白い四角
- 山崎行政書士事務所
- 2月1日
- 読了時間: 7分

棚の上の紙包みは、そこにあるだけで部屋の空気を少し違うものにしていた。 角砂糖ひとつ。たったそれだけなのに、幹夫の目は何度もそこへ戻ってしまう。戻ってしまうのは、欲しいからというより、確かめたいからだ。なくなっていないか。夢じゃないか。白いものが、この家にもちゃんとあるのか。
母が「昼、芋、焼こうか」と言ったあと、祖母は何も言わずに棚の上の紙包みを取った。手つきが丁寧で、丁寧すぎて、かえって怖い。丁寧な手つきは、壊れやすいものに向けられる。
「仏さんに、ちょっとな」
祖母はそう言って、座敷の隅の小さな仏壇の前に座った。仏壇の黒は、夜より黒い。なのに、その黒の中には、いつも何かが見えている気がする。線香の匂い。古い木の匂い。乾いた花の匂い。見えないものの匂いが、ぎゅっと詰まっている。
祖母は紙包みを開き、角砂糖を小皿に乗せた。白い四角が、黒い仏壇の前でいっそう白く見えた。雪は蒲原にも降ることがあるけれど、角砂糖の白は雪より硬い。冷たそうな白。触ったら指が汚れそうな白。
幹夫は、少し離れたところからその白を見ていた。近づいてはいけない気がした。仏壇の前は、家の中でいちばん静かな場所だ。静かすぎて、息の音が悪いことみたいに聞こえる。
祖母が手を合わせた。指の節が、ひとつずつ確かめるみたいに折れていく。幹夫はその指を見ながら、手のひらが少し熱くなるのを感じた。手を合わせる、という形には、何かを押し込める力がある。押し込めて、出さないようにする力。
「……仏さん、食べるの?」
幹夫が思わず聞くと、祖母は手を合わせたまま、少しだけ笑った。
「食べんよ。匂いでええ」
匂い。幹夫はその言葉を、胸の中で転がした。匂いだけでいいものがある。匂いだけで届くものがある。サイレンが届かない蒲原でも、匂いは届く。線香の匂いも、芋の匂いも、海の匂いも。
祖母は小皿を置いたまま、立ち上がった。
「ほい、火ぃ起こすか」
台所の竈に火が入ると、家の音が変わった。薪がぱちんと鳴り、火が息をし始める。鍋を置く音、水を注ぐ音、芋を洗う音。生活の音は、鳴っていい音だと幹夫は思う。鳴っていい音があると、胸の中の小さな警報が少しだけ静かになる。
母は芋を桶で洗い、祖母は灰をいじった。灰の中に火の赤が見え隠れする。赤は怖い色のはずなのに、竈の赤は怖くない。怖くない赤は、家の中にしかない。
「幹夫、芋、そこ置いといて」
母に言われ、幹夫は洗った芋を布の上に並べた。土の匂いがする芋。手のひらに土が移る。昨日の金属片の土とは違う匂いだ。芋の土は、生きてる匂いがする。
幹夫は芋を並べながら、つい仏壇のほうを見た。小皿の白が、まだそこにいる。 白い四角は、まるで誰かを待っているみたいだった。
火が落ち着いたころ、祖母が芋を灰の中に埋めた。灰は芋を包むと、急に優しい色になる。芋の形が見えなくなるのに、芋の存在だけが強くなる。幹夫はその不思議さが好きだった。見えないのに、ある。届かないのに、鳴っている。そういうものが、世界には多い。
芋が焼けるまでの時間、幹夫は落ち着かなかった。落ち着かないのに、邪魔はしたくない。だから幹夫は、用もないのに台所の端を拭いたり、桶の水を替えたりした。働いているふりではない。手が空くと、胸の中の音がうるさくなるからだ。
母は火の前にしゃがんだまま、時々、幹夫のほうを見る。見るたびに目が「ありがとう」みたいに動いて、でも口には出ない。口に出ない優しさは、見逃したら消えてしまいそうで、幹夫は何度も母の目を見返した。
やがて、芋の匂いが出てきた。 甘い匂い。まだ食べてもいないのに、胸が先に満ちる匂いだ。
「よし、焼けた」
祖母が火箸で芋を取り出すと、灰がふわりと舞った。灰は白いのに、砂糖の白とは違う。灰の白は、終わったものの白だ。砂糖の白は、始まる前の白だ。
芋は新聞紙の上に並べられ、母が濡れ布巾で灰を軽く払った。皮がところどころ黒く焦げて、そこから蜜がにじんでいる。蜜は、光る。
祖母が棚の上から小皿を下ろした。仏壇の前に置いてあった角砂糖が、台所の明るさの中に来ると、急に「食べ物」の顔になる。さっきまでは祈りみたいだったのに、いまは現実だ。
母が一瞬、手を止めた。
「……それ、食べるの」
祖母は「食べるさ」と短く言って、角砂糖を手のひらに乗せた。角がしっかり立っている白い四角。祖母はそれを、まるで芋みたいに大事そうに見た。
母は眉を寄せた。寄せた眉は、怒りではなく、惜しさだった。惜しさは怒りより声を小さくする。
「もったいない」
母が言うと、祖母は手のひらの砂糖を見ながら言った。
「もったいないから、食べるんだよ」
その言い方が、幹夫の胸にすとんと落ちた。 もったいないから、しまう。もったいないから、使わない。幹夫の家では、そういうことが多い。けれど祖母は、もったいないから食べる、と言った。使う、ということは、今を生きるということだ。幹夫にはそれが、急に大人の言葉に聞こえた。
祖母は小さな包丁の背で、角砂糖を軽く叩いた。 こつ。 音が小さくて、幹夫は息を飲んだ。割れてしまう。壊れてしまう。白が崩れる。
角砂糖は、思ったより簡単に割れた。ぱき、と乾いた音。白い四角は四角じゃなくなり、角が欠けて、いびつな破片になった。幹夫の胸がきゅっと痛んだ。欠けた茶碗や欠けた貝殻を見たときの痛みと似ている。
祖母はその破片を、さらに細かく砕いた。包丁で削ると、白い粉がぱらぱらと落ちる。落ちる粉が、灰みたいで、雪みたいで、でも灰でも雪でもない。砂糖の粉は、落ちるのに軽い。軽いのに、価値が重い。
幹夫はその粉を見て、なぜだか泣きそうになった。 白い四角が崩れるのが寂しいのに、崩れていくのがきれいだったからだ。きれいなものが、なくなる形できれいなのが、胸に刺さる。
「ほれ、少しだけだぞ」
祖母が、芋の上に砂糖の粉をぱらりとかけた。粉は黒い皮の上で一瞬だけ白く光り、すぐに蜜に溶けた。溶ける速さが、惜しい。
母は自分の芋を手に取ったが、砂糖のかかった部分を避けるように、端からかじった。母はいつもそうだ。自分の嬉しさを先に取らない。嬉しさを取る前に、家の形を整える。整えるために、自分の味を後回しにする。
幹夫はそれを見て、胸の奥の小さな警報が鳴った。 鳴ったから、幹夫の手が勝手に動いた。
幹夫は、自分の芋をそっと母の皿の近くへ寄せた。寄せるだけ。昨日、母が芋を寄せたみたいに。寄せる、という動きには、言葉の代わりが入る。
母が気づく前に、幹夫は自分の芋の砂糖の粉を、指先でほんの少しだけすくった。指に白がつく。白はすぐに湿り気を持って、指に貼りつく。幹夫はその白を、母の芋の焦げ目のところに、そっと擦りつけた。擦りつけたら、そこだけ少し光った。
母は、箸を止めた。 止めた時間が、ひと呼吸ぶん長い。
幹夫は息を止めた。見つかった、というより、届いてしまった、という感じがした。自分の小さな動きが、母に届いてしまった。
「……幹夫」
母が低い声で言った。叱る声の形なのに、叱る匂いがしない。
幹夫は、何か言おうとして言えなかった。言葉にすると、善いことをしたみたいになる。善いことをしたいわけじゃない。ただ、母の指先が冷たいのが嫌で、母の眉間が硬いのが嫌で、母が砂糖を避けるのが嫌だっただけだ。
母は、幹夫の指先を見た。白い砂糖がまだ少し残っている。母は何か言いかけて、やめた。そして、母の芋をゆっくり口に運んだ。砂糖を擦りつけたところを、避けずに。
母の頬が、ほんの少しだけ動いた。味を確かめた顔だ。 その顔が、幹夫の胸をふわっと軽くした。
母はすぐに表情を戻そうとした。戻そうとしたのに、戻りきらなかった。眉間の硬さが、ほんの少し緩んだままになった。
「……甘いね」
母が小さく言った。 その一言が、幹夫の胸に灯りをつけた。
祖母は何も言わなかった。ただ、味噌汁をよそい直し、幹夫の椀に少し多めに汁を入れた。多めの汁は、祖母の言葉だ。
芋の湯気が、家の中を満たした。湯気はちゃんと届く。 甘さも、ちゃんと届く。
幹夫は自分の指についた砂糖を舐めた。舐めた瞬間、体の奥が驚いた。甘い、という感覚が、胸ではなく腹の底に落ちた。甘さは、思っていたより静かで、思っていたより強い。強いのに、怒鳴らない。サイレンみたいに命令しない。ただ、そこにあるだけで世界の角を丸くする。
窓の外から、汽笛が聞こえた。 遠くの音。届く音。
幹夫はその音を聞きながら、ふと思った。 届かないものがある。届かないから怖いものがある。 でも、届くものもある。届くから救われるものがある。
母の「甘いね」という小さな声は、汽笛よりずっと弱いのに、幹夫の中には深く残った。 残って、胸の中の小さな警報を、少しだけ丸くしてくれた。
食べ終わったあと、祖母は仏壇に戻り、砂糖の小皿をもう一度置いた。残った欠片を、同じ場所へ。 白い欠片は、さっきより少し小さくなって、でもまだ白かった。
幹夫は仏壇の前で、手を合わせる祖母の背中を見た。 背中は何も言わないのに、幹夫には聞こえる気がした。
――届くものを、大事にしろ。
幹夫は、そう言われた気がして、そっと自分の指先を握り込んだ。 指先には、もう砂糖の白は残っていない。けれど甘さは、ちゃんと体のどこかに残っていた。



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