ビッグ・ベンの「ぼん」で合図
- 山崎行政書士事務所
- 2025年9月14日
- 読了時間: 4分

朝のテムズは、ミルクをひとさじ落とした紅茶みたいに静かだった。ウェストミンスター橋の欄干に肘をのせると、青い空に綿菓子みたいな雲が一つ、エリザベス・タワーの上をのんびり流れていく。正式名はそうなのに、やっぱり口から出るのは「ビッグ・ベン」。金色の縁取りの時計が8時を少し過ぎ、石造りの議事堂は朝日で蜂蜜色に温まっていた。
写真を撮ろうと構えた瞬間、自転車のベルがチリンと鳴る。振り向くと通勤途中の青年が「先にどうぞ」と足を止め、私の背中が画角に入らないようにわざわざ欄干の向こうへ身をひねってくれた。シャッターを切ると、「ナイス・ライトだね、今朝は」と親指を立てる。ロンドンの一日は、見知らぬ誰かの小さな気遣いで始まった。
橋の真ん中あたり、緑の街灯の根元にツイードの上着を着た老人が立っていた。片手には古い懐中時計、もう片方には小さな茶色の袋。目が合うと、彼は袋をカサリと揺らして笑う。
「ペニーを知ってるかい? 昔はこの鐘の時間を少し早くしたい時、振り子にペニーを足したんだ。1枚で1日に0.4秒分速くなる。今日の私は、ただのまねっこさ」
そう言って彼は懐中時計の蓋を開き、私に文字盤を向けた。「9時ちょうどになったら、鐘の数を一緒に数えてくれないか」。うなずいて並んで待つ。風が少し強くなり、マフラーの端が飛びかけたが、さっきの青年が戻ってきてひょいと掴んで渡してくれた。「風は気まぐれだよ、ロンドンでは」と笑いながら。
やがて、街全体が一拍息を吸ったように静まり、最初の「ぼん」がきた。胸の奥に丸い音が落ちる。二つ、三つ……九つ。数え終えると老人は満足げに頷き、懐中時計の竜頭をほんの少し押した。
「よし。父の時計は、今日もロンドン時間に戻った」
聞けば、彼はウェストミンスター近くの時計修理店で長く働いていたという。毎月一度、仕事の癖が抜けずにここへ来ては、自分の懐中時計を鐘の音で合わせるのだそうだ。「時間は、誰かと一緒に数えると、少しやさしくなる」と彼は言った。
そこへ、黄色いベストを着た小学生の団体がやってきた。先生が「橋の端まで直線で歩く練習よ」と列を整えている。最後尾の少年が片手袋を落としたのに気づかず進んでしまい、私は拾って追いかけた。先生が気づいて笑い、「Thank you!」と少年の手にぎゅっとはめ直す。老人はポケットからピカピカの1ペニーを取り出し、先生に断ってから少年に渡した。
「今日は君のグッドラック・ペニーだ。次の“ぼん”が鳴るまで、ぎゅっと握ってごらん」
少年は真剣な顔でペニーを握りしめ、鐘が一つ鳴るたびに少しずつ表情がほころんでいく。最後は照れくさそうに「サンキュー」と言って、列に小走りで戻っていった。先生が「この街灯の下は、スーパーヒーローがいるのね」と冗談を言い、みんなでくすくす笑う。橋の上に、朝の冷たい空気ではなく、人の体温の層が薄く重なった。
そのあと私たちは、タワーを眺めながら紙コップの紅茶をすすった。老人は、修理店に持ち込まれた時計の話をいくつもしてくれた。プロポーズの夜に止まった時計、戦地から帰った日に再び動き始めた時計、祖父の形見を孫と分け合うために二つに分解してペンダントにした話。どれも事実と気持ちが入り混じった、時間の手触りのある物語だった。
別れ際、老人は茶色の袋からもう一枚ペニーを取り出し、私の手に乗せた。
「旅の間、これをポケットに。道に迷ったら、ぼん、の数だけ深呼吸してみる。たいていのことは、それで大丈夫だ」
私はペニーを親指で弾いて、銅の音を確かめる。橋の上を二階建てバスがゆっくり通り、観光客が上のデッキから手を振った。議事堂の尖塔に光がまたたき、タワーの四つの時計はそろって同じ時刻を示している。人それぞれに違うスピードで流れる朝が、ここで一瞬だけ揃うのが不思議だった。
歩き出すと、通りがかった屋台でベーコン・バップをひとつ買った。紙袋を開けると湯気が立ちのぼり、マスタードがつんと香る。噛むたびに、さっきの「ぼん」が口の中まで響いてくる気がした。角を曲がる前にもう一度だけ振り返る。エリザベス・タワーは変わらず真面目な顔で、でもどこか誇らしげに、ロンドンの朝を見守っている。
ポケットの中の1ペニーは、いつのまにか指の熱で少し温かい。旅が終わっても、あの橋の街灯の下で交わした笑いと「ぼん」の数え歌を思い出せば、私の時間もきっとやさしいほうへ進むだろう。ロンドンは、そうやって見知らぬ人同士の一分を、そっとつないでくれる街だった。





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