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『あの夏が終わる前に』

あの夏が終わる前に、幹夫は茶畑の端で手を止めた。摘み取った葉は、いつも通り柔らかい。露はもう朝ほど冷たくなくて、指先に残るのは水というより、ぬるい季節の気配だった。

蝉の声が、どこか遠くで鳴いている。真夏のそれみたいに張りつめてはいなくて、音の端が少しほどけている。鳴いているのに、もう「終わり」を含んでいる。そういう音を、幹夫はいつから聞き分けられるようになったのだろう。

畝の向こうで父が黙っている。黙って手を動かしているだけなのに、家の中の沈黙と同じ種類の重さがある。沈黙は、怒りでも優しさでもなく、ただ「言えなかったもの」の総量だ。幹夫はそれを知っている。知っているから、同じように黙ってしまう。

けれど今日は、黙っているだけでは足りない気がした。足りない、というより、間に合わない。

夏が、終わってしまう。

夏が終わることは、ただカレンダーがめくられることじゃない。夕方が早くなること、影が長くなること、冷えた麦茶が冷えすぎてしまうこと。そして、言えなかったことが「言えないまま過ぎた時間」に変わること。

幹夫は、リュックの中の茶袋を思い出した。川根で買った茶。紙の袋に閉じ込められた匂い。指先にざらつきを残す袋。母に渡す、と口にした瞬間に、机の上で小さく鳴った紙の音まで思い出せる。

「……行くか」

畝の向こうから、父の声がした。問いかけでも命令でもない、段取りの声だった。けれど段取りの形をした言葉は、父が今できる精一杯の「一緒にいる」だった。

幹夫は頷いた。頷きながら、胸の奥で何かが細く揺れるのを感じた。揺れは、怖さの形をしている。けれど今日は、それだけじゃない。怖さの中に、ほんの小さな急ぎ方が混じっている。

——あの夏が終わる前に。

自分が自分に言い聞かせるように、その言葉が胸の内側を走った。

午後、軽トラの窓から入る風は、まだ暑い。でも暑さの中に、どこか乾いたところがあった。夏の湿り気が少しだけ引いて、熱が「地面のもの」になり始めている。真夏の熱は空気のものだった。どこにいてもまとわりつく。今の熱は、アスファルトや土に残って、そこからじわじわ立ち上る。

父はハンドルを握っている。指の関節が少し白い。畑ではあんなに迷いのない手なのに、道路の上では、握りすぎるときがある。幹夫は、父が怖がっていることを知っている。知っているのに、父の「怖さ」はいつも言葉にならない。言葉にならないまま、幹夫の中で増殖する。

静岡市へ入るころ、時計は午後四時に近かった。静岡の午後四時は、影が長い。昼の熱を抱えたまま、光だけが先に低くなっていく。ビルの影、電柱の影、歩道橋の影。影は黒ではなく、濃い藍色で、踏んでも踏んでも逃げない。

安倍川の橋を渡るとき、父はウインカーを出したわけでもないのに、ほんの少し速度を落とした。川の白い河原がまぶしい。幹夫は目を細めた。細めると、世界の角が少し取れる。角が取れると、胸の固まりも、少しだけ柔らかくなる。

「……影、長いな」

父がぽつりと言った。独り言みたいな声。でも独り言は、誰かが隣にいるときだけ出る。

幹夫は「うん」と返した。返した声が、車内の匂い――土と茶と、少しの機械油――に溶けていく。溶けていくのに、消えなかった。父が聞いている気配がしたからだ。

駿河湾に近づくと、潮の匂いが先に来た。窓の外に海が見える前に、塩と魚と濡れたコンクリートの匂いが、肺の外側を撫でる。海の匂いは、いつも「戻れない」を含んでいる気がする。船が出たら、帰ってくるまで待つしかないような匂い。人も同じだ、と幹夫は思ってしまう。

父は港の近くで車を停めた。堤防の手前。人の少ないところ。わざと選んだ静けさが、逆に音を目立たせる。波の砕ける音。フェンスが鳴る音。遠くの船の低い汽笛。

「……ここだ」

父が言った。幹夫は頷き、リュックの肩紐を握り直した。茶袋が中で動く。紙が擦れる小さな音がする。その音が、自分の心臓に似ている気がして、幹夫は息を吸い直した。

母は先に来ていた。堤防の影に立っている。日差しはまだ強いのに、影の中の母は少し薄く見えた。服は地味で、手提げ袋を両手で抱えている。落としたくないものがある人の抱え方だった。

幹夫が近づくと、母は顔を上げた。目が合う。合っただけで胸が縮む。縮むのに、逃げないまま足を止められた。止められたことが、幹夫にとっては大きかった。

「……幹夫」

母は、幹夫の名前を呼んだ。声は小さい。でも、駿河湾に沈まなかった。沈まないように、母が喉の奥で支えているのが分かる声だった。

父は母を見て、すぐ視線を落とした。落とし方が、痛がる人のそれだった。怒る人の目じゃない。父の目はいつも、怒りより先に怖さを隠そうとする。

「……久しぶり」

母が言った。父はすぐには返さなかった。その沈黙のあいだ、午後四時の影だけがゆっくり伸びていく。影が伸びると、時間が動いているのが分かる。動いているのに、誰も動けない。

幹夫はリュックを下ろし、茶袋を取り出した。紙のざらつきが指に引っかかる。茶の匂いはまだ閉じ込められているのに、そこにあることだけは確かだ。

「……これ」

幹夫は母に差し出した。

母は一瞬、受け取るのを迷った。迷うのは当然だ。何かを受け取るということは、返さなきゃいけなくなる。返せないものを受け取るのが怖い。幹夫にもそれは分かる。分かるから、余計に苦しい。

それでも母は両手で茶袋を受け取った。受け取った瞬間、紙が小さく鳴る。その音が、堤防の上で妙に大きい。母は袋を胸の前で抱え、目を伏せた。

「……ありがとう」

その「ありがとう」で、幹夫の胸の奥が少しだけ熱くなった。熱いのに、泣きそうにはならない。泣きそうにならない代わりに、もっと厄介な気持ちが出てくる。——このまま何も言えなかったら、また同じ場所に戻ってしまう、という焦り。

父が、ようやく声を出した。

「……川根のか」

母が驚いたように顔を上げる。父は母を見ないまま、茶袋を見ていた。茶袋なら見られる。人の顔は見られない。でも、今ここにいるということ自体が、父の精一杯だった。

幹夫は言った。

「店の人が、香りが立つって」

言いながら、あの日の川根の店主の言葉を思い出す。言葉が出ん時も、茶は湯気を出す。その意味が、今、少しだけ分かる気がした。

母は小さく頷いた。

「……懐かしい匂いがする気がする。まだ開けてないのに」

匂いは、気持ちの一番近くを通る。言葉より先に届く。届いたものが、胸の奥を揺らす。幹夫は、その揺れを怖がらずにいられなかった。怖がるのに、今日は逃げなかった。

「……あのさ」

幹夫は、堤防の手すりに指を置いた。金属が温かい。午後の熱をまだ持っている温度。終わりかけの熱。その温度が、言葉の背中を押す。

「夏、もうすぐ終わるじゃん」

言った瞬間、自分の言い方が子どもっぽいと思った。でも子どもっぽさを恥ずかしがるほど、幹夫はもう子どもじゃない。

母が黙って見ている。父も黙っている。二人の沈黙は違う。母の沈黙は、言葉が多すぎて選べない沈黙。父の沈黙は、言葉が少なすぎて出せない沈黙。その間に挟まれた幹夫の沈黙は、たぶんずっと、その両方だった。

「……終わる前に、聞きたい」

幹夫は言った。声が震える。震えるのに沈まない。沈まないのは、潮の匂いのせいかもしれない。海は逃げ道がないからだ。ここに立っている以上、声は自分の中へ戻れない。

母の肩が少し揺れた。

「……うん」

母は頷いた。頷き方が、「怖い」を含んでいる。でも「うん」と言った。その「うん」が、幹夫の胸の奥の固まりに、小さなひびを入れる。

「どうして、出ていったの」

言った瞬間、世界が静かになる。波の音はあるのに、音が遠のく。午後四時の影が、三人の足元でさらに長くなる。

母はすぐ答えなかった。その間に、風が一度だけ強く吹いて、母の髪の細い束が頬にかかった。母がそれを耳にかける。その仕草が、幹夫の記憶のどこかに刺さっている仕草と重なる。重なった瞬間、時間が一瞬だけ巻き戻る。巻き戻るのに、戻れない。戻れないと分かるからこそ、今が鮮明になる。

「……怖かった」

母は、やっと言った。父と同じ言葉だった。同じ言葉なのに、意味が少し違う。同じだからこそ、重なる。

「家の中で、私が私じゃなくなるみたいで。……それをうまく言えなかった。言う前に逃げた」

逃げた。その言葉は、幹夫の胸を刺す。刺すのに、抜けない。抜けないまま、痛みの形だけがそこに残る。

父が、低い声で言った。

「……言え」

その一言は責める声じゃなかった。痛がる声だった。父は怒りを拳にする人じゃない。怒りは喉の奥で固まって、言葉になれずに残る。残ったものが、人を黙らせる。

母が、父の方を見た。初めてちゃんと父を見る。父も、逃げずに一瞬だけ母を見た。その一瞬が、幹夫には「永遠」みたいに感じられた。ほんの一秒。けれど、その一秒が、これまでの何年分より重い。

幹夫は、その一秒の中に、自分の夏を置いた気がした。終わらせたくなかった夏。終わってほしかった夏。理由のない寂しさが居座っていた夏。あの夏が終わる前に、ここに来たという事実だけで、胸の奥がまた揺れた。

母が小さく言った。

「ごめんね」

幹夫は、すぐに「いいよ」と言えなかった。言ったら嘘になる。嘘をつくと、また静けさに戻る。静けさは楽だけど、楽な場所は何も変えない。

だから幹夫は、正直に近い言い方を探して、やっと口を開いた。

「……分かんない。まだ」

母が頷く。頷きながら、目の縁が少し濡れる。でも涙は落ちない。落ちない涙は、落ちた涙より重いと幹夫は思った。

父が、堤防の向こうの海を見たまま言った。

「……俺も、怖い」

二回目の「怖い」。今度は、父が母に向けて言った「怖い」だった。それを言った父の背中が、少しだけ小さく見えた。小さく見えた途端、幹夫の中で、父を責める気持ちの角が少しだけ取れた。取れた分だけ、別の痛みが出てくる。——父もずっと一人で抱えていたのだ、という痛み。

母が、息を吐く。

「……うん」

その「うん」が、潮風にさらわれずに三人の間に残った。残った「うん」は、言葉というより、湯気みたいだった。形はすぐ消えるのに、匂いだけが残る。

幹夫は、その匂いの中で言った。

「また、会ってもいい」

言い終わった瞬間、胸が痛くなった。痛いのに、後悔は来ない。痛いのは、触れたからだ。世界に。人に。自分に。

母は何度も頷いた。父は、短く息を吐いて頷いた。頷きは言葉じゃないのに、今日は言葉より確かだった。

帰り道、夕方の光がさらに低くなって、道路の影が長く伸びていた。軽トラの荷台には何もない。けれど幹夫のリュックは、行きより軽く感じた。軽くなったのは、茶袋がなくなったからじゃない。胸の中の固まりに、空気の通り道ができたからだ。

父がハンドルを握ったまま言った。

「……お前、言えたな」

褒めるのが下手な父の、精一杯の褒め言葉だった。幹夫は笑いそうになり、笑うと泣きそうにもなって、結局、口の端だけを少し上げた。

「……言っちゃった」

父は「そうだら」とだけ言って、前を向いた。その「そうだら」は、静岡の方言の柔らかさをまとっていて、幹夫の胸の奥に、やっと座れる場所を作った。

家に近づくころ、蝉の声がまた聞こえた。昼より少なく、短く、どこか遠い。それでも鳴いている。鳴くということは、まだ終わっていないということだ。

あの夏が終わる前に、幹夫は確かに一つ触れた。答えではない。解決でもない。ただ、触れた。触れたことで、戻れない場所が一つ増えた。

それは怖い。でも怖さは、終わりの合図じゃない。大人になる前の、ほんの少しの境目に足を置いた、という合図だ。

幹夫は窓の外の空を見た。富士は見えない。けれど、見えないことが今日の終わりを壊さなかった。見えないものも、届く。潮の匂いみたいに。言葉の余韻みたいに。

——あの夏が終わる前に。

胸の奥で、その言葉がもう一度、静かに揺れた。揺れは小さい。でも小さい揺れは、永遠の入口みたいに、確かにそこにあった。

 
 
 

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