に思う者だけが、うっかり足を踏み入れることがあるのさ。」

「あの世とこの世の……?」幹夫は半信半疑ながら、まわりの景色を見回す。確かに夕空なのに、先ほどまでは朝だったことを思えば、何か普通でないことが起こっているのだろう。だけど、不思議と怖くはない。むしろ茶の香りと老婆の笑顔に、心が和んでいくばかりだ。

すると遠くから笑い声や笛の音のようなものが聞こえてきた。目を凝らすと、茶畑の奥の方に淡い光がちらちらと浮かんでいる。「あれは何だろう?」幹夫が尋ねると、老婆は目を細めて言った。「あれは今夜の宴じゃよ。新茶が芽吹いたこの時期に、山や川や風の精たちが集まって、年に一度の祝宴を開くんさ。お前さんも行ってごらん。きっと大歓迎されるだろうよ。」

「山や川の……精?」幹夫は唖然とした。その言葉を聞いた途端、心の中になぜか懐かしさが広がる。もしかしたら、茶畑でささやいていた声や、竹藪で聞こえた歌声も、そうした精霊たちのものだったのだろうか。

「さあ、行っておいで。」老婆が幹夫の背をそっと押す。見れば夕闇に浮かぶ小さな灯りが、一列になって並んでいるではないか。それがまるで提灯行列のように揺れながら、幹夫を呼んでいるように見えた。

「……はい。行ってみます!」幹夫は竹の湯飲みを置き、古木の根元から立ち上がる。老婆に何か礼を言おうと振り返ったが、そこにはもう誰の姿もなかった。ただ大きな茶の古木が、さらさらと葉を揺らす音だけが聞こえていた。

第五章 新茶の精たち

淡い光が点々と続く道を辿っていくうちに、幹夫の耳にはいよいよ笛や太鼓の囃子がはっきりと聞こえるようになった。茶畑の奥に、ぽっかりと小さな広場があり、そこでは人間とも妖怪ともつかない不思議な姿の者たちが、楽しげに踊ったり笑い声を上げたりしているのだ。狐の面をかぶった青年、兎の耳を持つ少女、手のひらサイズの小人たちや、葉っぱの衣をまとったものまでいる。

(わあ……!)幹夫は胸を高鳴らせながら、物陰からそっと様子を窺う。すると、宙を漂っていた提灯のような光がふわりと近寄り、幹夫の周りをくるりと回った。小さなホタルブクロの花のような姿をして、まるで「こっちにおいで」と誘うように揺れている。

「ええい、ままよ!」幹夫は意を決して広場へ足を踏み出した。途端にその不思議な生き物たちが一斉に注目し、静寂が訪れる。幹夫はどきりと胸が縮む思いだったが、その次の瞬間、みなが一斉に笑顔になり、拍手や歓声を上げた。

「まあまあ、よく来たね!」「人間の子が来たよ!」「歓迎しようではないか!」

口々に言い交わし、幹夫の周りを取り囲む。狐面の青年が軽く頭を下げ、「ようこそ、我らの新茶の宴へ」と囁くように言った。聞けば、彼らは山の霊や、湧水の精霊、風の化身など、静岡の土地を支える自然の存在らしい。毎年、新茶が芽吹く頃にひっそりと集まり、自分たちで茶を味わい、土地の恵みに感謝するのだという。

幹夫が「あ、ありがとうございます……」と戸惑っていると、小人の一人が小さな湯飲みを運んできた。「ほら、遠慮せずに飲んでごらん。今年の一番茶だよ。わしらが心を込めて淹れた、とびきりの味なんだから。」

差し出された湯飲みは人差し指と親指でやっとつまめるほど小さなもの。けれどそこに湛えられた緑の液体からは、甘くかぐわしい香りが漂う。幹夫は「あ……ありがとうございます……」と受け取り、一口すすった。瞬間、目の前が一気に明るくなったような感覚が走る。味はさっきの老婆からもらった茶よりもさらに深く、複雑だ。若々しい渋みが舌に広がり、のど越しには清涼な甘さが残る。しかもまるで身体ごと浮き上がるような心地良さがある。

「どうだい?これが本当の新茶の力さ。」狐面の青年が柔らかい声で言う。「私たちは茶畑とともに生きている。君が畑で葉を愛おしく思ってくれたからこそ、ここへたどり着くことができたんだよ。」

「僕は、ただ茶畑が好きで……」幹夫はぽつりとこぼす。すると周囲の精霊たちが、一斉に微笑んだ。「それが何より大切なんだよ。大人も子どもも関係ない。お茶の葉の声を聞こうと耳を傾ける、その真心こそが、ここへの鍵なんだ。」

温かい言葉に包まれ、幹夫は嬉しさで胸がいっぱいになった。茶の一滴にも命が宿っていると、祖母や両親から言われてきたけれど、ここにいる精霊たちはまさにその“命”そのものなのだ。祭りは幹夫の到来を喜び、一段と賑わいを増していく。狐面の青年が笛を吹き、小人たちが輪になって踊り、兎耳の少女が花の冠を幹夫にかぶせてくれる。

幹夫の心は躍り、そこがまるで永遠につづく幸福の世界のように思えた。

第六章 嵐の到来

しかし、宴もたけなわというとき、空が急に暗くなり始めた。ごろごろ……と重々しい雷鳴が遠くから響いてくる。さっきまで夕方の空だったはずが、いつの間にか真夜中のような闇に閉ざされていた。

「これは……なんだか嫌な気配がするね……」狐面の青年が低い声で呟く。「まさか嵐……?こんな時期に……」兎耳の少女が怯えたように耳を伏せる。

ほどなくして、大粒の雨がばらばらと降り始めた。冷たい風が吹き荒れ、精霊たちの提灯の明かりが次々と吹き消されてしまう。幹夫は思わず身を縮め、「うわっ、すごい雨!」と悲鳴を上げる。風はますます強くなり、木々を揺さぶり、茶畑を濡らし、まるで全てを飲み込まんとする勢いだった。

「このままじゃ、せっかくの新芽が……」精霊たちは一斉に立ち上がり、慌てふためいている。あまりに激しい風雨に、踊るどころか立っているのもやっとだ。幹夫も顔に雨粒が当たり、息ができないほどだ。雷光がひらめき、あたりが青白く照らし出されるたび、恐ろしい影がゆらめく。

「おかしい!この時期に、こんな嵐は来ないはずなのに……」狐面の青年が叫んだ。まるで何かが怒りをぶつけているような、邪悪な気配さえ感じる。

雨風に耐えながら、幹夫は思わず茶畑を見下ろした。柔らかな新芽が激しい風と雨に打たれて、ちぎれそうになっている。これが続けば、今年の新茶はだめになってしまう。そう思うと胸がぎゅっと苦しくなった。両親や祖母が大切に育ててきた茶の葉、そして精霊たちが命を宿した茶の畑が、今まさに危機に瀕しているのだ。

「どうしたらいいんだ……」幹夫は雨に濡れながら必死で考えるが、子どもにできることなんかあるだろうか。背丈ほどしかない自分の力では、風を止めることも嵐を鎮めることもできない。

すると、不意にあの白い手ぬぐいの老婆の姿が脳裏に浮かんだ。さっき古木の根元で出会った不思議な老婆——いや、この宴に最初に導いてくれた存在だ。もしかして彼女なら、何か方法を知っているのかもしれない。

「そうだ……!」幹夫は雨の中を走り出した。周囲の精霊たちが「どこへ行くの?」と声を上げるが、彼は振り返らずに茶畑のはずれへ向かう。風は激しさを増し、雹(ひょう)のような固い雨粒が肌を叩きつけるが、幹夫は必死だった。

第七章 古木の祈り

稲妻の閃光が瞬き、雷鳴が轟く。ずぶ濡れになりながら、やっとの思いで古木の場所までたどり着いた。しかしあれほど大きく見えた古木は、嵐の闇に包まれて不気味に佇んでいる。老婆の姿は見当たらない。雨が滝のように降り注ぎ、地面がぬかるんで足元が沈みそうだ。

「おばあさん、どこですか……!?」幹夫は必死で呼びかける。返事はなく、雨音だけが耳を打つ。(こんなところにいないのかな……いや、きっとどこかにいるはず!)幹夫はそう信じて、ぐるりと木の周りを回った。そのとき、木の幹に視線を引き寄せるものがあった。幹のくぼみに、小さな祠のような空洞があったのだ。まるで誰かが中に入ったかのように、わずかに明かりが漏れている。

(もしかして……)幹夫は恐る恐る空洞に近づき、中を覗いた。するとそこには、やはり白い手ぬぐいをかぶったあの老婆が、小さな火を頼りに何やら祈りを捧げている様子だった。周囲には茶道具や不思議な形の杖などが置かれ、薄青い焚き火の煙がゆらゆらと漂っていた。

「おばあさん!」幹夫が叫ぶと、老婆はゆっくり顔を上げた。彼女はやや疲れたような面持ちで、「あら、幹夫かい……」と微笑む。その目に映る光はどこか悲しげでもあった。

「嵐が……すごくて……!茶畑が、もう……!」幹夫は言葉にならないまま、涙混じりに訴える。老婆は静かに頷き、震える幹夫の手をそっと握った。その手は驚くほど温かい。

「そうじゃ……この嵐は、山の龍神様が怒っておる証拠じゃ。理由は定かではないけれど、きっと何かが龍神様の気に障ったのだろう。龍神様は静岡の山々を司り、雨雲を操る存在。今はその力で茶畑を荒らしている。」老婆は悲しそうに言う。

「そんな……。お茶がこんなに大切なのに、どうして龍神様は……」幹夫が拳を握ると、老婆はかぶりを振った。

「龍神様を鎮めるには、茶の“真の香気”を捧げ、祈るほかあるまい。そうすれば、その力を通じて龍神様の怒りを静めることができるかもしれぬ。」

「真の香気……?」

老婆は杖をとり、その先端に吊られた小さな茶さじを幹夫に示した。「これに、お前さんの心を込めて新茶を乗せ、龍神様のもとへ届けなされ。お前さんのような純粋な気持ちこそが、龍神様の硬い心を解かす鍵になるやもしれん。」

「でも……僕はただの子どもだし、そんな大それたこと……」幹夫は自信のない声で俯く。これまで母や父からも摘み取りは任せておけと言われ、祖母からも「あなたはまだ小さいから」と言われ続けてきた。自分には何もできないんじゃないかと、どうしても弱気になってしまう。

だが老婆は頭を振り、「お前さんの手で、茶葉を摘もうとしていたではないか。その気持ちが大事なんじゃよ。さあ、ここにあるのは今年最初に芽吹いた“初摘みの葉”。それをさじに乗せ、心のままに祈ってみなされ。」と言って、小さな包みを幹夫に手渡した。

包みを開くと、そこには艶やかな緑色の新芽が数枚。こんな嵐の中でどうやって守り抜いたのだろう?と思うほどに生気を湛えていた。幹夫は息を呑み、「きれい……」と思わず呟く。その葉を茶さじに慎重に置くと、老婆はそっと幹夫の両手を重ね、自分の手と合わせた。

「さあ、幹夫。お前さんの真心を、龍神様に届けなされ。」老婆の声が水底に響く鈴のように聞こえた。

第八章 龍神の怒り

激しい雨風が収まる気配はない。空洞の入口にまで雨が吹き込み、幹夫はずぶ濡れの服をしぼりながら目を閉じ、心を鎮めようとする。頭にはさっきまでの楽しかった宴や、家族が大事に育ててきた茶の景色が映り、胸が苦しくなる。どうしてこんなに大切な茶畑が……と、悔しくて仕方ない。

それと同時に、両親の笑顔や祖母の優しさ、精霊たちの歓迎が浮かび上がる。みんな茶畑やお茶が大好きで、お茶に支えられて生きている。だからこそ、今年の新茶を守りたい。そう強く思えば思うほど、胸の奥が熱くなった。

(茶の葉たち、お願い。僕に力を貸して……!)幹夫は強く願う。すると、茶さじに乗せた新芽から、ほんのりと淡い光が立ちのぼった。最初は小さな光だったが、幹夫の気持ちが高ぶるにつれ、やや強い輝きへと変わっていく。

老婆はその光を見て、穏やかに微笑んだ。「さあ、そのまま龍神様のところへ行くがいい。」

「龍神様の、ところ……? ど、どうやって……?」幹夫が戸惑うと、老婆は外の嵐を見遣り、杖を高くかざした。「この風に乗るんじゃよ。わしもお前さんを手助けしよう。恐れずに外へ出なされ。」

そう言われても、外は吹き荒れる暴風雨。しかし、幹夫の胸には茶の葉の光が宿っている。恐れよりも使命感が勝り、力強く頷いた。「はい……やります!」

老婆は杖を振りかざし、不思議な言葉を口ずさんだ。すると、空洞の外に渦巻く風が一瞬だけ大人しくなり、その隙間から幹夫は外へと飛び出した。瞬時に豪雨が体を叩くが、抱えた茶さじを濡らすまいと必死に胸元にかばい、前へ進む。

ごうごうと唸る風の音の中に、何か竜が叫ぶような低い咆哮が混じっている。嵐を生み出している者——それが龍神なのだ。幹夫はその声のする方へ、必死で足を踏み出す。稲妻が閃き、大地が振動する。周囲の木々がばったばったとなぎ倒されていくのを見ても、一歩も引かなかった。

どれほど進んだだろう。ふと視界が開け、大きな崖のような断崖絶壁へ差しかかった。そこで風に足を取られ、幹夫は思わず膝をつきそうになる。(こんな所で……!)と思ったそのとき、茶さじの葉が一段と強い光を放ち、幹夫の体がふわりと浮き上がるような感覚に包まれた。次の瞬間、渦巻く風がまるで幹夫を抱えるようにして、断崖の上へと運んでいく。

「うわあああ……!」幹夫は目を見開いた。荒れ狂う雷雲を突き抜けて、さらに高みへ——まるで空を飛んでいるようだ。もしかして、あの老婆が手助けしてくれているのだろうか。いずれにせよ、幹夫は茶さじを落とさないよう、必死に両手で抱きしめる。光る葉はさらに眩しさを増し、周囲の闇を切り裂いていく。

第九章 天上の対話

黒雲の上へと抜けたとき、幹夫の目には驚くべき光景が映った。そこは一面、星空と月光の広がる世界。下界は嵐の闇に覆われているが、この高さでは雲の上は澄み渡り、月が青白い光を放っていた。そして幹夫の前方には、巨大な龍の輪郭が浮かび上がる。雲をかき分けながら漂うその姿は、まさしく天空を支配する龍神——そのものだった。

龍神は金色の眼を爛々と輝かせ、幹夫を睨むように声なき咆哮を発する。ビリビリと空気が震え、恐ろしさに幹夫は体がすくむ。けれど、茶の葉の光が自分を守ってくれているようで、なぜか逃げ出そうとは思わなかった。

(僕は、この怒りを鎮めなきゃいけないんだ……)

幹夫は声を振り絞り、「龍神様……!」と呼びかける。嵐の中、声がかき消されそうになるが、それでも茶の葉の光が幹夫の言葉を伝えるように広がっていく。

「……なぜ、茶畑を、こんな嵐で……! あんなに美しい新芽を……!」幹夫は泣きそうになりながらも、まっすぐ龍神を見つめる。龍神は低く唸り声を上げ、まるで「人間の子が何を言うか」といわんばかりだ。しかし、その視線にはどこか悲しみも宿っているように思えた。

すると、幹夫の頭に直接声が響いた。——人間たちが山を傷つけ、森を荒らし、水を汚している。それが我慢ならぬのだ。「それは……」幹夫は息を詰まらせる。確かに人間が自然を壊している現実はある。ダムや道路、ビルが次々と建てられ、山は削られ、川はコンクリートで固められているかもしれない。人間の営みが、龍神の住む世界を侵しているのだ。

——我はこの地を守護する龍神。だが近頃、人間どもは茶畑を広げるあまり、山肌を傷め、水脈を狂わせている。これでは山の命が蝕まれてしまう……。龍神の声は深く厳かな怒りを帯びている。同時に痛みも滲ませていた。山が悲鳴を上げているのだろう。幹夫は混乱しつつも、反論できないと思った。人間は勝手に自然を利用し、その犠牲を顧みないことがある。だけど——

「けど、みんなお茶を愛してるんです!」幹夫は強く言い返す。「僕のお父さんもお母さんも、おばあちゃんも、みんな大切に土を耕して、自然に感謝してお茶を育てています!お茶は僕たちの飲み物であるだけじゃなくて、気持ちを通わせてくれる大切なものなんです……!」そう叫びながら、両手の茶の葉を高く掲げた。

その葉からは、やわらかな光がさらなる広がりを見せ、龍神の巨大な身体に届いていく。雲の中を泳ぐような龍神が、一瞬動きを止めたように見えた。

「僕はまだ小さいし、何もできないかもしれません。けど、このお茶を守りたい。お茶に込められた人間の思い、自然への感謝を、どうか知ってほしいんです!」幹夫は懸命に訴える。そうすると茶の葉はさらに輝きを増し、龍神の金色の目を照らし出した。

——その思い、本物なのか……?

龍神の声が揺らぐ。幹夫は胸に手を当て、「はい、これは本当です……!」と叫ぶ。すると光が爆ぜるように広がり、龍神の身体をやわらかく包み込み始めた。雷雲を裂くほどの眩い閃光が天界を満たし、嵐の轟音が一瞬かき消される。

第十章 曙光

やがて閃光が収まると、嵐の音が嘘のように弱まっているのに幹夫は気づいた。雲の上の龍神の姿はかすかに透け始め、先ほどの激しい怒気が和らいでいるようだ。幹夫の耳には、どこかほっとしたような龍神の溜め息が聞こえた気がした。

——人間の子よ。その茶の葉と、お前の真心、しかと受け取った。——今は一旦、嵐を鎮めよう。だが、自然を傷つけることなかれ。お前たちの茶畑が、この地をさらに豊かに育むよう祈っている……。

その声を最後に、龍神は霧のように形を失い、広い天空に溶け込んだ。幹夫は力が抜け、ふらりと雲の端に降り立った。すでに闇が和らぎ始め、雲の切れ間から朝焼けの光が差し込んできている。

(……朝……?)幹夫は瞬きを繰り返し、自分がいつの間にか地上へ降りてきているのに気づいた。茶畑の見える丘の上、そこには夜明けの柔らかな光が注ぎ、雨はすっかり上がっていた。まだあちこちに雨の水溜まりが残っているが、嵐など嘘だったかのように穏やかな風が吹いている。鳥たちがいっせいにさえずり、茶の葉先についた水滴が朝日に輝いていた。

「あ……よかった……」幹夫はへたり込むようにして地面に膝をつく。どうやら嵐は収まったらしい。思わず空を仰ぐと、微かに龍神の形をした雲が遠のいていくのが見えた。そして青空から差す光が、丘に立つ幹夫を優しく包んだ。

第十一章 新茶の朝

すっかり服は濡れているが、幹夫は笑顔で茶畑に戻った。そこには両親をはじめ、祖母や近所の人たちの姿があった。少し前に小雨が降ったらしいが、大きな被害はないようだ。「あの荒れようは幻か……」と幹夫は心の中で呟く。実際には局地的な土砂降りだったかもしれないが、茶畑の様子を見れば致命的な損傷は免れたようだ。

「幹夫、どこに行ってたの!?」母が駆け寄り、びしょ濡れの格好に驚いている。父も「大丈夫か、なんだか雨が一瞬強く降ったみたいだけど、すぐに止んだんだよな」と首を傾げる。祖母は幹夫の顔を見るなり、その目に安堵の色を浮かべ、「まあまあ、茶畑もちゃんと大丈夫みたいだよ。ありがたいこったねえ」と手を合わせた。

幹夫は心配をかけてしまったと思いつつ、思わず笑みがこぼれる。「本当によかった……」と呟くと、祖母が笑顔で「さあ、みんなで新茶を味わおうじゃないか」と誘った。すでに摘み終えた新芽を蒸して仕上げたばかりの、おろしたての茶葉を急須に入れている。人数分の湯飲みを並べ、しずしずと湯を注ぐと、優しい薄緑色の液体が立ちのぼった。朝日を浴びる縁側で、幹夫も湯飲みを手に取る。

そっと口に含んでみると、穏やかな苦みの奥にくっきりとした甘さが広がり、一気に心と体がほどけていくようだった。なんというか、深い慈しみを感じる味。思わず「おいしい……!」と声が出る。両親も「今年の葉は最高だなあ」と感嘆し合い、祖母は「ありがたいねえ」と何度も頷いている。

幹夫は湯飲みを置き、茶畑の方へ視線をやった。朝日を受ける茶の葉先が、キラキラと宝石のように光っている。その一枚一枚が微笑んでいるようで、「おかえりなさい」と言っているような気がした。

(僕は、茶の葉を守れたのかな……?)そんな疑問が浮かんだが、彼自身、何が現実で何が夢だったのか、もう判然としない。ただ一つ確かなのは、茶と自然に対する感謝の思いだ。それを忘れなければ、どんな嵐に遭ってもきっと乗り越えられる——そんな気持ちが胸に宿っている。

ふと頬に暖かい風が触れ、幹夫は空を見上げる。すると遠く富士の峰が白く輝き、青空に雲がぽっかり浮かんでいた。その雲は一瞬、龍の形に見えたような気がしたが、幹夫が目を凝らすと、もうただの白い塊に溶けていく。

幹夫は満面の笑みで、小さな手のひらに残るお茶の香りをそっと嗅ぎ、「ありがとう……」と小さな声で呟いた。そうすると、茶畑の風が優しくざわめき、朝の陽射しがその笑顔を穏やかに照らしていた。

 
 
 

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